第七話 還り石
灰嶺の門前、迷宮監理局——迷宮の出入りを取り仕切る役所の受付には、朝から列ができる。
アデル・ロアは、その列の先頭近くにいた。すぐ前に、見慣れた小さい背中がふたつ。月の頭は、掛け金の更新日だ。
列の後ろで、見ない顔の新人が二人、声を潜めもせずに喋っている。
「——で、その骨が、次に曲がる角を指差すんだと」
「なんだそれ。見てえ」
アデルは、聞かなかったふりをした。眉の古傷を、指の腹で一度だけかいた。噂は、もう門前まで下りてきている。
窓口の向こうには、いつもの受付長がいる。一分の隙もない束ね髪に、細い眼鏡。ミレイユ・カロン。この窓口で彼女が声を荒らげたところを、アデルは一度も見たことがない。そして彼女は今日も、手元の書類から目を上げない。
「えっと、あの、更新で……テオです。ひよこ隊の」
「登録は確認しています。仮章の更新ですね。潜行記録の写しを」
少年が差し出した木の仮札に、ミレイユは淡々と判を入れる。それから、決まりの文句のように続けた。
「帰還保証契約は、今期もされませんか」
「……はい。その、掛け金が」
「加入は任意です。規定ですので、確認しているだけです」
隣で帽子の少女が、ちらりと窓口の奥の棚を見た。棚には、小さな乳白色の石が、ずらりと並んでいる。少女の視線に気づいて、少年が慌てたように頭を下げ、二人は窓口を離れていった。
「……あの子ら、まだ保険なしか」と、盾持ちの老ドワーフのバルガスがうなった。
「仮章の掛け金でも、あの装備じゃ払えませんよ」と、薬師のエルフのシルヴァが手帳から顔も上げずに言う。相変わらず、何でも書き留める薬師である。
「だから、あの区画なんだろ」
アデルは短く言った。深く潜れば死ぬ。死ねば終わりだ。石を持てない者は、死なない場所を選ぶしかない。あの子らに選べる場所は、灰嶺にひとつしかない——いちばん弱い、あの区画だ。
順番が来た。アデルは自分の掛け金を先に納め、隣でバルガスが、銀の章を窓口に置く。
「更新を。ついでに掛け金もだ」
「バルガス様。銀章の更新、承りました。今期の掛け金は——」
ミレイユが読み上げた数字に、バルガスの白ひげがぴくりと動いた。
「……年寄りは高くつくな」
「規定の額です」
「分かってるさ」
迷宮に絶対はない、というのがこの老兵の口癖だった。文句のわりにあっさりと金貨を積み、首から提げていた古い石を外して返すと、引き換えに、新しい乳白色の石をひとつ受け取る。革紐を通し、首から提げ、鎧の下へ落とす。慣れた手つきだった。命の値段を首から提げる手つきが、慣れたものであってはいけない気もしたが、アデルは何も言わなかった。自分の胸元にも、同じ石が下がっている。
「還り石の貸し出しを確認しました。肌身から離さないこと。規定ですので」
「ああ。——なあ、受付さんよ」
バルガスが、窓口にひじを置いた。
「この石で還ってきた奴を、あんた何人見た」
ミレイユの判を持つ手は、止まらなかった。
「規定により、お答えできません」
「そうかい」
それだけ聞いて、老兵は列を離れた。アデルは、胸元の石を服の上から一度だけ押さえた。シルヴァが手帳に何かを書きつける。アデルは、書かれた文字を見なかった。見なくても分かる気がした。
門を出る間際、シルヴァが手帳をめくりながら、独り言のように言った。
「……この区画の記録だけ、ページが足りません」
「区画?」
「三ノ三、です。書くことが、増えました」
「なら買い足せ。減るもんでもないだろ」
アデルはそれだけ言って、灰色の峰を一度だけ見上げた。
◇
三ノ三の洞窟で、俺は今日も、追いかけっこの店じまいを済ませたところだった。
ひよこの二人は、このごろ最初から追いかけっこをしに来る。今日は転がった俺を、ミナが縄で捕まえかけるという新手まで飛び出した。客が演目を作りはじめたら、その興行は本物である。
その二人が、帰り支度をしながら、妙な話を始めた。
「きょうも受付で聞かれたね。保険」
「毎月おんなじこと聞くんだよね、あのお姉さん。……入れないの、分かってるのにさ。借り賃、僕らの稼ぎの倍だもん」
保険。受付。借り賃。
俺は転がったままの姿勢で、聞き耳を立てた。骨に耳はないが、そういうものは、あるのだ。ミナが一度だけ、転がった俺を見た。それから、なんでもない顔で話を続けた。骨に聞かれて困る話でもない、ということだろう。ご明察である。
「アデルさんたち、持ってるよね。かえりいし」
「バルガスさん、銀章だもん。深くまで潜る人は、ないと駄目なんだって。……いいなあ、還り石。あれがあれば、死んでも入口に戻れるんだよ」
「死んだら、じゃなくて、死ぬ寸前に、でしょ。受付で借りて、返すやつ」
「そうだっけ。とにかく、ぎりぎりで入口に飛ばされるんだって。父さんの剣より高いけど」
死ぬ寸前に、入口へ飛ぶ。
「僕らは死んだら終わりだから、さ。だから——ここで、ちゃんとうまくなってから」
「うん。……ここ、たのしいしね」
二人は笑って、たいまつを振って、帰っていった。俺は転がったまま、しばらく起き上がれなかった。
死ぬ寸前に、入口へ戻される石が、ある。受付とやらで、金を払って借りる。高い。あの二人には、届かない。
つまり、こういうことになる。俺の客は——死んだら、終わりの側なのだ。
俺は死んでも、三日もあれば戻る——前回は、そうだった。中身の目減りと引き換えではあるが、戻る。あの二人は、戻らない。
そして、うちの連中は雑魚だが、二十一体いる。錆びていても、刃物はある。夢中で走る子供の足元には、傷んだ床と俺の演出が転がっていて、振り上げた剣は、当たりどころ次第で持ち主も傷つける。殺せない、のではない。殺さない、そして——殺させない。そこを保ち続ける限りでだけ、あの笑い声は成立している。
すっと、冷えた。
明日から、線を半歩、俺の側に引き直そう。「惜しい」は削らない。「危ない」だけを削る。追う側は気づかないくらいの半歩でいい。それが、殺さない店の仕込みというものだ。
それにしても、と俺は考える。死を金で回避する仕組みがあって、石があって、掛け金があって、それを窓口で貸す誰かがいる。「受付」という言葉も、二人の会話には出てきた。金の流れのにおいがする。上流も下流も、まだ見えない。見えないが——この迷宮の帳簿は、思っていたよりずっと、大きい。
いつか、その窓口とやらも、数えに行く必要がありそうだ。骨の姿で行けるのかどうかは、また別の問題として。
◇
夕暮れの監理局に、客の姿はもうなかった。
窓口を閉めかけたミレイユの前に、アデルがひとりで立った。バルガスにも、シルヴァにも、行き先を言っていない。
「すまない。閉める前に、ひとつ」
「手続きでしたら、明朝に」
「手続きじゃない。——照会だ」
アデルは、窓口に手をついた。声が、少しだけ低くなった。
「……数年前の、契約記録を見たい」
判をしまいかけていたミレイユの手が、初めて、止まった。
眼鏡の奥の目が、アデルを見る。事務の顔のまま、口が開く。
「規定ですので。……規定に、ないことは」
その先を、彼女は言わなかった。




