第117話 世界最強、突入
「対象ダンジョンの位置、出ました!」
職員の声が、ギルド内に響いた。
支部長が端末を受け取り、画面を確認する。そこには、市外の地図が表示されていた。
旧採石場跡地。現在はダンジョン管理区域となっている場所。
その一点に、赤い印がついている。
「ここだ」
支部長は蓮へ画面を向けた。
「市外の旧採石場跡地。管理区域内にあるAランクダンジョンだ。現在はSランクへ変異し、周辺は封鎖されている」
蓮は画面を見た。
道路。線。地名。距離。
いくつもの情報が表示されている。だが、蓮にはすぐに理解できなかった。
どの道を通ればいいのか。どこで曲がればいいのか。
画面の中の線が、現実のどこを指しているのか。まだ、蓮には難しい。
けれど、そこで黙っている時間も惜しかった。
蓮はポケットからスマートフォンを取り出す。
「……俺のスマホにも」
支部長が蓮を見る。
「何?」
「……場所、入れてくれ」
一瞬、職員たちが固まった。
世界ランキング第一位。Unknown。
その正体だと判明したばかりの男が、スマートフォンに目的地を入れてほしいと言っている。
あまりにも普通で。あまりにも不慣れな頼みだった。
だが、蓮の目は真剣だった。
支部長はすぐに職員へ指示を出す。
「入れてやれ」
「は、はい!」
職員が蓮のスマートフォンを受け取り、震える手で操作する。
地図アプリを開く。目的地を設定する。
現在地から、対象ダンジョンまでの案内が表示された。
「これで目的地までの案内が出ます。ここを押せば、現在地からの経路が表示されて――」
「……分かった」
蓮はスマートフォンを受け取る。
画面には、目的地までの線が出ていた。けれど、蓮はすぐに顔を上げた。
「……どっち?」
職員が瞬きをする。
「どっち、とは……?」
「……向かう方」
支部長は、そこでようやく理解した。
蓮は道順を聞いているのではない。細かい経路を理解しようとしているのでもない。
ただ、どちらへ向かえばいいのか。それだけを知ろうとしている。
支部長は窓の外へ視線を向けた。そして、迷わず指を差す。
「あちらだ」
蓮はその指先を見た。まっすぐに。
その先に、美月がいる。そう理解するように。
「……分かった」
蓮は短く答えた。そして、歩き出した。
ギルド内の視線が、その背中を追う。誰も声をかけられなかった。
世界ランキング第一位。Unknownの正体。
七年間、誰も辿り着けなかった存在。その男が、今、ただ一人を助けるために動いている。
蓮はギルドの扉を開けた。
外にも人が集まっていた。冒険者。職員。騒ぎを聞きつけた者たち。
何人かはスマートフォンを手にしている。
すでに情報は広がり始めていた。
ランキング表示が変わった。Unknownが黒瀬蓮になった。ギルドに、その本人がいる。
そんな声が、小さな波のように周囲へ伝わっている。
だが、蓮は誰も見なかった。
支部長が指差した方向を見る。細かい道順は分からない。地図の読み方も、まだ十分ではない。
けれど、向かう方は分かった。
そこに、美月がいる。
「……美月」
小さく名前を呼ぶ。
次の瞬間、蓮の足元に風が集まった。
最初は、ほんのわずかな揺れだった。地面の砂が浮く。服の裾が揺れる。髪が風に流れる。
「……え?」
誰かが声を漏らした。
風が渦を巻く。
蓮の身体が、ふわりと地面から離れた。そのまま、ゆっくりと上へ。
ギルドの入口より高く。屋根より高く。周囲の建物よりも高く。
冒険者たちは、ただ見上げることしかできなかった。
「飛んでる……?」
「風魔法か?」
「いや、あんな制御、見たことないぞ……」
空中で、蓮はもう一度スマートフォンを見る。
目的地の印。自分の位置。進むべき方向。
それだけ確認する。
そして、顔を上げた。
蓮の周囲の風が、一気に収束する。
次の瞬間。
蓮の姿が消えた。
誰の目にも追えない速さで、空の向こうへ。
遅れて、強い風だけがギルド前を吹き抜けた。
「うわっ!」
職員が思わず腕で顔を庇う。
冒険者たちは、しばらく声も出せなかった。
「……飛んだ?」
「いや……消えた」
「今のが、黒瀬蓮……?」
ざわめきが広がる。
その中で、支部長だけが空を見上げていた。
蓮が消えた方角。美月たちが閉じ込められているダンジョンの方角。
そこを見つめ、低く呟く。
「……あれが、Unknownか」
その声には、驚きだけではない。かすかな希望が混じっていた。
空の上。
