第78話 六百四十一年ぶりに帰り道を開けたら、最初の乗客は「また帰ってきます」と言いました
惑星を元の宇宙へ帰す必要はない。
帰りたい人だけが帰れるようにすればいい。
俺としては、昨日の夜にそう考えただけだった。
ところが翌朝、中央母艦の会議室へ行くと、すでに七艦隊の技術部門が合同作業を始めていた。
「……何これ」
巨大な立体星図が部屋の中央に浮かんでいる。
中心には、六百四十一年前に消えた第二居住惑星の旧軌道。その周囲には七艦隊の観測設備や通信中継網が重ねられ、見たこともない数式が何層にも広がっていた。
「昨日のユウトの提案について、技術的な検証を開始しています」
アルカが説明する。
「早くない?」
「六百四十一年間閉鎖されていた退避空間への安全な往来を実現するには、早期の調査が必要です」
「それはそうだけど、もう七艦隊合同になってるの?」
「各艦隊が持つ技術を統合した方が、効率的ですから」
エリスが平然と答えた。
俺は自分の席へ座りながら、もう一度星図を眺めた。
七艦隊全部が協力すること自体はいい。
むしろ、最近ようやく覚えたことだ。
俺一人で何でもやらず、できる人に任せる。
ただし。
「一つ確認したいんだけど」
「はい」
「《セレネ》の人たち、これに同意してる?」
アルカが俺を見る。
「航路開設の提案については、先方からの要請に基づいています」
「調査していいってことと、勝手に航路を開いていいってことは違うだろ」
星一個が六百年以上、外の宇宙から隔離されていた。
そこへ突然、七艦隊が押しかけたらどうなる。
相手にとっては、自分たちの世界の外から知らない国家が一斉にやってくることになる。
「向こうにも政府があるんだから、先に話し合おう。俺たちは迎えに行く方法を探す。開けるかどうかは、両方が納得してから」
グレイスが静かに頷いた。
「適切です。安全保障上の取り決めだけでなく、出入境管理、検疫、航路管理権、事故発生時の責任分担などを事前に定める必要があります」
「……思ったより多いな」
「惑星間航路ではありません。異なる空間領域を接続する史上初の恒常的な交通路ですので」
「それでも、船が行き来するだけだろ?」
ベルが額に手を当てた。
「ユウト。あなたにとっては『船が行き来するだけ』でも、その船が六百四十一年間誰も通れなかった空間を横断するのですわ」
「……なるほど」
「本当に分かっていますの?」
「大変なのは分かった」
それ以上の説明は、専門家に任せることにした。
◇
《セレネ》側から正式な通信が届いたのは、その日の午前中だった。
画面に映ったのは、四十代半ばほどの女性だった。落ち着いた声と丁寧な物腰から、普段から多くの人の前で話している人物なのだろうと分かる。
『セレネ自治評議会、対外連絡担当のヴァレリア・ノースと申します』
「相良ユウトです。よろしくお願いします」
『こちらこそ。六百四十一年ぶりに外界との通信が成立したばかりだというのに、さらに人間の往来まで検討していただけるとは思っていませんでした』
「まだできるか分からないんですけどね」
『それでも、私たちには大きな希望です』
ヴァレリアさんは一度言葉を切り、こちらへ現在の《セレネ》の人口資料を送ってくれた。
現在人口。
四億三千六百万人。
「……増えてる」
『はい。退避当時は約三億一千万人でしたが、六百年以上にわたる人口変動の結果、現在はこの人数になっています』
「ちゃんと暮らしてたんですね」
『もちろんです。私たちは退避空間の内部で、六百年以上、自分たちの社会を維持してきました』
送られてきた映像には、広い農地と都市が映っていた。
空には淡い青色の光が広がり、巨大な人工環境制御施設が、恒星光の代わりとなるエネルギーを供給しているという。
街路を歩く人々。
公園で遊ぶ子供たち。
学校。
工場。
病院。
そのどれもが、俺たちの暮らしている世界と大きく変わらなかった。
「……普通に生活してるんだな」
『私たちにとっては、ここが普通の世界ですから』
その言葉に、俺は少し恥ずかしくなった。
そうだ。
