第八話 センパイ
三ノ三の夜番は、静かだ。
表を空にしない決まりで、夜は当番が一体、洞窟に立つ。今夜は俺の番だった。昼にあれだけ響いた足音も笑い声もなく、結界の青白い明かりだけが、岩肌をうっすら照らしている。いちばん弱い区画に、夜をつぶしてまで来る物好きはいない。表の床の仕掛けは、昼のうちに半歩ぶん引き直してある。
つまり、暇である。
だから今夜は、前からやると決めていた仕事を持ち込んだ。番号の点検だ。骨に書かれたインクの番号は、古くなると薄れる。薄れたまま死ぬと、また腕の取り違えが起こる。薄れた奴を数えて、覚えておいて、朝にピンへ伝える。それだけの、地味な仕事だった。
夜の表に残っているのは、交代で裏に下りない連中だ。下りない、というより、下りることを思いつかない連中。壁に向かって立ち止まったまま動かない一体、座り込んであごだけ鳴らしている一体。その間を回って、ももやら肩やらの数字を確かめていく。
「八十八。ちょっと失礼」
ももの数字をあらためても、八十八はあごを鳴らすのをやめない。俺が来たことに、気づいているのかどうかも分からない。ただ、俺が離れるとき、あごの音がほんの少しだけ、ゆっくりになった。気のせいかもしれない。気のせいでも、覚えておくことにした。
薄れかけた者を、三体見つけた。こうして見ると、夜のうちの区画は、ただの骨の置き場だ。番号だけが、骨と骨との境目だった。
最後に、壁際の窪みの前に立った。
大きくて、白い骸骨。区画の誰より白く、角という角が丸い。左腕の継ぎ目だけが、いつ見ても少し、合っていない。
番号を探した。ももにも、肩にも、あばらにも、ない。回り込んで背中側も見た。ない。どこにも、ない。
薄れたのか、と最初は思った。違う。薄れた跡も、書き直した跡も、ない。最初から、書かれていないのだ。
「あんた、番号は」
返事はない。目の穴はまっすぐ前を向いたまま、微動だにしない。知っていた。この人が返事をしないことは、初日から知っている。
夜半、一度だけ、その右腕が動いた。
すっとひじが上がり、手のひらが横を向く。誰かに——止まれ、とでも言うような形で、二拍ぶん止まって、静かに下りた。
「……今の、なんだ」
返事はない。古い癖の暴発かもしれない。にしては、形が妙に、そろっていた。癖というのは、体に何千回も通した道のことだ。あの腕は、あの形を、何千回も通したことがある。
夜明け前に、ドロテアが表に出てきた。
「なんだい——ああ、今夜はあんたの番かい」
彼女は俺の横を通り過ぎ、窪みの前に立つと、腰の布を取って、白い頭蓋骨を拭きはじめた。慣れた手つきだった。毎晩やっているのだと、手つきのほうが先に言っていた。
「なあ。この人の番号を探してるんだが」
「……見つからなかったろ」
「ないのか」
「ないんだよ」
ドロテアは手を止めなかった。
「昔、聞いたことがあるんだ。番号は、って。……答えなかったよ」
「台帳のほうは」
「給料の帳面を運んでくる子に、頼んで見てもらったことがある。三ノ三の骨のページに、番号のない骨は載ってないってさ。……ページのほうが、一体ぶん足りないんだよ。立ってる骨の数より」
湧いたら台帳に載る。そこだけは律儀なのさ——そう教えてくれたのは、ほかならぬドロテアだ。その律儀な台帳が、この人の行だけ、持っていない。
思えば、給料の列にこの人が並んだのを、俺は見たことがない。気づく機会なら、いくらでもあった。数えていなかったのは、俺のほうだ。
考えられる理屈は、いくつか浮かんだ。どれも、口に出す気にはなれなかった。
「……初めて会った日は、さあね、って言ったろ」
「言ったね」
ドロテアは、悪びれなかった。
「湧いたその日の新入りに、する話かい、これが」
……違いない。あの日の俺は、自分が骨だと飲み込むだけで手一杯だった。
「あたしが来た頃はね」
拭く手はそのままに、ドロテアが言った。
「この人が、いちばんよく喋る骨だった」
はっきり喋るんだね、と言われたのは、復活した日だ。珍しいね。——今は、とも。
