第59話 九十二年遅れで移民船が到着したら、星一つが「おかえり」と待っていました
《オルフェウス》が《ミルトン裂溝》を抜けてから、最初の数時間は驚くほど静かだった。
船体そのものは九十二年前のままで、自力航行能力もほとんど残っていない。前方の牽引艦が慎重に速度を作り、左右には護衛艦、後方には医療艦が付いている。
それでも船内表示には、確かに《通常航行》と出ていた。
救難待機ではない。
遭難船でもない。
目的地へ向かう移民船。
たったそれだけの表示を、通路で何度も見上げている人がいた。
「そんなに珍しい?」
俺が声をかけると、壁際に立っていた中年の男性が少し恥ずかしそうに笑った。
「九十二年前は、これが普通だったんですよ」
「通常航行が?」
「はい。出航してから毎日見ていましたから、気にしたこともありませんでした。でも今は、何度見ても嬉しくて」
男性は表示へ視線を戻した。
「止まった時は、もう一度これを見るなんて思っていませんでした」
彼にとっては、九十二年前と言っても昨日に近い。
その感覚が、俺には少し分かる。
俺だって百十七年間眠り、目を覚ました時には銀河そのものが別物になっていた。
「分かる気がします」
「相良さんもでしたね」
「俺の場合は、起きたら自分の職場が歴史遺産になりかけてましたけど」
「それは……」
「笑っていいですよ」
男性は遠慮しながらも笑った。
最近ようやく。
俺の百十七年も。
笑い話にしていい部分が増えてきた気がする。
◇
出航から五時間。
《オルフェウス》の乗員乗客へ、現在のセレスティアについての説明会が始まった。
参加は自由。
見たくない者には無理に見せない。
九十二年後の世界を一度に押しつければ、それだけで負担になるからだ。
俺たちも後方の席に座った。
正面の巨大画面へ、現在のセレスティア星系が映し出される。
青白い恒星。
その周囲に広がる居住圏。
巨大な軌道都市。
人工環境群。
貨物港。
居住惑星。
九十二年前の画像も横に出た。
比べると。
「……別の場所だな」
思わず声が出た。
昔のセレスティアは、まだ開拓途中だった。
居住可能惑星の一部に都市があり、軌道施設も小さい。移民船が何隻も入って、人を増やし続けていた時代だ。
今は。
一つの文明圏だった。
周囲から。
ざわめきが広がる。
『ここ、本当にセレスティア?』
『第一居住惑星はどれ?』
『あんな軌道都市、なかったぞ』
『開拓基地は?』
案内役が、一つずつ答えていく。
第一開拓基地は今も残っている。
ただし、都市の中心部に取り込まれ、歴史保存地区になっている。
当時の農業区画は巨大都市になった。
最初の学校も。
病院も。
港も。
形を変えながら残っていた。
ミレイが画面を見たまま、小さく呟いた。
「私たち、本当に遅れたんですね」
「九十二年だからな」
「数字では分かってたんですけど」
彼女は、現在のセレスティアから目を離さなかった。
「初めて実感しました」
◇
説明会の途中。
一人の老人が手を挙げた。
元乗客。
身体年齢は七十歳ほど。
『旧第三農業区は、今どうなっていますか』
案内役が検索する。
『現在名称はノース・セレスティア中央市です。人口約三千二百万人。旧農業区の一部は記念公園として保存されています』
『三千二百万……』
老人は、しばらく黙っていた。
『そこに、私の土地があるはずなんですが』
会場が少し静かになる。
『当時、区画を一つ購入していました。家を建てる予定だったんです』
案内役も返答に困った。
九十二年前の土地。
当然。
今は別の所有者がいる可能性が高い。
制度も変わっている。
そこで、アルカが前へ出た。
「所有権については個別に確認します。ただし、現在住んでいる方を直ちに退去させるような処理は行いません。その代わり、当時の契約が有効だったと認められる場合は、補償や代替地を含めて調整します」
老人が少し笑った。
『追い出したいわけじゃありません。ただ、一度見てみたいだけです』
「それなら問題ありません」
俺もその言葉に少し安心した。
九十二年前の人が戻ってきたからといって、今生きている人を押しのけるわけにはいかない。
昔を守ることと。
今を壊すことは違う。
◇
その日の夕方。
俺は食堂へ行った。
何となく。
《オルフェウス》の人たちが何を食べているのか気になったからだ。
九十二年前の食料は当然残っていない。
今は七艦隊から提供された食材を使っている。
でも。
料理は。