外から見れば六百四十一年間も遭難していた惑星だが、そこで生まれ育った人たちにとっては、ただの故郷なのだ。
『ですから、惑星全体の帰還には賛成できない住民が多数います』
「分かります」
『しかし、外界へ出たいという希望もあります。祖先の故郷を見てみたい者、外の宇宙を研究したい者、別の星で暮らしてみたい者。理由はさまざまです』
「それなら、行き来できる方がいいですよね」
『はい』
ヴァレリアさんが少し微笑んだ。
『私たちは、帰還と定住を同じものにしたくないのです』
なるほど。
帰ってみたいからといって、ずっとそこに住みたいとは限らない。
外の宇宙へ旅行して、また《セレネ》へ帰ってくる人だっているだろう。
「だったら、片道じゃなくて往復できる道にしましょう」
『……往復?』
「はい。一度出たら戻れないんじゃ、怖くて誰も乗れないでしょう?」
ヴァレリアさんの表情が変わった。
『帰還する人を迎えるだけではなく、再びセレネへ戻すことも考えてくださるのですか?』
「当然じゃないですか」
俺は少し首を傾げた。
「普通の船だって、行ったら帰ってくるでしょう?」
通信画面の向こうで、ヴァレリアさんがしばらく黙っていた。
それから、深く頭を下げた。
『ありがとうございます』
「いや、まだ作れてないですから」
『それでもです』
どうやら向こうでは、帰還を決めた人間は二度と《セレネ》へ戻れないかもしれない、という前提で議論していたらしい。
俺には、そちらの方が不自然に思えた。
家を二つ持っていてもいい。
行きたい時に行って、帰りたい時に帰る。
それができるなら、一番いい。
◇
問題は、どうやって実現するかだった。
《ルメア》を帰還させた時に使った装置は、惑星そのものを通常空間へ戻すものだ。
その機能を、人間一人のために使うことは想定されていない。
「小さく動かせないの?」
俺が聞くと、エリスが古い設計図を拡大した。
「理論上は可能です。ただし、惑星全体を移動させるための装置を、人間一人に使用するのは効率的ではありません」
「じゃあ別の方法?」
「現在調査中です」
そこでディナが、地下装置の構造を示した。
「これ、主装置だけじゃない」
「何が?」
「補助搬送系」
地下四十一キロにある巨大な退避装置。
その周辺には、小さな副設備がいくつも存在していた。
普段は使われない保守区画。
非常電源。
装置を修理するための予備部品庫。
そして。
『保守物資搬送路』
「これ何?」
「退避空間の外部から、内部へ保守物資を搬入するための設備と推定されます」
エリスが説明した。
「惑星が通常空間から切り離された場合でも、装置の一部が故障すれば、外部から部品を供給する必要が生じます。そのための小規模な搬送機構です」
「大きさは?」
「最大搬送質量二トン。開口部直径三メートル」
「人間なら通れる?」
「寸法上は可能です」
俺は思わず笑った。
「あるじゃん」
「ただし、人体の移送を想定した安全規格ではありません」
フィアがすぐに注意した。
「分かってる。いきなり人を入れるつもりはないよ」
まず物を送る。
壊れないか確認する。
行きと帰りを試す。
生体への影響も調べる。
それからだ。
「昔の荷物用エレベーターを人間用に変えるようなものだろ?」
「規模が違いすぎますわ」
ベルが呆れたように言った。
「でも、安全確認の順番は似てると思う」
その言葉に、グレイスが頷いた。
「順番については適切です」
少し嬉しかった。
◇
ところが、すぐに別の問題が見つかった。
外側の帰還標識と、《セレネ》内部の搬送設備を接続するには、両者の位相を正確に合わせる必要がある。
問題は、帰還標識が六百四十一年間にわたり、何度も修理されていることだった。
「同じ規格の部品がほとんど残っていません」
エリスが報告する。
「外装、電源、通信装置、姿勢制御。現在の設備は、建造当時とはまったく異なる構成です」
「でも信号は出続けてたんだろ?」
「はい」
「じゃあ、必要なところは残ってるんじゃない?」
エリスが設計図を見直した。
「必要なところ?」
