第114話 崩れた階層
結界の向こう。暗闇の中で、いくつもの目が光っていた。
美月は杖を握り直す。玲奈は剣を構え、ひなたは震える息を整えながら支援魔法の準備をしていた。
小さな広間。休むために見つけたはずの場所。
けれど、そこも安全ではなかった。
「魔物反応、四……いえ、五体です」
ひなたの声が揺れる。
「近いです」
「玲奈、前をお願い」
「任せて」
玲奈が一歩前へ出る。
その瞬間、暗闇の中から魔物が飛び出してきた。
獣のような体。異様に発達した前脚。そして、背中に浮かぶ黒い紋様。
資料にある魔物とは違う。少なくとも、この階層に出る魔物ではない。
「来る!」
玲奈が叫ぶと同時に、魔物が床を蹴った。
速い。
玲奈は剣を横に振り抜く。刃が魔物の肩を裂いた。
だが、止まらない。
魔物は勢いのまま、玲奈へ爪を振り下ろした。
「っ!」
玲奈は身体をひねって避ける。爪が床を削り、石片が飛ぶ。
美月がすぐに魔法を放った。
「凍れ!」
氷の鎖が魔物の脚を絡め取る。動きが止まった一瞬。
玲奈が踏み込む。
「そこ!」
剣が首元を深く裂いた。
魔物が倒れる。重い音。床に黒い体液が広がった。
だが、息をつく暇はなかった。
二体目、三体目が同時に飛び出してくる。
「ひなた!」
「はい!」
ひなたの支援魔法が玲奈を包む。玲奈の動きがわずかに軽くなる。
美月は結界を維持しながら、魔法を重ねた。
炎。氷。光。
三人の連携は崩れていない。だが、敵が硬い。動きも速い。
倒せない相手ではない。けれど、一体倒すたびに、確実に体力と魔力が削られていく。
「くっ……!」
玲奈の剣が魔物の爪を受け止める。金属が軋むような音が響いた。
「玲奈、右に避けて!」
美月の声に、玲奈が即座に反応する。
次の瞬間、美月の光弾が魔物の胸を貫いた。魔物の巨体が揺れる。
そこへ玲奈が剣を叩き込む。ようやく、三体目が倒れた。
残り二体。
ひなたが息を乱しながらも、支援を切らさない。
「足止めします!」
床に魔法陣が広がる。魔物の動きが一瞬だけ鈍る。
その隙に、美月が杖を掲げた。
「貫け!」
鋭い氷柱が連続で放たれる。一体の腹部を貫き、もう一体の脚を砕いた。
「終わり!」
玲奈が最後の一体へ踏み込み、剣を振り下ろす。
魔物は床に倒れた。
広間に、荒い呼吸だけが残る。
五体の魔物の死骸が、床に散らばっていた。黒い体液が石床に広がり、濃い魔力の匂いが空気に混じる。
玲奈は剣についた体液を振り払い、肩で息をした。
「……これ、あと何回もやれる戦いじゃないね」
いつもの軽い調子は、もうなかった。
ひなたも膝に手をつき、呼吸を整えている。
「回復を……」
「待って」
美月は短く止めた。
「まず、自分の魔力を確認して」
ひなたは一瞬だけ黙り、それから小さく頷いた。
「……かなり減っています」
「無理に全員を回復しなくていい。今は動ける範囲で温存する」
「はい……」
美月は広間を見渡す。
ここには長くいられない。魔物が集まってくる。結界を張り続けるにも限界がある。
「移動する」
美月は言った。
「上へ戻る道を探す。ここで止まっていたら囲まれる」
「了解」
玲奈が剣を構え直す。
ひなたも端末を取り出し、地図と索敵反応を確認した。だが、その表情はすぐに曇る。
「……地図が、合いません」
「現在位置は?」
「表示が乱れています。二十階層周辺のはずなのに、階層番号が固定されません」
端末の画面では、数字が何度も揺れていた。
二十。二十一。不明。十九。
そしてまた、不明。
表示が定まらない。
玲奈が顔をしかめる。
「端末の故障?」
「違うと思います」
ひなたは首を横に振った。
「空間の接続が乱れているせいで、現在地を読み取れないんです」
美月は静かに息を吐いた。
階層接続異常。ギルドの監視水晶にも出ていたはずの反応。
それが、内部ではさらに深刻な形で現れている。
「上へ続く反応は?」
美月が尋ねる。
ひなたは索敵に集中する。淡い光が床を這い、複数の通路へ伸びていく。
けれど、すぐに顔を歪めた。
「塞がっています」
「全部?」
「近くにある上方向の通路は、ほとんど途中で閉じています。階段らしい反応もありますけど、先が途切れています」
「他には?」
「一つだけ、魔力の乱れが少ない道があります」
ひなたが広間の奥を指差す。
そこには、細い通路が続いていた。壁の光は弱い。
他の道よりは安定して見える。だが、その通路は明らかに下へ傾いていた。
玲奈が低く言う。
「下りるしかないってこと?」
美月はすぐに首を横に振った。
「下りるんじゃない」
玲奈とひなたが美月を見る。
美月は二人を見返し、はっきりと言った。
