第111話 違和感
ダンジョンの中は、静かだった。
地上から一歩入っただけで、空気が変わる。外の風も、人の声も、車の音も届かない。
代わりにあるのは、湿った壁。薄暗い通路。そして、空間全体に満ちる魔力の気配。
美月は杖を握り、周囲を見渡した。
「ひなた、索敵をお願い」
「はい」
ひなたが短く答え、目を閉じる。淡い光が足元に広がり、通路の先へと流れていく。
数秒後、ひなたは目を開けた。
「近くに魔物の反応があります。数は三体。記録通りなら、この階層に出るタイプです」
「了解」
美月は頷き、玲奈を見る。
「玲奈、前衛お願い」
「任せて」
玲奈が剣の柄に手を置き、前へ出る。三人は慣れた足取りで通路を進み始めた。
Aランクダンジョン。全五十階層。危険度は高い。
けれど、《アストラ》にとって未知の領域ではなかった。
美月が魔力の流れを読み、玲奈が前線を支え、ひなたが索敵と支援を行う。三人の連携は、何度も実戦を重ねて作られたものだった。
最初の階層は、ほとんど資料通りだった。通路の形。魔物の種類。魔力濃度。
多少高めではあるが、異常と呼ぶほどではない。現れた魔物も、記録にあるものと同じだった。
玲奈が前へ踏み込む。
「はっ!」
一閃。
魔物の体が斜めに裂け、その場に倒れ込む。続けて二体目。
美月の魔法が放たれ、魔物の足元を凍らせる。
「玲奈!」
「分かってる!」
玲奈が距離を詰め、剣を振り抜く。
三体目はひなたの支援魔法で動きを鈍らせ、そのまま玲奈が仕留めた。
戦闘は、すぐに終わった。
床には、倒れた魔物の身体が残っている。だが、今回は素材回収が目的ではない。
調査を優先するため、三人は周囲の安全だけを確認した。
「今のところは普通だね」
玲奈が剣についた黒い体液を軽く振り払う。
「そうだね」
美月は倒れた魔物を見つめる。
「ただ、油断はしないで」
「もちろん」
「魔力濃度はどう?」
美月がひなたに尋ねる。
ひなたは小さな魔道具を取り出し、数値を確認した。
「少し高めです。でも、ギルドの資料と大きな差はありません」
「分かった。予定通り進もう」
三人はさらに奥へ向かった。
一階層。二階層。三階層。
五階層までは、大きな異常はなかった。地図とも一致している。魔物も記録通り。
通路の崩れもない。通信具も問題なく反応している。
玲奈は少しだけ肩の力を抜いた。
「この感じなら、二十階層まで行って戻るだけで終わりそうだけどね」
「そうだといいですけど」
ひなたは慎重な表情のまま答える。
「魔力の流れが、少しだけ不安定です」
「不安定?」
美月が振り返る。
「はい。大きな乱れではありません。でも、一定じゃないんです。流れが強くなったり、弱くなったりしています」
「昨日の監視記録と似てるね」
「そうですね」
美月は通路の奥を見る。
まだ、撤退するほどではない。けれど、ただの誤差として流すには、少し気になる。
「記録しておいて」
「はい」
ひなたが端末に情報を残す。三人は慎重に進んだ。
六階層。七階層。
そのあたりから、少しずつ違和感が増え始めた。
最初に気づいたのは、ひなただった。
「……待ってください」
小さな声。けれど、緊張が混じっていた。
美月と玲奈はすぐに足を止める。
「どうしたの?」
「魔物の反応が、変です」
「数が多い?」
「いえ。数ではなく、動きです」
ひなたは目を閉じ、索敵範囲を広げる。淡い光が通路の奥へ伸びていく。
「この先に、複数の魔物がいます。でも、本来この階層では単独で行動する種類です。それが、まとまって移動しています」
玲奈が眉をひそめる。
「群れてるってこと?」
「はい。それに……」
ひなたの表情が曇る。
「こちらに向かってきているというより、奥へ逃げているように見えます」
「逃げてる?」
玲奈の声が低くなる。
魔物が逃げる。それ自体は珍しくない。だが、方向がおかしい。
通常、浅層の魔物は階層内の縄張りを大きく離れない。まして、奥へ向かって移動することは少ない。
美月は杖を握り直した。
「様子を確認する。戦闘になっても深追いはしない」
「了解」
「はい」
三人は足音を抑えて進んだ。
通路の先。曲がり角を越えたところで、魔物の群れが見えた。