蓮は風をまとい、一直線に進んでいた。
眼下で街が流れていく。建物が後ろへ消える。道路も、車も、人も、すべてが小さくなっていく。
風が耳元を裂く。普通の人間なら、呼吸すらできない速度。
だが、蓮は気にしない。
スマートフォンの画面を時折確認する。細かい道は分からない。
けれど、自分の位置が目的地に近づいていることだけは分かる。それで十分だった。
美月がいる。美月が危ない。
その事実だけが、蓮を前へ進ませる。
「……間に合え」
小さな声は、風に飲まれて消えた。
市街地が遠ざかる。建物が減り、道路の数も少なくなる。
やがて、地面の色が変わった。
旧採石場跡地。切り開かれた岩肌。管理用のフェンス。封鎖線。集まる車両。人の群れ。
その中心に、黒く歪んだ空間が見えた。
ダンジョンの入口。
蓮は一気に高度を下げた。
風が地面を叩く。砂埃が舞い上がる。
封鎖区域の手前に、蓮は降り立った。
「何だ!?」
「空から人が――!」
警備員が反射的に駆け寄る。
「止まってください! ここから先は立ち入り禁止です!」
蓮はポケットから冒険者カードを取り出した。さっき発行されたばかりのカード。
そこには、名前が刻まれている。
黒瀬蓮。
「……通してくれ」
警備員はカードを見る。
その瞬間、表情が固まった。
「黒瀬……蓮……」
現地の職員が通信機に手を当てる。
直後、通信が入った。
『ギルド本部より通達。黒瀬蓮を通せ。支部長命令だ』
職員の顔色が変わる。
「通達確認! 黒瀬蓮さんを通します!」
周囲がざわめいた。
「黒瀬蓮って……」
「さっきランキングが変わったっていう……」
「Unknownの正体……?」
視線が集まる。
だが、蓮は気にしなかった。蓮の目は、入口だけを見ていた。
黒く歪んだダンジョン。空間が脈打つように揺れている。
入口周辺には、濃い魔力が渦巻いていた。普通の魔力ではない。
外へ漏れ出すだけで、空気を重くし、人の身体を押し返すほどの圧。
封鎖線の内側では、何人かの冒険者が歯を食いしばって入口を睨んでいる。だが、誰も近づけない。
負傷した警備員が、腕に包帯を巻いて座り込んでいた。入口に近づこうとして、魔力の逆流に弾かれたのだ。
「待ってください!」
現地職員が蓮に声をかける。
「入口の魔力干渉が強すぎます! 近づくだけでも危険です!」
「……美月は中か」
「内部に取り残されている可能性が高いです。ただ、現在位置は不明です。階層接続も乱れていて、通信も途絶しています」
「……分かった」
蓮は歩き出した。
「まだ説明が――」
職員の声は、途中で止まった。
蓮が封鎖線を越えた瞬間、入口から黒い魔力の波が押し寄せたからだ。
重い圧力。周囲の職員たちが、思わず後ずさる。
Aランク冒険者ですら、近くに立っているだけで呼吸を乱すほどの魔力。
だが、蓮は止まらなかった。
一歩。二歩。三歩。
黒い魔力が蓮の身体にぶつかる。服が揺れる。髪が流れる。
だが、蓮の足取りは変わらない。
「嘘だろ……」
「押し返されてない……」
「あの魔力圧の中を、普通に歩いてるぞ……」
蓮は入口の前に立った。
黒く歪む空間が、低く唸るように揺れている。まるで侵入者を拒むように。
蓮は右手を上げた。そして、軽く魔力を流す。
それだけだった。
轟音が鳴る。
入口を覆っていた歪みが、一瞬だけ裂けた。道が開く。
周囲の冒険者たちが、言葉を失った。
蓮は振り返らない。
「……美月」
その名だけを呟き、蓮はダンジョンへ足を踏み入れた。
外の光が消える。視界が切り替わる。
青黒い魔力の光が、歪んだ壁を照らしていた。
内部は、濃い魔力に満ちている。普通の冒険者なら、それだけで呼吸を乱すほどに。
だが、蓮は気にもしなかった。
この程度の魔力圧で足を止めていたら、蓮は十年間、生き残れなかった。
一階層。
だが、通常の一階層ではない。
壁は歪み、床には亀裂が走り、通路は不自然に曲がっている。空間そのものが、変質していた。
蓮は周囲を見る。
美月の気配が分かるわけではない。特別な探知があるわけでもない。
だが、魔力の流れは読める。
どこへ流れているのか。どこが深いのか。どこが危険で、どこが歪んでいるのか。
蓮は十年間、それを読みながら生きてきた。読めなければ、死んでいた。
「……下か」
蓮は走り出した。
通路の奥から、魔物が現れる。黒い甲殻を持つ獣型の魔物。
浅層にいるはずのない濃い魔力をまとっている。
魔物が咆哮する。だが、蓮は止まらない。