「生き残れる道を選ぶだけ」
深層へ進むつもりはない。攻略するつもりもない。
目的はただ一つ。生きて帰ること。
そのために、今もっとも危険の少ない道を選ぶ。それだけだ。
「無理に戦わない。魔物が多ければ引き返す。上へ戻れそうな道があれば、そっちを優先する」
「了解」
「はい」
三人は、下へ傾いた通路へ足を踏み入れた。
通路は静かだった。だが、その静けさが逆に不気味だった。
壁の魔力は弱い。けれど、完全に安定しているわけではない。
時折、遠くで何かが軋むような音がする。通路の奥から、冷たい風が吹いてくる。
美月は先頭ではなく、中央を歩いた。前には玲奈。後ろにはひなた。
どちらにもすぐ対応できる位置。普段なら自然にできていた隊列が、今はひどく重く感じる。
しばらく進むと、通路の先に広い空間が見えた。
美月は手を上げ、二人を止める。
「ひなた」
「確認します」
ひなたが索敵を広げる。
数秒。十秒。
ひなたの眉が寄る。
「魔物反応は遠いです。すぐ近くにはいません」
「空間の安定は?」
「……ここよりは安定しています。でも」
「でも?」
ひなたは端末を見る。
そして、息を呑んだ。
「階層推定が出ました」
玲奈が振り返る。
「今どこ?」
ひなたは声を震わせた。
「……三十二」
「三十二?」
玲奈の表情が固まる。
「は? 私たち、二十階層にいたよね?」
「はい……でも、端末はこの空間を三十二階層相当と判定しています」
「そんなの、普通に歩いただけで来られる距離じゃないでしょ」
その通りだった。
二十階層から三十二階層。本来なら、いくつもの階段を下り、複数の階層を越えなければ到達できない。
だが、三人はそんな距離を進んでいない。ただ、安定して見える通路を進んだだけだ。
美月は広間の空気を感じた。
濃い。明らかに、二十階層の魔力ではない。
魔物の気配も遠くにあるだけで、圧が違う。ここは、浅い階層ではない。
「階層接続が、崩れてる」
美月が低く言った。
玲奈が奥歯を噛む。
「つまり、戻る道を探してるのに、勝手に深いところへ繋がってるってこと?」
「そう考えた方がいい」
「最悪じゃん」
玲奈は笑おうとした。けれど、その声は乾いていた。
ひなたは端末を握りしめている。
「上へ戻る反応は……やっぱり不安定です。さっきの道も、もう同じ場所に繋がっているとは限りません」
「戻っても戻れないかもしれないってこと?」
「はい……」
美月はすぐに決めた。
「この広間で一度確認する」
「休む?」
「短時間だけ。周囲の道を調べる。安全な道と、上へ戻れる可能性がある道を探す」
「分かった」
三人は広間の中央へ移動した。
美月が簡易結界を張る。ひなたは結界の内側で索敵を始め、玲奈は入口側を警戒した。
数分。
それだけの時間が、とても長く感じられた。
ひなたの額に汗が浮かぶ。索敵魔法を使うだけでも、いつもより消耗が激しい。
濃すぎる魔力が、魔法の流れを乱しているのだ。
「……駄目です」
ひなたが小さく言った。
「上へ戻る道が見つかりません」
「全部、下?」
「下か、途中で途切れています。それに……魔物の反応が増えています」
玲奈が剣を握り直す。
「どこから?」
「奥です。複数。こちらに向かっているかは分かりません。でも、動きが速いです」
美月は結界を解いた。
「移動する」
「また?」
「ここで待っても囲まれる」
玲奈は短く息を吐いた。
「ほんと、休ませてくれないね」
美月は返事をしなかった。その通りだったからだ。
三人は再び動き出した。
通路を選ぶ。索敵で反応を避ける。戦闘を避けられるなら避ける。
どうしても避けられない時だけ、短時間で倒す。そうやって進むしかなかった。
だが、深い階層へ押し込まれたことで、魔物の強さは確実に上がっていた。
次に遭遇した魔物は、玲奈の剣を一度弾いた。
「っ、硬い!」
玲奈の腕が痺れる。
美月が即座に氷の槍を放つ。だが、魔力の流れが乱れ、狙いがわずかに逸れた。
「くっ……!」
魔物の爪が玲奈へ迫る。
ひなたの支援魔法が間に合い、玲奈の身体が紙一重で横へ流れた。
「助かった!」
「長くは持ちません!」
ひなたの声にも余裕がない。
美月は魔力を整え直す。濃すぎる外部魔力に飲まれないよう、自分の魔力を強く固定する。
「玲奈、足!」
「了解!」
玲奈が低く踏み込み、魔物の膝裏を斬る。そこへ美月の炎が叩き込まれた。
魔物が倒れる。床に体液が広がる。
だが、三人は素材も魔石も見なかった。回収する余裕などない。
「次が来る前に動くよ」
「分かった」
「はい……!」
三人は走った。
その頃。
地上の冒険者ギルド。