あの「今は」だ。
「……この人が」
「新入りが湧くと、いちばんに寄ってきて、いちばん長く喋るんだ。区画のこと、上のこと、逃げ方、直り方。……ちょうど、今のあんたみたいにさ」
「あんたも、世話になったのか」
「あたしが今やってることは、ぜんぶこの人の受け売りだよ。新入りの腕を直してやるのも、番号を書いときなって言うのも」
つまり俺は、初日にこの人の世話になっている。ドロテアの手を、一枚はさんで。
俺は黙って、白い骸骨を見上げた。いちばんよく喋る骨。想像は、うまく像を結ばなかった。
「死んで、直って、死んで、直って。そのたびに、ちょっとずつ言葉が減った。一度にじゃないよ。今日は口数が少ないね、くらいのが、積もっていくのさ。気づいたときには——」
そこで、やめた。布をたたむ音だけがした。
「最後に喋ったのは、いつだ」
「……覚えてないんだよ、それが」
ドロテアはたたんだ布を腰に戻して、初めてこちらを向いた。
「最後だなんて、思ってないからね、こっちは。今日は喋らない日だね、が続いて、続いて——それっきりさ。覚えとくんだったよ」
それだけ言うと、彼女は裏へ戻っていった。去り際、一度だけ振り返って、
「あんまり——」
「死ぬんじゃないよ、だろ。分かってる」
「……分かってるなら、いいけどさ」
足音が消えた。
分かってる、と言った。
分かって、いなかった。たったいま、分かった。
減るんだよ。ちょっとずつ。中身がさ。——復活した日に、そう聞いた。あのときの俺は、それを料金表だと思った。死ぬことの値札だと。違う。値札なら、まだいい。値札は、払う前に読める。これは、払い終わったあとも、自分がいくら払ったのか分からない。今日は喋らない日だね、が続くだけだ。
俺は、自分の指を見た。
それから、折りはじめた。
名前。ある。口の中で、言えた。
歳。三十七。ある。
仕事。作る側だった。最後まで作っていたものの手触り。ある。
毎朝、仕事場の机で飲んでいたやつ。名前は出る。……味が、出ない。
千回は飲んだはずだ。味が思い出せないだけなのか、そもそも味わってなどいなかったのか。その区別がつかないところで、指が止まった。
俺はもう、一度死んでいる。
指を折り直した。名前。歳。仕事。三つ、ある。数は合っている。——今夜のところは。
減るのを止める手は、まだ知らない。あるのかどうかも知らない。それなら、せめて。
数えなおしだ。倉庫から物が消えるときは、いつも静かだ。騒げるのは、帳面を付けている奴だけ。付けよう。毎晩、指を折って。減った日に、減ったと言える側でいよう。
窪みのほうを、見た。
この人が何を持っていて、何を払ったのか、数えた者はいない。台帳にすら、載っていない。区画のことも、上のことも、逃げ方も、直り方も——この区画の元手は、たぶん、ぜんぶこの人が払った。
夜が明けきる前に、俺はもう一度、窪みの前に立った。
番号がない。名前は、誰も知らない。つまりこの人は、呼びようがない。呼びようがないというのは、誰からも呼ばれない、ということだ。
それは、まずい。
「あんたのことは、これから、センパイと呼ぶ」
この区画の誰より古いんだから、文句はないはずだ。
返事はない。まあ、いい。呼び名というのは、返事をもらうためだけのものじゃない。呼ぶ側が、忘れないためのものでもある。
「じゃあ、センパイ。俺は裏で休んでくる。……行ってきます」
返事はない。
薄れた三体のことは、裏に下りてすぐピンに伝えた。それから半日を裏で過ごして、夕方、表に戻った。今日の客はもう帰ったあとらしい。入れ違いに、ピンが手を振って裏へ下りていく。帳面袋が、ぱたぱた揺れていた。
洞窟に入って、窪みのほうは見ないまま、俺は言った。
「ただいま」
こつ、と指の骨が、ひとつ鳴った。
振り向いた先で、センパイはゆうべと同じ姿勢のまま立っていた。目の穴は、まっすぐ前を向いたままだ。
俺は入口に立ったまま、しばらく、動けずにいた。
……今日の数字を、報告しよう。まだ何も数えていないが、ゆうべの分なら、ある。




