第109話 異変の始まり
翌朝。
蓮はいつものように、早く目を覚ました。
部屋の外へ出ると、リビングから小さな物音が聞こえてくる。美月が朝食の準備をしていた。
「……おはよう」
蓮がそう言うと、美月が振り返る。
「おはよう、蓮」
テーブルの上には、焼いたパンと卵料理、温かいスープが並んでいた。
蓮は椅子に座る。それから、少しだけ美月を見る。
「……今日も仕事?」
その言葉に、美月は一瞬だけ目を丸くした。
以前の蓮なら、自分からそう聞くことはほとんどなかった。聞かれたことに答える。必要なことだけを話す。
そんな蓮が、少しずつ変わってきている。美月はそれが嬉しくて、小さく笑った。
「うん。今日はギルドで玲奈とひなたに会う予定」
「……依頼?」
「まだ分からないけど、何かあれば受けるかも」
「……そう」
蓮は頷き、スープを口に運ぶ。しばらくしてから、また口を開いた。
「……何時に帰る?」
「夕方くらいかな。遅くなるようなら連絡するね」
「……分かった」
短い会話。けれど、それだけでも美月には十分だった。
蓮が少しずつ、普通の会話をしようとしている。誰かと暮らすことに、慣れようとしている。美月はその変化を、静かに受け止めていた。
「蓮は今日はどうするの?」
「……少し、部屋を片付ける」
「そっか」
「……あと」
「ん?」
「……本、読む」
テーブルの端には、料理の本が置かれている。昨日までよりも少しだけ開き癖がついていた。
美月はそれを見て、柔らかく笑う。
「また何か作るの?」
「……まだ決めてない」
「楽しみにしてるね」
「……うん」
蓮は少しだけ目を伏せる。
照れているのか、考えているのか。美月には、まだ全部は分からない。けれど、以前より少しだけ分かるようになってきた気がした。
朝食を終え、美月は出かける準備をする。上着を羽織り、鞄を持つ。
「じゃあ、行ってくるね」
「……うん」
蓮は玄関まで見送りに来た。美月が靴を履く。
「何かあったら、スマホで連絡してね」
「……分かった」
「本当に、何かあったらだからね?」
「……うん」
美月は笑って、ドアノブに手をかける。
そのとき、蓮が小さく言った。
「……いってらっしゃい」
美月の手が、少しだけ止まる。それから、嬉しそうに笑った。
「うん。行ってきます」
ドアが閉まる。部屋の中に、静けさが戻った。
蓮はしばらく玄関を見つめていた。それから、リビングへ戻る。
テーブルの上に置かれた料理の本を手に取り、ゆっくりとページをめくった。
美月に、何かしてあげたい。その気持ちは、まだ言葉にするのが難しい。
けれど、蓮の中には確かにあった。
その頃。
美月は冒険者ギルドへ向かっていた。
朝のギルドは、すでに多くの冒険者で賑わっている。依頼掲示板の前には人が集まり、受付には順番待ちの列ができていた。
美月が中へ入ると、すぐに声がかかる。
「美月!」
振り向くと、玲奈が手を上げていた。その隣には、ひなたもいる。
「おはよう、美月さん」
「おはよう、玲奈、ひなた」
三人は自然に集まる。それだけで、周囲の冒険者たちがちらりと視線を向けた。
Aランク冒険者、神崎美月。Aランク剣士、水野玲奈。Bランクながら支援と探索に優れた、小川ひなた。
三人パーティー《アストラ》。
ギルド内でも、その名を知らない者は少ない。
「今日はどうする?」
玲奈が依頼掲示板を見ながら言う。
「急ぎの依頼がなければ、軽めのやつでいいんじゃない?」
美月も頷いた。
「そうだね。今日は無理しなくても――」
そのときだった。
「神崎さん」
受付側から、ギルド職員が歩いてくる。表情は落ち着いている。けれど、どこか硬い。
「少しよろしいですか?」
「はい」
美月が返事をすると、職員は玲奈とひなたにも視線を向けた。
「《アストラ》の皆さんに、確認していただきたい依頼があります」
玲奈が眉を上げる。
「私たちに?」
「はい。通常の討伐依頼ではありません。調査依頼です」
「調査……」
美月は少しだけ表情を引き締める。
職員に案内され、三人は受付奥の説明室へ移動した。
小さな部屋の中。机の上には、資料が数枚置かれている。
そこには、一つのAランクダンジョンの名前が記されていた。
市外にある、五十階層規模のダンジョン。危険度はAランク。これまでにも何度か攻略隊が入り、地図や魔物情報もある程度整っている場所だった。
「このダンジョンで、数日前から異常な反応が確認されています」
職員が資料を開く。
「異常?」
玲奈が聞き返す。
「はい。魔力濃度が通常より高い数値を示しています。ただし、現時点では危険度を変更するほどではありません」
ひなたが資料に目を落とす。
「魔力濃度の上昇……」
「それだけではありません。一部の魔物の行動が、通常記録と異なっています。群れない種類の魔物が複数で行動していたり、逆に縄張りを離れて深層側へ移動していたり」
「地形変化は?」
美月が尋ねる。
「一部で報告があります。通路の形が前回調査時と微妙に違っていた、と。ただ、大きな崩落や階層構造の変化は確認されていません」
玲奈が腕を組む。
「それで、私たちに見てこいってこと?」
「はい。目的は原因調査です。戦闘が主目的ではありません」
「危険度はAランクのままなんですよね?」
ひなたが確認する。職員は頷いた。
「現時点では、Aランクです。ですが、異常が続いている以上、経験のあるパーティーに確認していただきたいと判断されました」