監視室では、さらに深刻な報告が上がっていた。
「内部反応、位置が乱れています!」
「《アストラ》の反応は!?」
「三名分あります! ですが、階層推定が安定しません!」
職員が監視水晶を凝視する。
水晶の中で、三つの光点が揺れていた。先ほどまで二十階層付近にあった反応。
それが一瞬消えたかと思うと、次に表示された場所は大きくズレていた。
「反応が……深いです!」
「何階層だ!」
「推定三十階層台! ただし、接続異常の影響で確定できません!」
監視室の空気が凍りつく。
二十階層にいたはずの《アストラ》が、三十階層台。ありえない移動速度。
いや。移動したのではない。
移動させられた。
ギルドマスターは監視水晶を睨む。
「階層接続まで崩れているのか……」
職員たちは青ざめる。
階層接続異常。それは、ダンジョンの道そのものが正常に繋がっていないことを意味する。
上へ向かう道が下へ繋がる。浅層の通路が深層へ繋がる。
地図も、経験も、意味を失う。救助する側にとっても最悪だった。
「入口安定化は?」
「作業中です! ですが、魔力逆流が強すぎます!」
「救助隊は!」
「Aランク上位の候補者は集まっています! ただ、Sランク相当の前衛がまだ到着していません!」
「他支部からの返答は?」
「最速でも、まだ時間がかかります!」
時間。
また、その言葉だった。
時間がかかる。準備が必要。戦力が足りない。
それは正しい。正しいが、その間にも中の三人は消耗していく。
「報道機関への発表は」
「まもなく出ます。対象ダンジョンのSランク変異、周辺封鎖、救助準備中と発表予定です」
「内部パーティー名は?」
「まだ伏せています」
ギルドマスターは頷いた。
「混乱を広げるな。ただし、情報は隠しすぎるな。周辺住民の安全が最優先だ」
「はい!」
職員たちが走る。
監視水晶のひびは、さらに広がっていた。その奥で、三つの光点が揺れている。
まだ消えていない。だが、先ほどより弱い。
ギルドマスターは拳を握りしめた。
「持ちこたえろ……」
低く、祈るように呟く。
「必ず、道を作る」
だが、その声は監視室の中に消えるだけだった。
ダンジョン内部。
美月たちは、三十二階層相当の空間からさらに移動していた。
上へ戻る道を探している。休める場所を探している。魔物を避けられる道を選んでいる。
それなのに、進むたびに空気は重くなった。壁の魔力は濃くなり、通路は少しずつ暗くなる。
ひなたの端末は、何度も階層推定を乱した。
三十二。不明。三十五。不明。三十七。
「……また、下がっています」
ひなたが呟く。
玲奈が苦しそうに笑った。
「私たち、上に戻りたいんだけどね」
「分かってる」
美月は短く答える。
分かっている。けれど、道がない。
戻ろうとしても、通路は塞がる。安定した道を選べば、深層へ繋がる。
止まれば魔物が来る。戦えば消耗する。
それでも、美月は足を止めなかった。
玲奈も、ひなたも、まだ動ける。なら、終わりではない。
「美月さん」
ひなたが声を上げる。
「前方に広い空間があります。魔物反応は……今のところ、少ないです」
「そこへ向かう」
「はい」
三人は通路を進む。
広間に出る直前、美月は足を止めた。空気が違う。
さっきよりも、さらに重い。壁に走る魔力の筋が、脈打つように光っている。
まるで、ダンジョンそのものが三人の呼吸を聞いているようだった。
「……ここも、長くは無理そうだね」
玲奈が言う。
「少しだけ整える」
美月は答えた。
「ひなた、索敵。玲奈、入口警戒」
「了解」
「はい」
広間に入る。
美月はすぐに結界を張った。ひなたが索敵を広げる。
だが、数秒後。ひなたの顔色が変わった。
「……下層から、魔物反応」
「数は?」
「分かりません。複数です。かなり大きい反応が混じっています」
玲奈が小さく息を吐く。
「ほんと、最悪だね」
美月は広間の奥を見る。
そこにはまた、下へ続く道があった。暗く、冷たい道。
行きたくない。進むべきではない。
それでも、上へ戻る反応はない。
美月は二人を見た。
玲奈は疲れている。ひなたも魔力をかなり消耗している。
それでも、二人の目はまだ折れていなかった。
「まだ終わってない」
美月は言った。
「絶対に、生きて帰る」
玲奈が剣を握り直す。
「うん」
ひなたも震えながら頷く。
「帰ります」
美月は前を向いた。
上へ戻るために動いているはずだった。けれど、ダンジョンは三人を逃がさない。
階層は崩れ、道は繋がり変わり、出口は遠ざかっていく。
気づけば三人は――
本来なら到達するはずのない深層へと、押し込まれていた。