九十二年前のものだった。
「これ、昔のセレスティア料理?」
「違います」
調理をしていた女性が笑った。
「到着したら最初に作る予定だった料理です」
「予定?」
「移民船の中で決めてたんです。セレスティアに着いた初日の夜、みんなで同じものを食べようって」
大きな鍋。
肉。
豆。
野菜。
見た目はかなり普通だ。
「九十二年遅れになりましたけど」
「まだ到着してないですよ」
「そうでした」
女性は笑った。
「じゃあ今日は練習です」
「一口もらっていい?」
「もちろん」
俺が皿を受け取ると。
後ろから。
「ユウト」
声がした。
振り返る。
アルカ。
ベル。
クレア。
その他。
十四人。
「……全員?」
「試食です」
ベルが言う。
「何の?」
「到着日の食事」
「今練習って言ったよね?」
「だからこそですわ」
さらに。
リリィ。
ハル。
アカリ。
三人まで並ぶ。
「お前たちも?」
「お父様だけずるいです」
結局。
十九人分の皿が追加された。
「すみません」
俺が謝ると。
調理担当の女性は。
笑いながら鍋をかき混ぜた。
「むしろ、九十二年後の人に食べてもらえるなんて思ってませんでした」
◇
味は。
普通だった。
少し薄い。
豆が多い。
肉は少なめ。
豪華でもない。
でも。
「美味しいな」
俺が言うと。
女性は満足そうに頷いた。
「移民船の料理なんて、そんなもんです」
その言葉が。
妙に懐かしかった。
廃棄宇宙船の管理人だった頃。
俺も。
似たようなものを食べていた。
「父さん」
ハルが隣で食べながら言う。
「管理人煮込みに似てる」
「その呼び方やめよう?」
「味じゃなくて、作り方」
「まあ、余ってるもの入れる感じは似てるな」
すると。
調理担当の女性が反応した。
「管理人煮込み?」
「知らなくていいです!」
ベルが。
もう端末を出していた。
「レシピを共有しますわ」
「やめろ!」
◇
出航から十二時間。
セレスティアから。
最初の光学映像が届いた。
まだ。
肉眼では見えない。
でも画面には。
確かに映っている。
『セレスティア自治圏より《オルフェウス》へ』
通信が入った。
『本船の識別を確認しました』
九十二年前の船籍番号。
九十二年前の移民登録。
そのすべてを。
今の政府が。
正式に確認する。
『旧連邦移民船』
『入港申請を受理します』
その言葉だけで。
船内のあちこちから。
泣き声が聞こえた。
まだ着いていない。
それでも。
九十二年前。
通らなかった入港申請が。
今。
受理された。
「ミレイ」
俺は隣にいる彼女を見る。
泣いていた。
でも。
笑っている。
「大丈夫?」
「大丈夫じゃないです」
「そっか」
「でも、いい方の大丈夫じゃないです」
「それ日本語みたいな言い方だな」
「何ですか、それ」
「何でもない」
◇
残り三時間。
セレスティア第一居住惑星が。
肉眼でも見えるようになった。
窓の前は。
人でいっぱいだった。
「こんなに青かったっけ」
「軌道改造されています」
「人工海洋が増えてる」
「昔はあそこ全部荒野だった」
自分の知っている場所と。
今の場所。
それを。
みんな必死に重ねている。
驚いて。
戸惑って。
笑って。
泣く。
俺は少し離れた場所から。
その様子を見ていた。
「ユウトは、ああならなかったのですか?」
アルカが聞いた。
「俺?」
「百十七年後へ目覚めた時」
「なってたと思うよ」
「そうは見えませんでした」
「起きた直後、お前たちに囲まれてそれどころじゃなかったから」
「十四人いましたからね」
「多いんだよ」
「減らしますか?」
「そういう意味じゃない!」
アルカが。
少し楽しそうに笑った。
◇
そして。
目的地まで。
残り三十分。
旧第一移民港が見え始めた。
巨大な最新宇宙港の。
少し外側。
昔の設備を残したまま保存された港。
《オルフェウス》が。
本来。
九十二年前に入るはずだった場所。
「……人、多くない?」
俺が窓の外を見る。
港。
軌道施設。
周辺の観覧区画。
大量の人影。
「式典は小規模にする話だったよね?」
「式典自体は小規模です」
ベルが答える。
「では、あれは?」
「市民ですわ」
「何人いるの?」
「現地だけで約四十二万人」
「小規模って何!?」
「政府主催式典は二百名です」
「そういう問題!?」
さらに。
軌道上には。
無数の小型船。
ただし。
航路を邪魔しないよう。
かなり離れている。
「観覧船?」
「はい」
「どれくらい?」
「現在一万二千隻」
