第115話 緊急速報
美月が出かけてから、何時間かが過ぎていた。
部屋の中は静かだった。
蓮はリビングのテーブルに座り、料理の本を開いている。ページには、いくつもの料理が並んでいた。
材料。作り方。火加減。調味料の量。
まだ分からない言葉も多い。けれど、少しずつ読めるようになってきた。
蓮は指で文字を追いながら、ゆっくりとページをめくる。
「…………」
美月が帰ってきたら、何か作れるだろうか。そう考える。
少し前までなら、そんなことは考えなかった。
食べることは、生きるためだった。作ることも、生きるためだった。
けれど今は違う。
誰かに食べてもらうために作る。誰かに喜んでもらうために考える。
それは、蓮にとってまだ慣れない感覚だった。けれど、不思議と嫌ではなかった。
蓮はページを止める。
そこには、まだ作ったことのない料理が載っていた。材料。手順。火加減。
難しそうではある。けれど、美月に食べてもらえたら。
そう考えると、少しだけ作ってみたいと思った。
「……次は、これかな」
小さく呟く。
そのとき、スマートフォンが視界に入った。テーブルの端に置いたままの画面。
蓮はそれを見る。美月からの連絡は、まだない。
「…………」
朝、美月は言っていた。
すぐ帰るね。終わったら、ちゃんと連絡するから。
蓮はスマートフォンを手に取る。画面を確認する。
通知はない。
「……遅いな」
声に出してから、蓮は少しだけ黙った。
遅い。そう思った。
けれど、仕事なら予定通りに終わらないこともある。美月は冒険者だ。ダンジョンに行っている。
連絡できない時間もあるのかもしれない。
蓮はそう考え、スマートフォンをテーブルに戻した。
テレビはついたままだった。美月がいない間、静かすぎる部屋を少し紛らわせるために、蓮がつけたものだ。
内容は、ほとんど頭に入っていない。
街の話題。天気。どこかの店の紹介。
蓮にはまだ、そういうものの意味がよく分からない。けれど、その音があるだけで、部屋の静けさは少しだけ薄くなる。
蓮はもう一度、料理の本へ目を戻した。
その瞬間だった。
テレビから、鋭い音が鳴った。画面が切り替わる。
赤い文字。
緊急速報。
蓮の視線が、自然とテレビへ向いた。
『速報です』
アナウンサーの声が、それまでとは違う硬さを帯びていた。
『本日午後、市外にあるAランクダンジョンにて、大規模な異常変化が確認されました』
「……Aランクダンジョン?」
蓮が小さく呟く。
美月が行った場所。昨日、美月が話していた。
Aランクダンジョンの調査。魔力濃度が高くなっている。魔物の動きが少し変わっている。
けれど、危険度はAランクのまま。調査は二十階層まで。
そう言っていた。
蓮はテレビを見つめたまま、動かなかった。
『冒険者ギルドによりますと、対象のダンジョンでは急激な魔力濃度の上昇と、内部構造の変化が確認されており、現在、危険度はSランクへ引き上げられたとのことです』
Sランク。
その言葉の意味を、蓮は詳しくは知らない。けれど、美月から聞いていた。
冒険者にはランクがある。ダンジョンにも危険度がある。
Fから始まり、E、D、C、B、A。そして、その上にSがある。
最も危険な領域。限られた冒険者しか挑めない場所。
『現在、ダンジョン周辺は封鎖され、一般冒険者の立ち入りは禁止されています』
蓮の指が、テーブルの上で止まる。
『内部には、調査に入っていた冒険者パーティーが取り残されている可能性があり、ギルドが救助体制の準備を進めています』
取り残されている。
その言葉が、蓮の胸に引っかかった。
「…………」
スマートフォンを見る。通知はない。
美月からの連絡は、まだない。
蓮はスマートフォンを手に取り、美月の連絡先を開いた。
神崎美月。
最初に登録された名前。美月が、自分で入れてくれた名前。
蓮は画面に触れる。
発信音が鳴る。
一回。二回。三回。
だが、繋がらない。
しばらくして、通話は切れた。
「…………」
蓮はもう一度かける。
結果は同じだった。繋がらない。
テレビでは、速報が続いている。
『現時点で、取り残されたパーティーの詳しい情報は発表されていません。ギルドは救助隊の編成を急いでおり――』
そこで、画面が切り替わった。
現地の映像。遠くに見える封鎖区域。集まる冒険者たち。警備員。報道陣。
そして、ダンジョン入口周辺に揺れる黒い空間。
蓮は、その映像を見ても場所が分からなかった。
市外。Aランクダンジョン。
それだけでは、どこなのか分からない。美月が向かった場所を、蓮は知らない。
「……どこだ」
声が漏れる。
テレビの中で、アナウンサーが新たな情報を読み上げた。
『続報です。関係者によりますと、内部に取り残されていると見られるのは、Aランク冒険者・神崎美月さんが率いる三人パーティー、《アストラ》である可能性が高いとのことです』
時間が、止まったように感じた。
神崎美月。《アストラ》。
その名前を聞いた瞬間、蓮の目がわずかに見開かれる。
「……美月?」
声は、小さかった。けれど、確かに震えていた。
蓮はスマートフォンを見る。
もう一度、美月へ電話をかける。
一回。二回。三回。
繋がらない。何度かけても、繋がらない。
蓮はゆっくりと立ち上がった。椅子が小さく音を立てる。
テレビでは、まだ速報が流れている。
『ギルドは現在、救助隊の編成を急いでいますが、対象ダンジョンはSランクへ変異しており、入口周辺でも強い魔力干渉が確認されているとのことです』
