第六十四話 読め
写しが、来た。
査定の、次の日の夕方だ。裏回りの道から、隣の区画の子が上がってきて、岩机に紙を一枚置いて、何も言わずに、下りていった。読め、の紙と、同じ道、同じ置き方。
ピンが、戸口まで出て、下りていく子の背を、見送った。見送って、戻った。読め、の紙のときは、戸口まで出なかった。
閉鎖の紙は、たたんだまま、岩机の端にある。その隣に、新しい紙が、来た。
紙は、二つに折ってある。折り目のところだけ、紙の目が、起きている。開いた。
上の帳面の、隣の行の写し。上の帳面の字を、写したものだ。二十三灯二分。頭数、四十八。
きのうの昼に石の口が読んだ灯の数と、読まなかった頭数が、紙の上に、並んでいる。その下に、うちの行はない。隣の行だけの写しだ。
余白が、広い。広い余白の、上のほうに、細い字が、一行。磨かれた骨のような、癖のない字。
——抜き返した。……数は、おまえのだ。
ピンが、息を止めた。喉のある者の、止め方だ。おたまの音の下で、ピンの小さい音が、一つ、消えた。消えたのが、分かった。棒が、耳から、半分、ずれた。落ちなかった。
俺のあばらの内側が、鳴ったのは、そのあとだった。きのう、二番、で鳴ったところと、同じところだ。鳴り方だけが、違う。
◇
二度、読んだ。一度目は、字を。二度目は、点々の、あいだを。
おまえ、と、この骨は、前にも言った。夜に、ここで。その先は、言わん。おまえが抜いてから、数えろ。あのときは、声だった。今度は、字だ。字は、残る。
俺の右手が、紙の縁にかかった。黒い指が、かかって、動かない。
「だいこう」
「読んだ」
「よみました。おまえ、の、かず、と、かいて、あります」
「書いてある」
「ほめて、いますか」
「……いない。数を、言っている」
「はい。かず、です」
言ってから、ピンは、俺の右手を見た。紙の縁にかかった、黒い指を。見て、何も言わなかった。
ピンの数え棒が、耳から、下りた。字に触れないように、一行の下を、端から端まで、なぞった。なぞり終えて、耳に、戻った。
「おまえ、の、かず、と、かいて、ある、かみは、はじめて、です」
「初めてだ」
「ちょうめんに、はさみますか」
「挟む。……あとでだ」
写しを、まだ、たたまなかった。たたまない紙を、ピンが、岩机の端から端まで、目で、測っている。
◇
一行の、さらに下に、跡があった。
一度、書きかけて、消した跡。細い字の、癖のない、消し方。
前にも、見た。あのときは、何を書きかけたのかが、読めなかった。指で、なぞって、止めた。
今度は、違う。消し方が、浅い。一字だけ、読める。
席。
一字。その先も、その前も、消えている。席、の字だけが、紙の目の奥に、残っている。
席の字を、隣から来た紙の上で、見たことがある。席が足りん、の一行。あれは、うちの席の、数のことだった。
もう一つは、監査の紙の、いちばん下。第七席。どちらの席も、字は、同じだ。同じ字が、消した跡の奥に、一つ。
今度の席が、どちらかを、俺は、知らない。どちらでもないかも、知らない。
◇
訊けば、答えるか。
訊く帳面は、二列だ。俺の帳面は、二列だ。訊かない帳面は、一列になる。隣の一位の、夜の言葉から、俺が、そう数えた。その骨が、今、消した跡の向こうにいる。
右手が、紙の上で、持ち上がった。訊く側の手だ。
おまえが抜いてから、数えろ。一度、抜いた。抜いて、抜き返された。その骨が、紙に、書きかけて、消した字がある。消した者に、訊くか。
手が、下りた。下りた先は、紙の縁だった。跡の上では、ない。
訊かない。
訊かなかった、ということが、俺の中に、一つ、残る。帳面には、入れない。二列の帳面を持つ骨が、一列のところを、一つ、持つ。
「だいこう。せき、は、なんですか」
「……知らない」
「かきますか」
「書かない。知らないものは、帳面に入れない」
「……せき、は、ひらがなで、かけます」
「書けても、書かない」
「はい」
二度目の、はい、は、小さかった。ピンの棒が、耳の上で、少し、動いた。動いて、止まった。
鍋の前で、ドロテアが、おたまを止めずに、俺に言った。
「あんた。紙、来たね。……明日かい」
「明日です。この紙を、読み終えてからです」
「火を、強くしとくよ」
おたまが、鍋の底を、こすった。こすってから、ドロテアは、岩机のほうを、見た。紙を見て、俺の手を見て、鍋に戻った。
ヴォルクが、岩机の向こうで、袖を手首まで下ろしたまま、写しを見ている。見て、何も言わない。袖の布が、小さく鳴った。
◇
上を数える帳面を、開いた。監査の紙が来た夜に、一行目を書いた帳面だ。
ピンの字で、行が並んでいる。かんさ、から、へいさ、まで。左に、紙にあること。右に、うちの帳面の、読まれた行の番号。番号のない行が、一つ、ある。すべて、の行だ。
筆を、ピンから、借りた。先の欠けた二本の指に、左手を、添えた。
左の列の、いちばん下に、書いた。
二位。
その下に、もう一行。
写し。
二行、俺の字だ。ピンの字より、少し、大きい。
「みぎ、は」
「二位の右は、ない。上は、上の帳面を読んだ。うちの行は、読まれていない」
「うつし、の、みぎ、は」
「ない。写しに、うちの行は、ない」
ピンは、空いた右の上で、数え棒を回した。回して、耳に戻した。すべて、の横。二位、の横。写し、の横。空いたところが、二つ、増えた。
「あいた、ところが、ふえました」
「増えた」
「あく、のは、わるい、ことですか」
「……知らない。空いたまま、持つ」
「はい」
ピンは、帳面を閉じなかった。空いたところを、しばらく、見ていた。
◇
戸口から、坂の下を見た。
暗かった側の明かりは、二つのまま、ついている。増えても、減っても、いない。
振り向くと、壁際で、ぱたりが、戸口のほうを見ていた。あごは、きのうから、上がったままだ。
岩机に戻った。写しが、開いたまま、ある。ピンは、帳面袋を抱えて、岩机の端に座っている。棒は、耳。目は、写しの余白。
挟む、と言った紙を、まだ、挟んでいない。挟めば、一行が、見えなくなる。今夜は、開いたまま、置く。
一行を、もう一度、読んだ。数は、おまえのだ。
その下の、消した跡に、右手を置いた。黒い指の、短くなった先が、席、の字の上にある。
指を、動かさなかった。




