第106話 美月の迷い
食事を終える。
蓮は料理本を手に、自分の部屋へ戻っていった。
「……おやすみ」
「うん。おやすみ、蓮」
部屋の扉が閉まる。
リビングに残った美月は、一人でソファに座っていた。
「…………」
静かな部屋。
美月は、しばらく何もせずに天井を見つめていた。
そして――
ふと、あの日のことを思い出す。
◇
ギルドで。あの魔石の価値を調べてもらった日。
「……十億円を、まずは前払いとしてお支払いすることはできます」
支部長の言葉。
あの魔石は、現在確認されているどのSランク魔石とも比較できないほどの価値を持っていた。
だからこそ。ギルドは、十億円という金額を提示してきた。
けれど――
「所有者本人を、ここに連れてくるつもりはありません」
美月は、そう答えた。蓮の存在を知られるわけにはいかなかった。
その後。ギルドから提示された条件を持ち帰った。
所有者の身元は必要最低限の職員だけに限定する。外部には公開しない。美月が窓口になって交渉する。
そんな条件だった。
美月はその場では決めなかった。
「その条件なら、一度持ち帰って本人と話してから決めます」
そう答えた。
◇
そして、その日の夜。
美月は蓮に話した。
ギルドから提示された条件。
そして――
十億円という金額。
けれど。蓮はしばらく黙って聞いたあと。
「……十億?」
「……そう」
「…………」
蓮は少し考えた。
けれど。
「……よく分からない」
それが蓮の答えだった。
十億円。普通に考えれば、とてつもない金額だ。
けれど――
十年間、ダンジョンで生きてきた蓮には。その金額がどれほどのものなのか、実感がなかった。
「……美月に任せる」
「……私に?」
「……うん」
蓮は、それだけ言った。
そして――
またゲームへ視線を戻した。
◇
「…………」
美月は、今もそのときのことを考えていた。
「……任せる、か」
あまりにも簡単に。蓮は、自分のことを美月に任せた。
だからこそ。美月は悩んでいた。
「……十億円なんて、なくても」
小さく呟く。
美月自身。Aランク冒険者として活動している。依頼を受ければ、それなりの収入もある。
それに――
「……私が稼げばいいんだし」
十億円なんてなくても。二人が普通に生活していくことくらいなら、できる。
それだけではない。
蓮には――
まだ大量の魔石や素材が残っている。Bランク相当の魔物の素材だけでも、かなりの価値がある。
それらを少しずつ売っていけば。生活に困ることなんて、まずない。
「…………」
だったら。わざわざ十億円のために――蓮の正体が知られる可能性を作る必要があるのだろうか。
ギルドは秘密を守ると言っている。けれど。関わる人間が増えれば、それだけ情報が漏れる可能性も増える。
そして。一度、蓮の存在が知られてしまえば――
もう、今の生活には戻れないかもしれない。
「…………」
美月は目を閉じる。
頭に浮かんだのは――
今日の蓮だった。
料理本を見ながら。楽しそうに次の料理を探していた。
「……ハンバーグ」
そう言って。少しだけ嬉しそうに笑っていた。
十年間。蓮には、そんな時間がなかった。
生きるために戦う。食べるために魔物を倒す。眠る場所を確保する。明日を生きる。
ただ、それだけ。
けれど今は――
料理を作って。一緒に食べて。次は何を作ろうかと考えている。
「…………」
美月は静かに笑う。
「……このままでいいんじゃないかな」
無理に大きなお金を手に入れなくてもいい。普通に暮らせるだけのお金なら、いくらでも方法はある。
それに。蓮が持っている魔石や素材だって、まだ大量に残っている。
わざわざ危険を冒す必要なんてない。
「……蓮には」
美月は小さく呟く。
「このまま、普通に生活してほしい」
十年ぶりに帰ってきた。そして今。ようやく普通の生活を始めた。
ゲームをして。買い物をして。料理をして。笑って。
そんな日々を――
できるだけ長く続けてほしい。
「…………」
美月は、自分自身のことを思い出す。
モデルをしていた頃。街を歩くだけで、視線を向けられた。写真を撮られ。声をかけられ。どこへ行っても、人の目を意識しなければならなかった。
冒険者になってからも。Aランクまで上がり、《アストラ》のリーダーになった今では、以前とは違う形で注目されている。
名前を知られている。顔を知られている。行動すら、周囲から見られている。
注目されることが嫌なわけではない。それによって救われたこともある。
けれど――
自由に生きることが難しくなる瞬間もある。
「……目立つって、大変なんだよね」
美月は呟く。
だからこそ。十年間、誰にも知られずに生きてきた蓮が。ようやく帰ってきた今。
そんな生活を奪いたくなかった。
「…………」
美月は立ち上がる。そして、蓮の部屋の扉を見る。
その向こうには――
今頃、また料理本を見ているのかもしれない。
そんなことを考えると。自然と笑みが浮かんだ。
「……まだ、決めなくていいよね」
十億円。確かに大きなお金だ。
けれど。蓮の普通の生活と引き換えにするほどのものなのか。
美月には、まだ答えが出なかった。
ただ――
今は。蓮が楽しそうに暮らしている。
それだけで十分だった。
「……この生活を、守りたい」
美月は静かに呟いた。
そして。リビングの明かりを消した。




