第108話 誰かのために
翌朝。
蓮は、いつものように早く目を覚ました。
ベッドから起き上がり、リビングへ向かう。
「……おはよう、蓮」
「……おはよう」
美月は朝食の準備をしていた。蓮は席に座り、朝食を食べる。
以前なら、必要なことを聞かれなければ、自分から話すことはほとんどなかった。
けれど――
最近は少しずつ変わってきていた。
「……美月」
「ん?」
「……今日は、何時くらいに帰ってくる?」
「今日は……たぶん夕方くらいかな」
「……分かった」
「どうしたの?」
「……ううん」
蓮は少しだけ首を振る。
「……気になっただけ」
「そっか」
美月は笑った。
そんな何気ない会話。
けれど――
蓮にとっては、少し前までできなかったことだった。
朝食を終える。美月は出かける準備を始めた。
「じゃあ、行ってくるね」
「……うん」
美月が玄関へ向かう。
「夕方には帰ってくるから」
「……いってらっしゃい」
「うん。行ってきます」
扉が閉まる。
蓮はしばらく玄関を見つめた。
そして――
リビングへ戻る。
◇
テーブルの上には、料理本が置かれていた。
蓮はそれを手に取る。ページをめくる。
一緒に作ったポークソテー。その次に作ろうと話していた料理。
「…………」
ハンバーグ。
蓮はそのページをじっと見る。
ポークソテーは美月に教えてもらいながら作った。
でも――
今回は、自分一人で作ってみたい。
「……作ってみるか」
蓮は料理本を見ながら、必要な材料を確認する。
挽き肉。玉ねぎ。卵。パン粉。牛乳。
必要なものを覚える。
そして――
「……行こう」
蓮は立ち上がった。
◇
スーパー。
蓮は一人で店内を歩いていた。
以前なら、こうして一人で街を歩くことにも戸惑っていた。けれど今は違う。
周囲の人々を見ても、以前ほど気にならない。
必要なものを一つずつカゴへ入れていく。
挽き肉。玉ねぎ。卵。パン粉。牛乳。
必要なものが揃った。
レジへ向かう。
「こちらへどうぞ」
「……お願いします」
店員とのやり取りも、まだ短い。
けれど――
以前よりも、自然に言葉が出るようになっていた。
会計を終える。
「ありがとうございました」
「……ありがとう」
蓮は袋を受け取り、店を出た。
◇
家へ戻る。
買ってきた材料をキッチンへ並べる。料理本を開く。
「…………」
蓮は一つずつ確認しながら、料理を始めた。
玉ねぎを切る。包丁が滑る。その動きは、驚くほど正確だった。
長年、ナイフを使ってきた。魔物の解体。肉の切り分け。骨を外す作業。
そういったことなら、蓮にとっては日常だった。
けれど――
料理は別だ。
焼き加減。味付け。火加減。
それらは、まだ経験が少ない。
料理本を何度も確認しながら進める。玉ねぎを炒める。肉と混ぜる。卵とパン粉を加える。
そして――
形を整える。
「…………」
蓮は完成したハンバーグの種を見る。
「……できた」
あとは焼くだけ。
けれど――
蓮はフライパンへ手を伸ばさなかった。時計を見る。
まだ昼過ぎだった。
「…………」
美月が帰ってくるのは、夕方。焼きたてのほうが美味しい。
蓮はハンバーグを冷蔵庫へ入れた。
「……帰ってきてから」
そう呟いた。
◇
午後。
蓮はリビングに戻った。ソファに座る。テレビをつける。
スマートフォンを手に取る。いつものようにゲームを始める。
しばらくして――
時計を見る。
「…………」
まだ早い。
ゲームを続ける。
しばらくすると、また時計を見る。
「…………」
まだ帰ってこない。
そんなことを何度か繰り返す。
以前の蓮なら。時間など気にしなかった。生きるために必要なことだけを考えていればよかった。
けれど今は――
帰ってくる人がいる。
そして。その人と一緒に食事をする。
それが、少し楽しみだった。
◇
夕方。
玄関の扉が開く。
「ただいまー」
「……おかえり」
蓮が玄関へ顔を向ける。
「今日は疲れたー」
美月が靴を脱ぐ。
そして――
リビングへ入ったところで、ふと足を止めた。美月がキッチンを見る。
そこには――
料理の準備がされていた。
「……これ、もしかして」
「……ハンバーグ」
「蓮が作ったの?」
「……うん」
「一人で?」
「……うん」
美月の顔が、ぱっと明るくなる。
「すごい!」
蓮は少しだけ目を逸らした。
「……まだ焼いてない」
「じゃあ、着替えてくるね」
「……うん」
美月は部屋へ向かう。
美月が着替えている間に、蓮はフライパンを火にかける。ハンバーグを焼く。
じゅう、と音が響く。香ばしい匂いが広がる。
蓮は焼き加減を確認する。料理本を見る。
そして――
ゆっくりと皿へ盛りつけた。
◇
「できたよ」
美月がリビングへ戻ってくる。
「わぁ……」
テーブルの上には、焼きたてのハンバーグ。
「本当に一人で作ったんだね」
「……うん」
「いただきます」
美月が一口食べる。
「…………」
蓮は黙って美月を見る。
「……おいしい」
「……本当に?」
「うん。本当においしいよ」
美月は笑った。
「すごいじゃん、蓮」
「……そっか」
蓮の表情が、ほんの少しだけ緩む。
「うん。すごくおいしい」
美月はもう一口食べる。
「前より上手くなってるかも」
「……そう?」
「うん」
蓮は少しだけ嬉しそうにハンバーグを見る。
「……よかった」
「ねえ、蓮」
「……?」
「どうして作ろうと思ったの?」
「…………」
蓮は少し考えた。
一緒に料理をした。美月が教えてくれた。料理本を買った。
そして――
今日、一人で作った。
その理由。
蓮はしばらく考えてから、ゆっくり口を開いた。
「……美月に」
「うん?」
「……何かしてあげたかったから」
「…………」
美月の動きが止まった。
「……そっか」
美月は小さく笑う。
「ありがとう、蓮」
「……うん」
「すごく嬉しい」
「……そうか」
蓮の表情が、少しだけ柔らかくなる。
◇
食事を終えたあと。
蓮は料理本を手に取った。ページをめくる。次に作れそうな料理を探す。
美月が横から覗き込む。
「次は何作る?」
「……まだ決めてない」
「そっか」
蓮はページをめくる。料理の写真を見る。
そして――
ふと、思った。
10年前。蓮は、生きるために食べていた。
自分が生き延びるため。それだけだった。
誰かのために料理をすることなんて、考えたこともなかった。
けれど今は――
違う。
美月に食べてもらいたい。美月に喜んでもらいたい。
そんな気持ちが、自然に生まれている。
蓮は料理本を閉じる。
「……また作る」
「うん」
「……今度は、もっと上手くする」
「楽しみにしてるね」
「……うん」
蓮は小さく頷いた。
10年間。蓮は、一人で生きてきた。それが当たり前だった。
けれど――
地上へ戻ってきて、少しずつ変わっていった。
話すこと。一緒に過ごすこと。誰かに何かをしてあげること。
そして――
誰かに喜んでもらうこと。
そんな当たり前のことを、蓮は少しずつ知っていく。
それは――
ダンジョンでは、決して知ることのできなかったものだった。
蓮は隣にいる美月を見る。そして、ほんの少しだけ笑った。
10年間、止まっていた日常が――
少しずつ、動き始めていた。