四体。
確かに、本来なら単独で行動するはずの種類だ。それが互いにぶつかるようにして、奥へ奥へと進んでいる。
こちらには気づいているはずなのに、襲いかかってこない。まるで、何かから逃げているようだった。
「……変だね」
玲奈が小さく呟く。
「うん」
美月も同じ感覚を覚えていた。
魔物たちの目は、こちらを見ていない。怯えている。
いや。怯えさせられている。
何かに。
「倒す?」
玲奈が確認する。
美月は少し考えてから首を横に振った。
「今はいい。目的は討伐じゃない。動きを記録して進もう」
「了解」
ひなたが素早く記録を残す。三人は魔物たちを避けるように進んだ。
八階層。九階層。十階層。
違和感は、さらに形を持ち始めた。
壁の一部が、わずかに波打つように見えた。一瞬だけだった。だが、美月は見逃さなかった。
「止まって」
美月の声に、二人が足を止める。
「壁を見て」
玲奈とひなたが視線を向ける。
湿った黒い壁。一見、普通のダンジョンの壁だ。
しかし、よく見ると、表面に走る魔力の筋が一定ではない。呼吸するように、ゆっくりと明滅している。
「……これ、動いてる?」
玲奈が嫌そうに顔をしかめる。
「動いているというより、魔力が脈打っている感じです」
ひなたが答える。
「こんな記録、資料にはなかったよね」
「ありません」
美月は杖の先で壁に触れないよう、距離を取ったまま観察した。
異常。そう言っていい。
ただし、まだ危険度が急激に上がったと断定できるほどではない。
美月は息を整える。
「ここで一度、ギルドに報告する」
「うん。それがいい」
玲奈も真面目な表情で頷く。
美月は通信具を取り出した。浅層から中層手前までは、通信が通る。
多少ノイズは入るが、まだ使えるはずだった。
「こちら《アストラ》。十階層まで到達。記録にない魔物の群れ行動、壁面の魔力脈動を確認。魔力濃度は上昇傾向。現時点で戦闘継続に問題はありませんが、警戒を強めます」
少しの沈黙。
通信具から、かすかな雑音が混じった声が返ってきた。
『こちらギルド。報告を確認しました。危険を感じた場合は即時撤退してください』
「了解。予定通り二十階層まで確認し、そこで撤退判断を行います」
『了解しました。無理はしないでください』
「はい」
通信を切る。
美月は二人を見た。
「進む。ただし、撤退を優先する」
「分かった」
「はい」
三人は再び歩き出した。
十一階層。十二階層。
そこから、空気が少しずつ重くなった。
呼吸が苦しくなるほどではない。けれど、肌にまとわりつくような圧がある。
ダンジョン内の魔力が濃くなっている。美月はそれを、身体で感じていた。
玲奈も、いつもの軽さが少しずつ消えていく。
「さっきより、魔物の動きが速い」
戦闘後、玲奈が剣についた黒い体液を振り払った。
「記録より強い?」
「少なくとも、浅層の動きじゃないね」
美月は倒れた魔物の身体を見る。
今の魔物は、記録上では十階層前後に出るものだった。だが、動きが明らかに鋭かった。
力も強い。魔力に影響されているのかもしれない。
「ひなた、怪我は?」
「大丈夫です。支援も問題ありません」
「通信は?」
ひなたは通信具を確認する。
「少しノイズが増えています。でも、まだ繋がると思います」
「分かった」
美月は慎重に判断する。ここで戻る選択肢もある。
だが、調査範囲は二十階層まで。ギルドへも報告済み。
この異常がどこまで続いているのか、確認する必要がある。
ただし。
美月は心の中で線を引いた。
二十階層まで。そこを確認したら、引き返す。
「十五階層まで進んだ時点で、もう一度状態を確認する」
「了解」
十三階層。十四階層。十五階層。
そこで、ひなたが足を止めた。
「……通信が、乱れています」
通信具から、細かな雑音が聞こえていた。完全に途切れてはいない。しかし、音が不安定だ。
美月はすぐに通信を入れる。
「こちら《アストラ》。十五階層到達。魔力濃度の上昇、魔物の強化傾向、通信状態の悪化を確認。予定通り二十階層まで進み、そこで撤退します」
返答まで、少し時間があった。
『……こちら……ギルド……確認……撤退判断を……優先……』