すれ違う瞬間、蓮の腕が振られた。
次の瞬間、魔物の身体が壁に叩きつけられる。骨が砕ける音。黒い体液が床に散る。
魔物は動かなくなった。死骸が残る。
蓮は振り返らない。魔石も素材も回収しない。
今は、そんなものに意味はなかった。
次の通路。
床が沈む。
罠。
蓮は足元を見るより先に、軽く跳んだ。沈んだ床から、黒い杭が突き出す。
だが、蓮はすでにその先へ着地している。
階段は半分崩れていた。蓮は構わず飛び降りる。
二階層。三階層。
魔力の流れがねじれる。通路が、本来とは違う場所へ繋がっている。
蓮は壁に手を当てた。流れを読む。
濃い魔力が、下へ沈んでいる。その先へ向かう。
「……こっち」
蓮は壁を殴った。
轟音。歪んだ壁が砕け、向こう側に別の通路が現れる。
そこには、三体の魔物がいた。
岩のような皮膚。太い腕。黒い角。
美月たちが苦戦した魔物に近い。だが、蓮にとっては足止めにもならない。
一体目の首を掴み、床へ叩きつける。二体目の攻撃を避け、その腹を蹴り抜く。
三体目が背後から腕を振り下ろす。
蓮は振り返らず、風の刃を放った。魔物の腕が飛び、巨体が崩れる。
床に死骸が残る。
蓮はそれを越えて進んだ。
血も。体液も。砕けた甲殻も。
何も見ない。
美月がいる。ただ、それだけだった。
一方、その頃。
ダンジョン深部。
美月たちは、さらに追い込まれていた。
ひなたの端末には、もう正確な現在地が表示されない。
四十。不明。四十二。不明。四十三。
数字が揺れるたびに、ひなたの表情が青ざめていく。
「……また、深くなってます」
声がかすれていた。
魔力の消耗が激しい。回復魔法。索敵。支援。
どれも必要だった。けれど、そのすべてがひなたの体力を削っている。
玲奈は前を歩いていた。腕の傷は塞がっている。
だが、完全に治ったわけではない。動くたびに、表情がわずかに歪む。
「本当に……しつこいね、このダンジョン」
玲奈が笑おうとする。だが、その声に余裕はなかった。
美月は二人の様子を見ながら、杖を握り直した。
「止まらないで。広い場所に出たら、一度だけ休む」
「休ませてくれると思う?」
「休ませる」
美月は短く答えた。
その言葉に、玲奈がわずかに笑う。
「さすがリーダー」
次の瞬間、前方の壁が脈打った。黒い魔力が走る。
通路が変わる。さっきまであったはずの道が塞がり、別の通路が開いた。
ひなたが息を呑む。
「またです……!」
「戻る道は?」
「消えました……」
美月は奥歯を噛む。
焦ってはいけない。焦れば、判断を間違える。
判断を間違えれば、二人を死なせる。
「前へ」
「了解」
「はい……!」
三人は進む。
だが、その先から魔物の気配が近づいていた。一体ではない。複数。
重い足音が、通路の奥から響いてくる。
美月は杖を構えた。
「戦闘は短く終わらせる。ひなたは防御優先。玲奈は無理に踏み込まないで」
「分かってる」
玲奈が剣を構える。その手が、わずかに震えている。
美月は気づいた。けれど、玲奈は下がらない。
ひなたも、青い顔のまま杖を握っている。
美月は息を吸った。
「帰るよ」
二人が顔を上げる。
「三人で、絶対に」
魔物が現れる。
黒い角。硬い皮膚。異様に膨れ上がった魔力。
美月は迷わず魔法を放った。
爆音が、深い階層に響いた。
同じ頃。
蓮は二十階層を越えていた。
本来なら、調査隊が慎重に進む場所。地図を確認し、魔物を避け、魔力濃度を測りながら進む場所。
だが、蓮は止まらない。
階段がなければ、壁を壊す。道が塞がれば、魔力の薄い亀裂を見つけて破る。
魔物がいれば、一撃で倒す。罠があれば、踏む前に潰す。
異常な魔力が行く手を阻んでも、蓮は気にもしない。
美月がいる。ただ、それだけだった。
三十階層。
壁の色が変わる。魔力がさらに濃くなる。空気が重く沈む。
普通の冒険者なら、ここで膝をつく。
だが、蓮は速度を落とさなかった。
「……まだ下」
蓮は呟く。その目は、暗い通路の奥を見ていた。
世界がSランクと呼んだダンジョン。冒険者たちが恐れ、ギルドが救助隊すら出せずにいた場所。
その中を、蓮は一人で進んでいた。
名声のためではない。力を示すためでもない。世界ランキング第一位としてでもない。
ただ一人。
神崎美月のもとへ辿り着くために。
蓮はさらに深くへ向かう。
止まらない。迷わない。振り返らない。
十年間、誰にも届かなかった男が。
今度は、誰かに届くために。
Sランク変異ダンジョンを、駆け抜けていた。