美月は資料を見つめる。
魔力濃度の上昇。魔物の行動変化。地形のわずかな変化。
ひとつひとつは、ただちに危険だと断定するほどではない。けれど、放置していいものでもなかった。
「調査範囲は?」
「まずは二十階層まで。異常が強ければ、無理に進まず撤退してください」
「了解しました」
美月が頷く。玲奈も軽く肩を回した。
「調査だけなら問題ないでしょ」
「油断はしないでくださいね」
ひなたが玲奈を見る。
「分かってるって」
玲奈は笑う。
美月も二人を見て、小さく頷いた。
「受けます」
その言葉に、職員はほっとしたように息を吐いた。
「ありがとうございます。出発は明日でお願いします」
「明日ですね」
「はい。詳細な資料は本日中にまとめてお渡しします」
説明を終え、三人は部屋を出た。ギルドの喧騒が戻ってくる。
さっきまでと変わらない、いつもの朝。
けれど、美月の胸には、ほんの小さな引っかかりが残っていた。
危険度はAランク。調査は二十階層まで。撤退判断も許可されている。
無茶な依頼ではない。
それでも――
「美月?」
ひなたの声で、美月は顔を上げる。
「大丈夫ですか?」
「うん。大丈夫」
美月は笑う。
「少し気になっただけ」
「まあ、異常調査だしね」
玲奈が言う。
「でも、私たちなら問題ないでしょ」
「そうだね」
美月は頷いた。
《アストラ》なら大丈夫。そう思った。
そう思えるだけの経験も、実力もある。これまでも何度も、危険な依頼を乗り越えてきた。
だから、このときの美月はまだ知らなかった。
その小さな違和感が。やがて取り返しのつかない異変へ変わることを。
夕方。
美月は家へ帰った。
「ただいま」
玄関を開けると、リビングのほうから蓮が顔を出す。
「……おかえり」
その言葉に、美月は自然と笑った。
「うん。ただいま」
部屋の中には、静かな生活の気配がある。テーブルの上には料理の本。流しには洗われた食器。
蓮が一人で過ごした時間の跡が、少しずつこの家に馴染んでいた。
「今日はどうだった?」
美月が聞くと、蓮は少し考えてから答える。
「……本を読んだ」
「料理の?」
「……うん」
「何か作りたいもの、見つかった?」
「……いくつか」
「そっか。楽しみにしてるね」
蓮は小さく頷いた。
夕食のあと。
二人はリビングで向かい合って座っていた。テレビの音が小さく流れている。
美月は湯気の立つお茶を手にしながら、ふと思い出したように口を開いた。
「明日、依頼に行くことになったよ」
蓮の視線が、美月へ向く。
「……依頼?」
「うん。Aランクダンジョンの調査」
「……調査?」
「ちょっと魔力濃度が高くなってるみたいでね。魔物の動きも少し変わってるらしいの」
蓮は黙って聞いている。美月は続けた。
「でも、危険度はAランクのまま。今回は二十階層まで調べるだけだから」
「……危ない?」
蓮が短く尋ねる。その声には、ほんの少しだけ硬さがあった。
美月はすぐに笑う。
「大丈夫だよ」
「……大丈夫?」
「うん。玲奈もひなたも一緒だし、無理はしない。危なかったらすぐ戻るから」
「……そう」
蓮は小さく頷いた。けれど、完全に納得したわけではなさそうだった。
美月はそれに気づき、優しく言う。
「心配してくれてるの?」
「…………」
蓮は少し黙る。それから、小さく答えた。
「……少し」
美月の胸が、温かくなる。
以前なら、きっと言わなかった言葉。心配していても、それをどう伝えればいいのか分からなかったはずだ。
でも今は、少しだけ言葉にしてくれる。
美月は笑った。
「ありがとう。でも、本当に大丈夫」
「……うん」
「明日は、帰ったら連絡するね」
「……分かった」
二人の間に、静かな時間が流れる。
テレビの中では、何でもないニュースが流れている。街の出来事。天気予報。交通情報。
当たり前の日常。
美月はそれを見ながら、お茶を一口飲んだ。蓮は隣で、料理の本を開いている。
その横顔は、少し前よりも穏やかだった。
日常が、少しずつ形になっている。十年ぶりに帰ってきた蓮が。少しずつ、人と一緒に生きようとしている。
美月はその姿を見て、静かに思った。
この時間を守りたい。この生活を、壊したくない。
けれど――
その夜。
冒険者ギルドの監視室。
薄暗い部屋の中で、職員が一人、監視水晶の数値を確認していた。
水晶には、各地のダンジョンの魔力反応が映し出されている。
その中の一つ。明日、《アストラ》が調査に向かう予定のAランクダンジョン。
表示されている魔力濃度は、高めではある。だが、まだ基準値の範囲内だった。
異常警報を出すほどではない。
職員は記録用紙に数値を書き込む。
「……昨日より少し高いな」
そう呟いた直後。
水晶の中の光が、一瞬だけ揺れた。
「……?」
職員が顔を上げる。けれど、次の瞬間には表示は元に戻っていた。
魔力濃度。基準値内。警告表示なし。
職員はしばらく水晶を見つめる。
「……ノイズか?」
監視水晶が一瞬だけ揺らぐことは、まったくないわけではない。魔力の流れが乱れれば、表示がぶれることもある。
職員は念のため、記録用紙の端に小さく書き加えた。
――一時的な反応揺れあり。要経過観察。
それ以上の異常は、確認されなかった。
だから誰も、止めなかった。翌日、《アストラ》がそのダンジョンへ向かうことを。
誰もまだ知らない。
その小さな揺らぎが。明日、美月たちを飲み込む異変の前触れだったことを。




