31.エンヴィ
下町の人混みのピークとなった午後六時。選挙会場の声もまた強くなっていた。
ある立候補者が叫べば、負けじと他も叫び。その主義主張の内容よりも熱に呼応して民衆が声を上げていた。
いつもより騒がしい夜。七色の提灯が闇を追いやる夜。
巻き散らかされた用紙、踏みにじられた新聞紙。
知らない路地裏のネズミ。それを撫でる知らない浮浪者。
屋台の通りの行列と人の群れ。一喜一憂の有象無象。
こんなにも明るいのに人は忘れてしまっている。熱狂してしまっている。あることないことを叫び、あるかもわからない世界を熱望している。
傍から見て何を言っているかだなんてわからない。関係ない。なぜならこのときだけ、全てのありとあらゆる不安と不満から解放されるのだから――誰かを悪にしようとするこの時だけは。
人は言った。魔物は邪悪であると。町を犯す獣であると。
人は言った。魔物は悪魔であると。人を殺す快楽殺人鬼だと。
人は言った。魔物は英雄であると――汚らしい上級国民を裁く革命家であると。
下町は午後六時ちょうどだった。
開票箱が、
――爆破した。
吹雪のように用紙が吹き荒れる。
そこに真っ黒な長身がまるでサーカスの開始を告げるかのように天に腕を広げていた。
裂けた口は笑っていた。
「あれって?」
そこにいた若い女は震えた。一目でわかった。あの鋭い爪が人間を引き裂いてきたことを。
そこにいた商人は息を呑んだ。酷い汚臭。鼻を捻じるような獣臭さと消えない血の臭いを。
そこにいた誰しもが確信した。
あれは、
――エンヴィだ。
――あれこそが魔物なのだと。
「残念ながら君たちこそが殺される側~!」
一瞬。黒い影はそこで驚いていた市民たちを殺した。めまぐるしい速さで恐怖に踊る市民を裂き、刺し、食い殺した。
悲鳴が響いたのは阿鼻叫喚となったのは一帯が血の池になった後である。
有象無象。
乱れ。
逃げ惑う。
そして悪魔は選挙箱のあった机の上に立った。
「罵りあっていた者たちが今、肩を並べて逃げる。団結していた者たちが今、踏みあって逃げる。ついさっきまで私の半分は勇者だった。しかし今ここにいる人間の全てが私を恐れ、子羊のように逃げている。誰が悪であるかなど明確ではないか。薄っぺらい紙を集めなくとも。そう、私こそが~ん?!」
そして舞った雪が血の池に落ちて黒ずむ。書かれた名前は消え、恐怖一色になって漂った。
エンヴィとはずっと、民衆恐怖という黒い投票用紙の塊であった。
再び、天を仰ぎ喜びを噛みしめた。ここにエンヴィは産まれたのだと表現しているかのように。自分が何かに当選したのだと。
「……あれがエンヴィ?」
若い衛兵がそこで立ち尽くしている新米衛兵を叩いた。
「おい。なにぼーっとしている! 魔物が出たんだ!」
「あ、ああ。なんてことが……」
「駄目だな。もういい。逃げろ。ただしフルール様のところにだ」
「あ、ああ……」
「急げ!」新米衛兵を蹴った。
隣に居た真面目な衛兵が他の衛兵を説得していたものの、ほとんどが民衆の後を追ってしまった。残ったわずかは光景を目の当たりにして腰を抜かしてしまっていた。
「まさか。出るとは。くそ」
「文句言っている場合じゃないでしょう。先輩」
「わかっている。ここは俺が時間を稼ぐ。お前もフルール様のところへ」
「呆けてんですか、先輩。一人であれを止められるとでも?」
エンヴィはじーっと辺りを見回した。
そこにはもちろん二人の姿もあったが、見つけたのは
――転んで動けなくなっていた幼女だった。
血だまりの中に幼女の髪留めと同じものが浮かんでいた。
「ひょいっと!」
エンヴィは爪を舐め、浮かぶそれを取ると幼女へ忍び寄った。
「可愛い子。どうして悲しんでいるのかな? これ、忘れ物だよ。きっと君の大事な人の物さ。ほら、逃げないと。怖い魔物に殺されちゃうよ? ほら、逃げないと。ほら」
幼女は錯乱したまま逃げた。小さな背中が揺れた。必死に逃げた。黒い影からとにかく生き延びようと。生の懇願である。また現実逃避である。
エンヴィは前傾姿勢をとった。母親を失くした現実を受け止めようとせず、逃れられない運命から逃れようとする滑稽さを。子供ゆえの愚かを笑った。
「ここには夢も希望もありませーん」
研ぎ澄まされた三本の爪が幼女の柔らかい背中を搔っ切る
――その魔の手を若い衛兵が弾き飛ばした。
「来るのかな? 死んじゃうよーん?」
「やってみなくちゃ。わかんないだろ」
「死ぬのはお前だ!」真面目な衛兵が後ろから斬りかかった。
「元気だねえ」すらりと躱す。
幼女がふたたび走ろうとした。
「逃がさないよ」エンヴィが爪を舐める。