「六百年間、ずっと同じ場所を知らせてたんだよな。どこかに基準になるものがあるはずだろ」
現地の帰還灯保存会へ確認を依頼する。
ルークさんから返ってきた映像には、古びた金属箱が映っていた。
『これでしょうか』
「何です?」
『初代帰還灯から取り外した基準発振器です。故障していないので、何度も交換を見送ってきました』
「まだ使ってる?」
『はい。ほかの装置は何度も更新しましたが、これだけは交換すると帰還標識の基準が変わる可能性があるため、触らずに残しています』
俺は思わず頷いた。
「それだ」
エリスの解析が始まる。
六百四十一年前の古い発振器。
現代の通信技術から見れば精度は低い。
温度によって信号が揺らぐし、出力にも小さな誤差がある。
しかし、その誤差は六百年以上にわたってほとんど変化していなかった。
「……一致しました」
「何が?」
「《セレネ》内部の搬送機構が記憶している、外部帰還標識の位相特性です」
俺は画面を見た。
「じゃあ、新しい機械に合わせるんじゃなくて、古い機械に合わせればいい?」
「はい」
「直さなくてよかったな」
「今回については、その通りです」
エリスが少し笑った。
六百年間、古いからという理由で交換されなかった部品。
現代の技術なら、簡単にもっと高性能なものへ置き換えられる。
でも、それをやっていたら。
今日、《セレネ》への帰り道を探すことは、もっと難しくなっていたかもしれない。
◇
新しい搬送設備は、古い帰還標識を改造せず、その隣に設置することになった。
帰還標識はそのまま残す。
新しい設備は、必要な基準信号だけを受け取る。
こうすれば、失敗しても六百四十一年間続いてきた灯りを止めずに済む。
「そっちの方がいいと思う」
俺が言うと、現地のルークさんが何度も頭を下げた。
『ありがとうございます。保存会の者たちも安心すると思います』
「六百年も守ってきたんでしょう? 勝手に壊したくないですから」
『本当に……』
ルークさんは、そこで言葉を詰まらせた。
『この帰還灯を残してきて、よかった』
六百四十一年。
その長さを俺は想像するしかない。
でも、百十七年前の七人を思い出せば、少しは分かる気がした。
誰かが使えるかもしれないから。
いつか必要になるかもしれないから。
完全に終わったと確認できるまでは、残しておく。
そういう判断が、未来で誰かを助けることもある。
◇
翌日。
最初の搬送試験が行われた。
もちろん、無人だ。
《セレネ》内部の保守搬送装置へ、小さな金属容器を置く。
中には測定器と記録媒体が入っている。
搬送装置の外側では、七艦隊の技術班と銀河帰還支援協定の専門家が共同で待機していた。
「最初は空の容器?」
「はい」
フィアが説明する。
「生命への影響を確認する前に、まず物質の構造が維持されるか調べます」
「それがいい」
双方の操作権限を照合し、安全遮断条件が確認された。
《セレネ》側の責任者が承認する。
外側の設備も承認する。
その後、搬送装置が起動した。
画面には、淡い光の輪が映っていた。
俺にはただの小さな搬送口に見える。
だがその向こうは、通常空間から切り離された別の領域だ。
最初の容器が投入される。
光が収縮した。
数秒後。
外側の受取装置に反応があった。
「来た?」
「到着しています」
エリスが容器を解析する。
「外形、質量、内部構造、記録媒体、すべて一致。時間同期の誤差も許容範囲内です」
「壊れてない?」
「確認できる範囲では」
「よかった」
俺は椅子へ座り直した。
技術者たちは歓声を上げていた。
六百四十一年間、誰も通れなかった空間から。
初めて物が届いた。
それだけで、十分大きな一歩だった。
◇
次は逆方向だ。
外側から送った容器が、《セレネ》内部へ無事に届くか確認する。
これも成功した。
その後、生体組織を用いた安全試験や、複数回の往復搬送が行われた。搬送前後で物質構造や生体試料の状態を比較し、異常が検出されないことを確認していく。
全部が順調というわけではなかった。
三度目の試験では、位相同期が不安定になり、搬送が自動中止された。
