第九話 月次査定
月末の三ノ三は、朝から空気がわずかに硬い。
査定の日だ。月にいちど、階層長が区画を回って、来月の灯の配分を言い渡していく——というのが、ドロテアの朝の講義だ。俺自身は、査定というものをまだ一度も見ていない。新入りは黙って見学である。
俺はといえば、順の回ってきた夜番の明けである。指折りの数えなおしは済ませた。名前、歳、仕事。三つ、ある。センパイへの報告も済ませた。夜の挑戦者、ゼロ。ゼロを報告する意味があるのかと思うかもしれないが、ゼロはゼロで立派な数字である。少なくとも、数えた者だけが「ゼロだった」と言える。
そして、うちの帳面には今月、また来た顔がふたり載っている。上の帳面が、それをどう数えるのか。今日、それが分かる。
骨たちの間では「じょうほう」が飛び交っていた——飛び交う程度には口の回る連中の間で、だが。いわく、今日は上の強いやつが来る。いわく、数を数えられて、少ないと連れていかれる。いわく、怒らせると番号を取り上げられる。
最後のは論外——と、笑いかけて、やめた。番号のない骨なら、うちに一体いる。
うちの区画長、ヴォルクは朝から、入口と奥を三往復していた。ひもで提げた区画長の印を、袖の中で握っては、放す。事なかれの区画長が事を構えている姿は、それだけで少し、天気が悪い日のようだった。
昼前に、石の翼が降りてきた。
ガーゴイルだ。灰色の翼をたたんで入口に立つと、岩がそのまま歩き出したように見える。片方の角が欠けた石の顔。小脇に、分厚い査定簿。
第三層の階層長、フォスカ様——これも、ドロテアの講義にあった。
「区画長。いつもの」
「はい。……はい」
ヴォルクが袖の先の淡い明かりを揺らしながら、入口へ滑っていく。フォスカは査定簿を開き、石の指でページをめくった。めくりながら、もう読み上げている。慣れというより、飽きの手つきだった。
「三ノ三。挑戦者の数、微増。撃退の率、相変わらず。客足の続き具合——」
そこで、石の目が一度、止まった。
「……微増。総合、三灯と四分」
は? という間が、ヴォルクに流れた。顔のない人なので確かめようはないが、袖の淡い明かりが一瞬、強くなった。
「三灯、と?」
「四分。来月からだ。——言っておくが、誤差だぞ、区画長。風向きが変われば消える程度の」
四つ目は、読まれなかった。
あの、名前の読めない、配点だけ重い四つ目だ。書いてあっても俺には読めない。だが声に出してくれれば、耳からなら分かった。フォスカは、出さなかった。……お預けは、続くらしい。
フォスカは査定簿を閉じ、翼を広げかけて、思い出したように付け足した。
「妙な噂を聞いた。この区画の骨は、客を笑わせるそうだな」
「は。いえ、その……取るに足らない、遊びのようなもので」
「遊び」
石の顔は、笑いも怒りもしなかった。
「浮かれた区画から順に、査定簿から消えていく。覚えておくことだ。——まあ、数字は数字だ。私は、読み上げただけだからな」
言い置いて、灰色の翼は隣の区画へ飛んでいった。最後の一言だけ、嫌味というより伝言のような響きだった。
誤差、と上は言った。
だが俺は、その「誤差」の中身を知っている。岩陰で、ピンがこっちを見ていた。俺が目で問うと、帳面を胸に抱えて、欠けた前歯を見せて、声を出さずに口だけ動かす。——ふ、た、り。
そうだ。あの四分には、名前がついている。常連一号と二号。テオと、ミナ。そばかすの剣と、大きすぎる帽子。風向きなんかじゃない。二人の子供が、こんな最底辺の区画に、笑って通ってくれた分だ。
数字に名前がついている区画は、たぶん、この迷宮でうちだけである。
浮かれた区画から順に、消えていく——あの言葉の受け取り方だけは、その場で決めた。浮かれない。浮く。数字で、誤差とは呼べない桁まで、静かに積む。派手にするのは、演目だけでいい。
◇
査定のあとは決まりどおり半日を裏で休み、夕方、裏市場のマム・グレテの店の隅で、臨時の会議を開いた。