救助隊。編成。準備。
それらの言葉が、蓮の耳に入る。けれど、意味としては遠かった。
美月が中にいる。それだけが、蓮の中で大きくなっていく。
「……助けに行く」
蓮はそう言った。
誰に向けた言葉でもなかった。自分に向けた言葉だった。
すぐに玄関へ向かおうとする。けれど、数歩進んだところで足が止まった。
場所が分からない。
美月が向かったダンジョンがどこにあるのか。どう行けばいいのか。
何も分からない。
蓮は振り返る。テレビには、封鎖区域の映像が映っている。
だが、それを見ても行き方は分からない。
蓮は考えた。
美月がいつも向かっていた場所。依頼を受ける場所。ダンジョンの情報を管理している場所。
冒険者たちが集まる場所。
「……ギルド」
その言葉が、蓮の口からこぼれた。
冒険者ギルド。
そこへ行けば、美月が向かったダンジョンの場所が分かる。何が起きているのかも分かる。
どうすれば中へ入れるのかも、きっと分かる。
けれど――
「……場所」
蓮は小さく呟いた。
冒険者ギルドがどこにあるのか。蓮は知らない。
美月が出かけるのを、何度も見送っていた。けれど、自分で行ったことはなかった。
蓮はスマートフォンを手に取る。画面を開く。
美月に教えてもらった使い方を思い出す。
調べたいことがあるときは、文字を入れる。場所を知りたいときは、地図を見る。
蓮はぎこちない手つきで、検索欄に文字を打った。
冒険者ギルド。
画面に地図が表示される。現在地からの道順。徒歩での時間。
知らない記号や表示も多い。けれど、向かうべき方向だけは分かった。
「……ここか」
蓮はスマートフォンを握りしめる。
料理の本は、開いたままだった。テレビの音だけが、部屋に響いている。
『ギルドは、一般の方および無許可の冒険者に対し、対象区域へ近づかないよう呼びかけています――』
蓮は玄関へ向かった。靴を履く。
もう一度、スマートフォンの地図を見る。ドアノブに手をかける。
その手に、迷いはなかった。
十年間。
蓮は、生きるために戦ってきた。食べるために。眠るために。明日を迎えるために。
ただ、自分が生き残るために。
けれど今は違う。
美月がいる。美月が、危ない。
それだけで、蓮の身体は動いた。
ドアを開ける。外の光が差し込む。
「……美月」
蓮は小さく名前を呼んだ。
その頃。
ダンジョン内部。
美月たちは、さらに深い階層へ押し込まれていた。
上へ戻る道を探している。休める場所を探している。魔物を避ける道を選んでいる。
それなのに、階層は少しずつ深くなっていく。
ひなたの端末は、もうまともに現在地を示していなかった。
三十六。不明。三十八。不明。四十。
数字が揺れるたびに、三人の表情は重くなる。
「……四十って、冗談でしょ」
玲奈が息を切らしながら言った。
その腕には、浅くない傷があった。ひなたの回復魔法で出血は止まっている。
けれど、完全には治っていない。ひなた自身も魔力の消耗が激しく、顔色が悪かった。
「すみません……完全には……」
「謝らないで」
玲奈は短く笑う。
「動けるだけで十分」
美月は二人の様子を確認しながら、前方を見た。
通路は暗い。壁の魔力は濃く、青白い光が不規則に脈打っている。
空気は重い。息をするだけで、身体の奥に負荷がかかる。
この環境にいるだけで、体力も魔力も削られていく。
「ここで少し休みたいけど……」
美月が呟く。
ひなたは索敵を続けながら首を横に振った。
「近くに魔物反応があります。止まると囲まれる可能性が高いです」
「分かった」
美月は即座に判断する。
「動くよ。戦闘は避ける」
「了解」
「はい……」
三人は再び歩き出す。
走る体力は温存しなければならない。けれど、遅すぎても追いつかれる。
その中間。限界を見極めながら進む。
玲奈が前を歩き、時折ふらつく。美月はそれに気づきながらも、何も言わなかった。
言えば、玲奈は無理に笑う。まだ大丈夫だと言う。
だから、美月は黙って支援魔法を薄く重ねた。玲奈が気づかないほどに。
「美月さん」
ひなたが小さく声をかける。
「この先、少し広い空間があります。でも……」
「でも?」
「魔力が濃いです。かなり」
美月は足を止める。
戻る道はない。別の道も不安定。魔物の反応は後方から近づいている。
進むしかない。
「行くよ」
美月は言った。
「ただし、広間に入ったらすぐ状況確認。危険なら抜ける」
「分かった」
「はい」
三人は広間へ向かった。
その途中で、美月はふと朝のことを思い出した。
蓮が玄関で言った言葉。
気をつけて。
そして、自分が返した言葉。
すぐ帰るね。
「…………」
胸が痛む。
帰るつもりだった。本当に、すぐ帰るつもりだった。
調査だけ。二十階層まで。危なければ戻る。
そう決めていた。
なのに、戻れない。
「……すぐ帰るって、言ったのに」
小さな声だった。
玲奈が振り返る。
「美月?」
「ううん」
美月は首を横に振った。
「何でもない」
何でもないわけがなかった。けれど、今は言えない。
弱音を吐けば、二人を不安にさせる。リーダーである自分が折れるわけにはいかない。
美月は杖を握り直した。
生きて帰る。三人で。
そして、蓮のところへ帰る。
地上。
蓮は家を飛び出していた。
向かう先は、ダンジョンではない。冒険者ギルド。
美月が向かった場所を知るために。
そして――
美月を助けるために。