原因を調べると、古い発振器の温度変化による信号のずれだった。
「やっぱり新しいものに交換した方がいい?」
俺が聞くと、エリスは首を振った。
「発振器そのものを交換すると、六百四十一年間維持されてきた帰還標識との同期が失われます。今回は新しい搬送設備側で変動を補正する方が安全です」
「じゃあ、古い方はそのまま?」
「はい」
現地技術班が補正装置を追加する。
それから何度も試験を繰り返した。
急ぐ必要はない。
《セレネ》には今すぐ逃げなければならない危険がないし、搬送路の向こうにも待っている人がいる。
焦って失敗するより、ちゃんとした道を作る方がいい。
俺は途中で一度、子供たちとの昼食のために席を外した。
戻ってきた時には、七艦隊の技術班が搬送の安全条件をさらに厳しく設定していた。
「……何でこんなに増えた?」
「人体搬送を想定した安全確認項目です」
フィアが答えた。
「一人でも重大な危険があるなら、通せないからです」
「それはそうだな」
俺も頷いた。
六百四十一年待った人たちを、最後の数日を急いだせいで危険にさらすわけにはいかない。
◇
最初の人体搬送について、七艦隊の内部では少し揉めた。
正確には。
七人が、俺の知らないところで立候補していた。
「……何で?」
アルカが代表して説明する。
「最高司令官の安全を確保するためには、通行経路の実証が必要です」
「それは分かるけど」
「私たちの身体は、現在の人類よりも環境変化への耐性が高いため、試験通行に適しています」
「七人とも行く必要はないだろ」
「最初にユウトへ安全を報告する役目について、意見が分かれました」
ベルが腕を組んだ。
「七人の中で誰が最初に新しい世界へ到達するかというのは、重要な問題ですわ」
「何で恋愛の競争みたいになってるんだよ」
「歴史に残りますもの」
「残さなくていいよ」
ディナが静かに言う。
「私は最初がいい」
「ほら始まった」
さらにクレアまで笑顔で手を挙げた。
「私は先に向こうへ行って、帰ってきたユウトを迎える側になりたいな」
「俺が行く予定はないぞ」
「いつか行くでしょ?」
「……観光くらいなら」
それを聞いた瞬間、七人の表情が変わった。
「観光」
アルカが繰り返す。
「個別交流予定として登録可能ですね」
「待て」
「《セレネ》観光には、七人全員が同行する必要がありますわ」
「個別交流の意味がなくなるだろ」
ベルとアルカが互いを見る。
また話がややこしくなってきた。
結局、最初の人体搬送は《セレネ》側が選定した専門技術者に任せることになった。
七人とも不満そうだったが、理由を説明すると納得してくれた。
「向こうの人が帰るための航路なんだから、最初に通る人も向こうが決めればいいだろ」
グレイスが頷いた。
「確かに、それが適切です」
アルカも少し考えてから同意した。
「分かりました。私たちは安全確認に専念します」
ようやく落ち着いた。
◇
最初の通行者として選ばれたのは、三十六歳の女性技術者だった。
名前はサーラ・ネイヴ。
《セレネ》の救難局で長年働いており、今回の搬送装置の調査にも最初から参加していた人物らしい。
画面に映った彼女は、落ち着いた表情でこちらへ挨拶した。
『サーラ・ネイヴです。最初の試験通行者として参加を希望しています』
「本当に大丈夫ですか?」
『はい。身体検査も終えていますし、危険性についても説明を受けました』
「戻ってくる方も試しますよね?」
『その予定です』
俺は頷いた。
「それなら、気をつけて」
サーラさんが少し笑った。
『最高司令官が試験通行者の安全を心配されるんですね』
「そりゃ心配しますよ」
『七艦隊が守る人物と聞いていたので、もう少し怖い方を想像していました』
「よく言われます」
サーラさんは、少しだけ表情を緩めた。
『私には夫と娘がいるんです』
「《セレネ》に?」
『はい。七歳の娘です。出発前に、必ず帰ってきてねと言われました』
その言葉に、リリィたちの顔が浮かんだ。
俺も毎日、同じことを言われている。
「じゃあ、ちゃんと帰ってあげてください」
『はい』