声が途切れがちに届く。
ひなたが表情を硬くする。
「これ以上進むと、通信はかなり厳しいかもしれません」
「うん」
美月は通信具をしまう。
「二十階層まで行ったら、すぐ戻る」
「了解」
玲奈の声にも、もう軽さはなかった。
三人は進んだ。
十六階層。十七階層。
通路の形が、少しずつ地図とずれ始める。曲がり角の位置が違う。小部屋が一つ増えている。
あるはずの通路が、少し狭い。大きな変化ではない。だが、確実に違う。
「……これ、ただの調査で済む感じじゃないね」
玲奈が低い声で言った。
美月は否定しなかった。
「二十階層を確認したら、戻る」
「今すぐ戻らなくていいの?」
玲奈が聞く。
その声は責めているわけではない。確認だった。リーダーの判断を確かめるための問い。
美月は一度、周囲を見る。
魔力濃度は上がっている。通信は不安定。地形にも変化がある。
だが、帰路はまだ確保できている。戦闘も対応可能。
そして二十階層は、もうすぐそこだった。
「二十階層まで確認する」
美月は静かに言った。
「そこで状況を見て、すぐ撤退する。これ以上は進まない」
「分かった」
玲奈は頷く。
「ひなたも、それでいい?」
「はい。今ならまだ戻れます」
「うん。だから、戻れるうちに戻る」
美月はそう言って、前を向いた。
十八階層。十九階層。
魔物の姿が、さらに減っていく。それが逆に不気味だった。
普通なら、階層が深くなるほど魔物の密度は上がる。だが今は違う。
魔物たちはどこかへ移動している。あるいは、何かを避けている。
奥へ。さらに奥へ。
まるで、ダンジョンそのものに引き寄せられるように。
「……嫌な感じ」
玲奈が呟いた。
「同感」
美月は短く返す。
ひなたは顔色を少し悪くしていた。
「魔力の流れが、下へ向かっています」
「下?」
「はい。二十階層よりさらに奥へ。何かに吸い込まれているみたいです」
美月は足を止めなかった。
もう二十階層は目の前だった。確認して、戻る。それだけでいい。
そう判断した。
やがて、三人は二十階層に到達した。
そこは広い空間だった。天井が高く、壁には青白い魔力の筋が走っている。
資料にも記載されている中継地点。
本来なら、ここから先へ進む通路は一つだけ。そして、その通路は二十一階層へ続いている。
だが――
「……何、これ」
玲奈が足を止めた。
美月も目を細める。ひなたが息を呑んだ。
広間の奥。
地図には存在しない通路が、開いていた。
黒く、深い穴のような通路。壁の魔力がそこへ向かって流れ込んでいる。
まるで、ダンジョンの奥に新しい道が生まれたようだった。
「……こんな通路、地図にはありません」
ひなたの声が震える。
美月はすぐに判断した。
「撤退する」
迷わなかった。
調査範囲は二十階層まで。その二十階層で、地図にない通路を確認した。
これ以上進む理由はない。むしろ、進んではいけない。
「玲奈、後方警戒。ひなた、通信」
「了解」
「はい」
ひなたが通信具を取り出す。
だが、次の瞬間。
ザザッ。
激しい雑音が響いた。
「……繋がりません」
「もう一度」
「はい」
ひなたが通信具を操作する。しかし、返ってくるのはノイズだけだった。
美月は表情を引き締める。
「通信は諦める。戻って直接報告する」
「分かった」
三人は来た道へ向き直った。
そのとき。
ゴォン――。
低い音が、ダンジョンの奥から響いた。地鳴りにも似た音。
空気が震える。壁の魔力が、一瞬だけ強く光った。
「……っ!」
ひなたが思わず身をすくめる。
玲奈が剣を抜いた。
「美月!」
「走るよ!」
美月は即座に指示を出す。
三人は来た道へ向かって駆け出した。
まだ戻れる。まだ通路はある。
十九階層へ続く道は、確かに目の前にある。
だが、走り出した瞬間。
背後の広間から、再び低い音が響いた。今度は、さっきよりも近い。
空間そのものが歪むような音だった。
美月は振り返らない。振り返る時間すら惜しい。
戻らなければならない。今すぐ。
そう判断した。
その判断は、正しかった。無謀ではなかった。油断でもなかった。
けれど――
ダンジョンの異変は。
美月たちの判断よりも、わずかに早く動き始めていた。