議題は「来月から増える四分の使い道」。出席者はドロテア、ピン、それから成り行きで隣に座っていた骨が二体。大鍋の湯気の向こうから、グレテが「今夜は祝いかい」とおたまを振ってきた。噂の回りが早い。この店を経由する情報は、だいたい飯より熱いうちに届く。——だから会議は店のいちばん隅で、声を落としてやる。うちの噂が上にまで届くことは、今日、階層長の口から思い知ったばかりだ。
議題を告げたとたん、骨の一体が言った。
「よんぶ、って、なんだ」
「灯のはんぱだよ。一灯の、十分の一」
ドロテアの講義は簡潔だ。骨たちは分かったような顔をした。分かっていないことは、次の一言で分かった。
「で、よんぶは、食えるのか」
食えない。会議と言っても、この水準からだ。
「まず、ピン。さっきの階層長の読み上げ、うちの帳面と合ってたか」
「……かぞえなおしました。ふえてる向きは、あってます。客足の続き具合は、たぶん、うちの、また来た顔、です」
「たぶん?」
「上は、数だけ、です。だれが、また来たかは、よみあげに、ありません」
聞かれたことしか答えない帳簿係は、今日も正確だ。上の帳面は「何人」を数える。うちの帳面は「誰が」を数える。似ているようで、別の商売道具だ。
「今月、また来た顔は」
「ふたり、です。常連一号、二号」
「なら、風向きじゃないな」
「……はい。かぜは、かぞえられません、ので」
「それと」と、ピンは帳面をめくった。「よみあげのぶんを、たしても、四分に、とどかない気がします。……のこりは、よまれなかった四つ目が、うごいたのだと、おもいます」
読まれない四行目が、動いている。噂が門前まで下りた月に、だ。偶然かもしれない。偶然を二回見たら、俺はそれを偶然とは呼ばない主義だ。——次の査定で、確かめる。
「で、本題だ。四分の使い道、案は三つ。一つ、酒。一つ、飯。一つ——結界と床の繕い」
「「さけ」」
「言っとくけど、あるんだよ。灯をごちそうや見栄に回す区画は、上のほうには本当に」とドロテアが言い添える。つまり酒は、できない相談ではないのだ。できてしまうから、会議になる。
「だと思ったよ。じゃあ聞くが、床が抜けて客が足を折ったら、来月の酒はどうなる」
骨二体は、顔を見合わせた。見合わせて、長いこと黙って、それからどちらからともなく言った。
「……めし?」
会議は難航した。
最終的に、「最初の四分は結界と床の繕い。客がもっと増えたら、酒」で、上に出すお願いの中身が決まった。決めるのは俺たちじゃない。区画長だ。ただ、数字の添えてあるお願いは、ただのお願いより強い。
ドロテアが「あんた、骨のくせに商人みたいだね」と呆れ、ピンが帳面の隅に、さけ、は、そのつぎ、と唱えながら書き付けた。約束は帳面に載った。載ったものは、もう消せない。うちの帳簿係は、そういう主義である。
酒を我慢して壁に塗る。馬鹿げた話に聞こえるのは、分かっている。……まずは床だ。理屈は、床のあとでいい。
帰りしな、ピンが結論を一枚に写した。俺はそれを、表に戻る道すがら、ヴォルクの岩机に置いてきた。お願い、という体で。
◇
夜、表に戻ると、区画長のヴォルクが入口近くの岩机で書き物をしていた。
中央へ返す、受領の書き付け——たしかに受け取りました、の一枚らしい。査定のたびに区画長が署名して返す決まりだそうだ。袖の淡い明かりが、筆の先で小さく揺れている。
岩机の端には、夕方の一枚がある。四分は結界と床の繕いに。末尾には、頼んでもいないのに、今月の数字が几帳面に添えてある。挑戦者の数。生還の数。また来た顔、ふたり。
頼んでいないのに、である。聞かれたことしか答えなかった帳簿係が、聞かれる前に、数字を差し出すようになった。
ヴォルクは署名の途中で、ふと、その一枚に目をやった。
正の字の写しを、袖の明かりが照らしている。
何も言わなかった。
何も言わないまま——署名の手が、少しだけ、長く止まった。
灯は、まだ三つと少しだ。——それでも、増えた。
署名の手が動き出すまで、俺は息を——しない体で、待った。