「もし怖くなったら、途中でも中止してください。最初に通ることより、無事に帰ることの方が大事ですから」
サーラさんは驚いたように俺を見た。
それから、深く頷いた。
『分かりました』
◇
試験通行は、現地時間の午後二時に実施されることになった。
外側の受取施設には、銀河帰還支援協定の医療班と技術班が待機している。
その少し後ろには、ルークさんの姿もあった。
六百四十一年間、帰還灯を守り続けてきた保存会の代表だ。
この瞬間を見届けたいという希望があり、安全な観測区画から参加してもらうことになった。
「緊張してます?」
俺が通信越しに聞くと、ルークさんが苦笑した。
『当然ですよ。私はずっと、帰還標識が動いているか確認していただけでしたから』
「今日は返事が来ますね」
『ええ』
ルークさんは、小さな窓の向こうにある古い帰還灯を見た。
『本当に帰ってくるんですね』
俺は少し迷ってから答えた。
「帰ってくる人もいます。でも、また向こうへ帰る人もいると思いますよ」
『……そうですね』
「それでもいいですよね?」
『もちろんです』
ルークさんが笑う。
『灯りは、誰かを閉じ込めるために残したものではありませんから』
それを聞いて、俺も少し安心した。
◇
試験開始。
サーラさんは小型の保護搬送カプセルへ入った。
身体を固定し、通信装置を確認する。
異常があれば自動で搬送を中止する仕組みも設定されている。
医療班が最終確認を行い、双方の責任者が承認した。
そして。
《セレネ》側から、最終通信が届いた。
『これより、第一次人体搬送試験を開始します』
エリスが時刻を確認する。
「開始を確認」
映像の中で、搬送装置の内側に淡い光が広がった。
金属製のカプセルがゆっくりと移動し、光の奥へ消える。
俺は思わず息を止めた。
数秒。
さらに数秒。
外側の装置から応答があった。
「搬送体を検出」
フィアが医療情報を見る。
「生命反応正常。意識状態正常。循環、呼吸ともに問題ありません」
「到着した?」
「はい」
外側の搬送口が開いた。
そこから。
一基のカプセルが姿を現した。
六百四十一年間。
誰も通れなかった場所から。
初めて、一人の人間が出てきた。
「……来た」
俺の声に、アルカが頷いた。
「はい」
医療班がカプセルへ駆け寄る。
扉が開く。
中から出てきたサーラさんは、少し眩しそうに目を細めていた。
そして。
ゆっくりと顔を上げた。
◇
彼女の視線の先には、観測窓があった。
窓の向こうには、巨大な恒星系が広がっている。
遠くの星々。
航路を行き来する小さな船。
そして、《セレネ》が六百四十一年前まで存在していた空間。
サーラさんは、しばらく何も言わなかった。
『……これが』
声が震えている。
『外の宇宙なんですね』
退避空間の《セレネ》にも空はある。
人工的な昼夜があり、季節もある。
でも。
そこから見える星空は、六百四十一年間変わらなかった。
外の宇宙で、本当に恒星が動いている景色を見た人間は、現在の《セレネ》にはほとんどいない。
『星が……こんなに』
サーラさんが窓へ近づく。
その後ろで、ルークさんが立ち上がった。
六十三歳の整備士は、何か言おうとして、言葉が出なかったらしい。
サーラさんも彼に気づいた。
『あなたが、帰還灯を守ってくださった方ですか?』
『……はい』
ルークさんの声が掠れる。
『ルーク・セインと申します』
『サーラ・ネイヴです』
二人が向かい合った。
六百四十一年前。
同じ星に暮らしていた人たちがいた。
その一部は惑星とともに消え、残された人たちは外の宇宙で生き続けた。
両方の子孫が。
六百年以上経って。
初めて同じ場所に立っている。
ルークさんが、静かに言った。
『おかえりなさい』
サーラさんは驚いたように目を見開いた。
『私……ここに来たことはありません』
『ええ。分かっています』
『生まれたのはセレネですし、家族もみんな向こうにいます』
『はい』
ルークさんは頷いた。
『それでも、一度くらい言わせてください。私たちの祖先が、六百四十一年間言いたかった言葉ですから』
サーラさんは。