「絶対に守る!!」
「そうだ! 俺たちは衛兵だ! 逃げない!」
二人の覚悟を見て立ち尽くしていた衛兵たちが武器を手に取った。
そしてエンヴィを囲った。今まであった人間臭い表情が勇敢になっている。
「勇者気取りなのかなー? 全然眩しくないね」
「死ね! 化け物が!!」
町の夜。激しい剣戟が響いた。
白亜街への階段には大通りからのとんでもない人混みが上ってきていた。耳を塞ぎたくなる叫び声よりも血の香が下町の惨状を現していた。
エレノアは真っ向から立ち向かった。飛び立ち、屋根を闊歩していく。
一方で下町の祭り風景、屋台の一覧はすでにもぬけの殻になっていた。
点いたままの提灯が彷徨うエンヴィを照らしていた。その黒には一滴の血も付いていない。
「逃げ足だけは速いな。さっきの女の子、逃がしちゃったなぁ。勿体ない。ここにいた人間はどこにいったのかな? そっちか? こっちか? あっちかぁ? あっちだな?」
夜に沈む白亜街を見上げていた。
「待てよ」
――トコトコと静寂に風情が鳴る。バキバキッと捻る拳と肩が迫る。
気迫だけは十分。数にして四十。
その眼光は狼の群れ。その手にはサーベル。狼の牙。
「クランウルブス。マーカスの雪辱と名誉のために参上した! エンヴィ! お前をぶっ殺す!」
「そうか?」
「ウルブスの若頭代理、ブルドクが宣言する! 行くぞお前らああああああああああああああ!」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
ウルブスがエンヴィを全方位から斬りつける。
エンヴィはこの猛攻を――何もせず受けた。
罵声と血飛沫が飛び交う。
エンヴィはただ滅法斬られている。人の覚悟を嘲笑うようにただ欠伸しながら。
しばらくしてウルブスの手が止まった。
「ブルドクさん。効かねえ。一斉にこれだけ攻撃しても瞬時に傷が塞がる」
「今までの魔物とは違うってことかよ。冗談キツイぞ」ブルドクは青ざめた。
「雪辱を晴れたかな? じゃあ私は忙しいから失礼しちゃうよ」
「させるかよ!」
エンヴィの背後を、ウルブスの一人が飛び掛かった。
エンヴィは慣れた手つきでその人間を爪で突き刺し、指を広げて破裂させた。
飛び散った肉片が提灯を落とした。割れて火が揺れた。
小さな火が揺らめく。そよ風が通れば消えてしまうくらいの小さな火だった。ウルブスの男達の言葉にできない表情を照らす火だ。
エンヴィはそれを嘲笑った。屈んで提灯を抓むと、ふっと、その火を消した。
「マーカスだっけ? 誰だっけそれ?」
でもそれは消された命の火でもあった。
「死んでからゆっくり思い出してみろや!! いくぞお前ら!!」
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!」
むしろ火は燃え盛った。
ウルブスが四方八方、エンヴィへ襲い掛かった。狼の咆哮が吹き荒れた。
「俺たちがウルブスだ!」
「魔物が調子乗ってんじゃねえ!」
「ぶっ殺してやる! 誰に喧嘩売ったか教えてやる!!」
火は消えない。咆哮も止まない。刃も留まらなかった。
ウルブスは今まで以上にエンヴィを斬りつける。
怒り。ただ怒り。
これがそこまであった畏怖を忘却の彼方へ吹き飛ばしていた。
……それでもなお。人間は死ぬ。死んでしまう。
体中裂け、指一つ動かせなくなったブルドクにエンヴィが近づいていく。
猫を抓むようにブルドクを持ち上げた。
「ねぇ。教えてよ。どうしたらハクアガイ?に行けるのかなぁ? ここら辺、入り組んでいてわからないんだ」
「……くたばれ」
「せっかく生かしておいてあげているのに。まだイキってんの? もう一刺ししてやりたいけど死んじゃうしな。他のカスみたいに」
「……ゴミめ」
「ひぃひっひっひっひ!!」
エンヴィはブルドクを宙へ投げ飛ばすと、落ちてきたところをストライカーがサッカーボールにするように蹴り飛ばした。
ブルドクは瓦礫と共に沈んだ。
「ひぃひっひっひ!! 最高! 至高! 人殺しぃいいい!!」
つい数十分前までは賑わっていた屋台通りが瓦礫と死体の斑模様になっていた。
何を思ったのかエンヴィはそこにあるウルブスの死体を掴むと振り回したり蹴ったりして遊んだ。
未だそそり立つ屋台を壊し、死体を鍋に突っ込み遊んだ。
「人間しゃぶしゃぶぅうううう!!」
ついに一帯に響くのはエンヴィの笑い声とそういった騒音だけだった。
飽きるとエンヴィは屋根へ上って白亜街へ走った。わざとらしくこう笑いながら。
「あっひゃっひゃっひゃっひゃ!!」
端から知っていた。