「星ごと待ってるじゃん!」
◇
残り十分。
セレスティア側から。
最後の誘導信号が届いた。
『《オルフェウス》へ』
『旧第一移民港、接岸設備を開放』
『誘導経路を送信します』
その直後。
《オルフェウス》の古い航法端末が。
動いた。
九十二年前の目的地座標。
今の港。
二つが。
重なる。
『目的地一致』
その表示を見た瞬間。
誰かが泣いた。
次に。
別の誰か。
船内放送を通して。
すすり泣きが広がっていく。
でも。
誰も隠そうとしなかった。
◇
港まで。
残り一分。
牽引速度が落ちる。
《オルフェウス》が。
ゆっくり。
旧移民港へ入る。
古い接岸設備は。
九十二年前の船体規格に合わせて。
わざわざ復旧されたらしい。
『接岸距離、五百』
ミレイが。
昔の航法席に座っている。
もちろん操縦そのものは現代の牽引艦が行っている。
でも。
最後の入港確認だけは。
元乗員が行う。
『三百』
『百』
船体に。
小さな振動。
『接岸確認』
ミレイが。
震える声で言った。
『移民船……セレスティアへ到着しました』
その瞬間。
船内が。
爆発したみたいに歓声で満たされた。
◇
泣く。
笑う。
抱き合う。
壁を叩く。
床に座り込む。
九十二年間。
途中だった旅。
それが。
ようやく終わった。
「着いた……」
俺も。
それしか言えなかった。
隣で。
リリィが泣いていた。
「お父様」
「うん」
「到着しました」
「ああ」
「九十二年かかりましたね」
「長かったな」
俺たちは。
ほとんど最後しか知らない。
それでも。
長かったと思う。
◇
接岸扉が。
開く。
最初に降りるのは。
船長。
ミレイ。
そして。
乗客代表。
俺は後ろにいるつもりだった。
「相良さん」
ミレイに呼ばれた。
「何?」
「一緒に」
「俺は移民じゃないよ」
「分かってます」
「じゃあ」
「最初に『見つけた』って返事した人でしょう」
また。
それを言われる。
「ずるいな」
「何がです?」
「断れなくなる」
ミレイが。
笑った。
◇
扉の向こう。
セレスティア。
九十二年前の移民船の人たちが。
初めて。
今の世界へ足を踏み出す。
俺も。
その少し後ろを歩いた。
旧第一移民港には。
大勢の人がいた。
でも。
不思議なくらい静かだった。
誰も。
派手な音楽を鳴らさない。
大きな演説もしない。
ただ。
待っている。
ミレイたちが。
床へ。
一歩。
足を置く。
その瞬間。
港の表示板が。
一斉に変わった。
『WELCOME TO CELESTIA』
その下。
現在語。
旧連邦語。
いくつもの言葉。
そして。
最後に。
『おかえりなさい』
ミレイが。
止まった。
「……」
その文字を見て。
また泣いた。
周りの人たちも。
拍手を始める。
最初は。
小さく。
やがて。
港全体へ。
さらに。
観覧区画。
通信中継。
セレスティア全域へ。
◇
『《オルフェウス》到着を確認』
『九十二年前の未完了移民記録を更新します』
行政記録。
『状態――航行中』
その文字が。
消える。
代わりに。
『到着済』
たった二文字。
それだけ。
俺は。
画面を見ながら。
笑った。
「これで終わりだな」
「いいえ」
アルカが隣で言った。
「彼らの航海は終わりましたが、生活はここからです」
「……そうだった」
住む場所。
仕事。
家族。
今の世界。
まだ。
やることは山ほどある。
「でも今日は」
俺は。
港へ降りていく人たちを見る。
「着いたってことだけでいいだろ」
アルカも。
少し考えてから。
「はい」
頷いた。
◇
問題は。
その十分後だった。
『相良ユウト最高司令官へ、セレスティア自治圏より確認事項』
「もう?」
『はい』
「今日は仕事しないよ?」
『式典関連ではありません』
「じゃあ何?」
表示された。
『《オルフェウス》乗員乗客四千百二十六名の入境手続きについて』
「……」
『現行制度では、一人ずつ本人確認が必要です』
「四千人?」
『はい』
『また相良ユウトは旧連邦時代の身分記録しか――』
「待って」
嫌な予感。
『あなた自身の正式なセレスティア入境資格も確認できません』
「俺も!?」
百十七年前の管理人。
九十二年前の移民。
どちらも。
無事に目的地へ着いた。
しかし。
最新の入境システムから見れば。
俺たちは全員。
書類上。
かなり怪しい人間らしい。
「……帰還支援より、役所が最後の敵なんじゃない?」
ミレイが。
涙を拭きながら。
初めて声を上げて笑った。