しばらく黙っていた。
それから、少し笑った。
『……ただいま』
たった一言だった。
でも。
通信画面の向こうで、ルークさんは泣いていた。
◇
俺は、少し離れた場所からその様子を見ていた。
何か言う必要はなかった。
俺がそこへ行ったわけでもない。
古い帰還灯を六百年間守ったわけでもない。
実際に搬送路を作ったのも、七艦隊と《セレネ》の技術者たちだ。
俺はただ。
星ごと戻さなくてもいいんじゃないか、と言っただけだった。
「ユウト」
アルカが隣へ来る。
「何?」
「嬉しそうですね」
「うん」
今回は素直に認めた。
「よかったよ」
《セレネ》は戻らない。
でも。
人が帰ってきた。
それで十分じゃないか。
◇
その後の医療検査でも、サーラさんに異常は見つからなかった。
ただし、一回の成功で安全が証明されたわけではない。
七艦隊の医療部門は、引き続き慎重な観察を行うことにした。
サーラさん本人も、その必要性をよく理解していた。
『娘から、早く帰ってきてと連絡が来ています』
検査を終えた彼女が笑う。
「それなら、帰らないと」
『はい。ただ、もう少し外の宇宙を見ていたい気もします』
「また来ればいいですよ」
『……また?』
「そのための道でしょう?」
サーラさんは、一瞬黙った。
それから嬉しそうに笑った。
『そうですね』
その日の夕方。
今度は逆方向の人体搬送試験が行われた。
サーラさんが保護カプセルへ入る。
外側の搬送装置が起動する。
そして。
彼女は再び《セレネ》へ帰った。
数分後。
向こうの医療班から連絡が届いた。
『通行者サーラ・ネイヴ、帰還確認』
『身体状態、正常』
『家族との再会を確認』
映像もあった。
搬送施設の出口で、小さな女の子がサーラさんへ抱きついている。
サーラさんは娘を抱き上げ、何度も頷いていた。
その後ろでは、夫らしい男性が二人を抱き締めている。
俺は少し笑った。
「よかった」
行った。
見た。
そして帰ってきた。
これでようやく。
《セレネ》には、外の宇宙へつながる往復の道ができた。
◇
その日の夜。
銀河帰還支援協定と《セレネ》自治評議会は、共同声明を発表した。
六百四十一年間閉鎖されていた退避空間への、限定的な往来経路の確立。
今後も安全試験を継続し、検疫、出入境手続き、利用者の保護制度などを整備していく。
帰還するかどうかは、本人が決める。
《セレネ》に残る人も、外へ出る人も、どちらか一方の選択を強制されない。
そして、帰還灯は引き続き維持する。
それが正式な方針となった。
「よかったな」
俺が言うと、グレイスが頷いた。
「はい。ただし、通行能力は現在の試験設備で一時間あたり数名程度です。一般開放には時間を要します」
「急がなくていいよ」
「そうお考えですか?」
「六百年閉じてた道なんだから、今さら数日や数か月を急いでも仕方ないだろ」
ただし。
そう考えたのは俺だけだったらしい。
◇
翌朝。
中央母艦の通信量が、また妙なことになっていた。
「……何これ」
表示されているのは、銀河帰還支援協定へ届いた大量の申請だった。
『セレネ航路利用希望』
『外界訪問希望』
『移住相談』
『学術調査申請』
『親族記録照合』
『観光事業参入希望』
最後には、商業施設の建設申請まで混ざっていた。
「待って。まだ一般開放してないよな?」
「はい」
エリスが答える。
「ですが、双方の住民から非常に高い関心が寄せられています」
「何件?」
「現在の利用希望登録は、約二百八十万件です」
「多いな!」
「増加中です」
「もう数字読み上げなくていい」
俺は椅子へ座った。
さらにベルが、別の資料を持ってくる。
「ユウト。七艦隊への商業提携申請も届いておりますわ」
「何の?」
「定期航路の運営です」
「まだできてないだろ」
「ですから、将来的な運営権についてですわ」
なるほど。
六百四十一年間閉じていた世界へ、船が通れるようになった。
それは銀河全体から見れば、とんでもない経済的価値を持つのだろう。
でも。
「一つだけ条件付けていい?」
「もちろんですわ」
「《セレネ》の人たちが困るような商売はしないで」
ベルが微笑んだ。
「承知しております」
「勝手に土地買わないでね」
「……」
「ベル?」
「先方の法律に従いますわ」
「その答え、ちょっと怖い」
アルカが横から口を挟む。
「交易連合による大規模投資については、セレネ自治評議会との協議が必要です」
「そうそう」
「なお、七艦隊の共同代表として、ユウトにも会議への参加要請が届いています」
「……俺も?」
「はい」
嫌な予感がした。
◇
その日の昼。
《セレネ》自治評議会から、正式な招待状が届いた。
『相良ユウト最高司令官へ』
『六百四十一年ぶりに外界と接続できたことへの感謝を込め、セレネへの公式訪問をご招待申し上げます』
俺はそれを読んで、少し考えた。
「これ、断ってもいい?」
七人が一斉にこちらを見る。
「何でですの!?」
ベルの声が大きい。
「いや、最高司令官として行ったら大騒ぎになるだろ」
「当然ですわ」
「当然なの?」
「惑星人口四億三千六百万人の世界へ、初めて七艦隊最高司令官が公式訪問するのですから」
それは確かに大騒ぎだ。
俺は普通に見学したいだけなのに。
そこで。
ソフィアが通信へ入ってきた。
「相良さん。別の招待状もありますよ」
「別?」
「自治評議会からではなく、セレネの学校教育機関からです」
「学校?」
表示が開く。
そこには、子供たちが書いたらしい文章が並んでいた。
『外の宇宙を見てみたいです』
『本当の星を見たいです』
『六百年前の人たちが見ていた空を知りたいです』
そして。
最後に。
『相良ユウトさんも、私たちの学校へ遊びに来てください』
「……何で俺?」
「通信映像で、あなたが子供たちと話している姿を見たそうです」
リリィたち三人のことだろう。
「最高司令官じゃなくて?」
「学校側は、普通の保護者としての訪問を希望しています」
俺は少し笑った。
「それなら行きたいな」
言った瞬間。
七人全員が動いた。
「ユウト」
「何?」
「訪問予定へ登録します」
「アルカ、まだ決めてない」
「子供たちも同行できますね」
「クレア?」
「学校だから、母親候補の同行も自然ですわ」
「ベル?」
嫌な予感がする。
非常に強い。
「私が護衛」
ディナが言う。
「私は医療」
フィアが続く。
「外交手続きなら私が担当します」
グレイスまで参加した。
「現地施設の解析は私が」
エリスも手を挙げる。
アルカは全員を見渡した。
「では七人全員で」
「待って待って!」
俺は慌てて止めた。
「学校へ見学に行くだけだぞ?」
七人が首を傾げる。
「それが何か?」
「七艦隊全部で行く必要ないだろ!」
そこへ。
さらに。
ソフィアが微笑んだ。
「相良さん。妻候補十四人の個別交流予定、まだ二十八件残っていますよね?」
「……そうだけど」
「セレネへの旅行を、個別交流に利用してはいかがでしょう?」
七人の表情が変わった。
そして。
中央母艦から通知が届いた。
『相良ユウト個別交流予定』
『訪問希望先――惑星セレネ』
『申請者――十四名』
「増やさないで!」
俺が叫ぶと、リリィたち三人が笑い始めた。
「お父さん、旅行?」
「まだ決まってない!」
「みんなで行こうよ!」
アカリが楽しそうに言う。
「お父さんと、みんなで!」
俺は十四人を見る。
全員。
こちらを見ている。
どうやら。
六百四十一年間閉じていた惑星への帰り道を作った結果。
俺は、妻候補十四人を連れた家族旅行の計画まで立てることになったらしい。
……普通の救難作業だったはずなんだけどな。
◇
その夜。
リリィたちを寝かしつけた後、俺は一人で居間へ戻った。
七人も仕事を終え、それぞれの予定を整理している。
俺は窓の向こうに広がる星々を眺めながら、今日のことを思い出していた。
六百四十一年間。
帰還標識を守り続けた人たちがいた。
その灯りを受け取っていた人たちもいた。
ただ。
互いの声が届かなかった。
それが今日、初めてつながった。
帰りたい人は帰れる。
残りたい人は残れる。
そして、一度出てもまた戻れる。
「……いい道ができたな」
俺が呟くと、後ろからアルカが答えた。
「はい」
いつの間にか、隣へ来ていた。
「百十七年前、ユウトは私たちに、いつか自由に宇宙を飛べると言ってくれました」
「そうだったな」
「その約束を、私たちは百十七年間覚えていました」
アルカは窓の外を見つめる。
「今日、セレネの人たちにも同じことをしたのですね」
「俺がやったわけじゃないよ」
「ですが、帰り道を作ろうと言い出したのはユウトです」
俺は少し考えた。
「……帰り道を作るって、案外大事なのかもな」
「はい」
「出ていく時より、帰ってくる時の方が困ることもあるし」
アルカが静かに微笑んだ。
「だから私たちは、あなたの帰る場所を残していたのです」
俺は隣を見る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
それだけで十分だった。
七人に救われた俺が。
今度は誰かの帰る道を手伝った。
きっと。
そうやって少しずつつないでいけばいい。
◇
そして翌朝。
銀河帰還支援協定から、一つの正式報告が届いた。
新しいセレネ航路についてではなかった。
六百四十一年間維持されてきた帰還標識の保存記録に、新しい情報が追加されたらしい。
「何?」
俺が聞くと、エリスが答えた。
「セレネ帰還灯保存会から、過去の維持費記録が提出されました」
「維持費?」
「はい。六百四十一年間、誰が帰還標識の保守費用を負担していたかという記録です」
「保存会の人たちじゃないの?」
「大部分はそうです。しかし」
エリスが一つの記録を開いた。
「過去百十七年間に限り、別の資金提供者が存在します」
「……百十七年?」
嫌な数字だった。
表示。
『定期寄付』
『年間支援額――非公開』
『継続期間――百十七年』
「誰が?」
エリスは少しだけ沈黙した。
そして。
「アルカです」
俺は隣を見る。
アルカが目を逸らした。
「……アルカ?」
「はい」
「何で黙ってた?」
「ユウトを探していた時代の、個人的な支出ですので」
「百十七年間?」
「はい」
俺はしばらくアルカを見ていた。
「……何でこの帰還灯に?」
アルカは少し迷ってから答えた。
「当時、私はユウトを探すために、多くの航路標識や救難設備を調査していました」
「うん」
「その中で、この帰還灯を見つけました」
六百四十一年前に消えた惑星。
帰ってこない誰かを待つために、残された人たちが作った灯り。
「……捨てられなかった?」
俺が聞くと、アルカは小さく笑った。
「はい」
七人の中でも、一番最初に俺を探し始めたアルカ。
その彼女が。
自分と同じように、帰ってこない誰かを待ち続けている人たちを見つけた。
「少しだけ、手伝いたかったのです」
俺は何も言えなかった。
百十七年前。
俺が七人を拾った。
その七人が。
俺のいない百十七年間に。
また別の誰かの帰り道を守っていた。
「……そっか」
俺はアルカの頭へ手を伸ばした。
昔と同じように。
軽く撫でる。
「ありがとう」
アルカが目を閉じた。
「はい」
六百四十一年ぶりに帰り道が開いた理由は。
きっと一つではない。
最初に灯りを作った人。
六百年間守り続けた人。
壊れたところを直した人。
必要な部品を残した人。
今日、道を開けた技術者たち。
そして。
百十七年間、こっそり維持費を送り続けたアルカ。
みんなが少しずつつないだ結果。
あの星には、ようやく行き来できる道ができた。
「……アルカ」
「はい」
「個別交流の最初の日、何したい?」
アルカが目を開けた。
少し驚いた顔だった。
「私からでよろしいのですか?」
「順番はまだ決めてないけど、希望くらい聞いておこうと思って」
アルカはしばらく考えた。
そして。
「では」
少し照れくさそうに微笑んだ。
「久しぶりに、二人で古い船を見に行きたいです」
俺は笑った。
「……やっぱり、俺たち似てるな」
「はい」
百十七年前。
廃棄区画で出会った頃と。
何も変わらない。
ただ。
今度は。
帰る家がある。
だから、見学が終わったら一緒に帰ればいい。
それだけのことが。
俺には、何より嬉しかった。




