第六十三話 抜かれた日
査定の朝だ。
鍋の火は、いつもどおりに入っている。壁際の連中は、まだ角度を正していない。正すのは、翼の音が来てからだ。
ピンが、岩机の横で、数え棒を両手で握っている。耳には、ない。帳面は、開いている。毎朝ピンが書いてきた、八日、七日、と減る数の、いちばん下。今日の行に、さてい、の字。
「きょうは、おとしません」
「落とすな」
ドロテアが、鍋の向こうから、こちらを見た。見て、おたまを、ゆっくり回した。査定の朝の、ゆっくりである。
前の査定の朝、ピンは、おとします、と言った。今朝は、おとしません、と言う。
今朝の数字は、俺の帳面に、だいたい、ある。二十灯台まで。それより先は、上が持っている数だ。待つのは、その先だけだ。
隣の写しの灯の行は、見た。上がる数だった。
戸口まで出た。坂の下の、暗かった側の明かりは、二つのまま、ついている。消えてはいない。増えても、いない。
窪みの中の一体は、いつもの角度でいる。あの朝から、何も言わない。
◇
昼、石の翼の音が来た。
壁際が、角度を正す。ヴォルクが岩机の前に立ち、俺とピンは、その少し後ろに並ぶ。
階層長フォスカ。査定簿を小脇に。石の指が、紙の縁を押さえている。石の目が、岩机の端の、たたんだ紙を、一度見た。見て、査定簿を開いた。
「三ノ三。挑戦者の数——減」
減、の一語が、壁際まで届いた。角度は、崩れなかった。
「撃退の率、相変わらず。客足の続き具合——減」
来なかった客が、紙の上で、減、の一語になっている。来なかった日を、俺は、一日ずつ数えた。紙は、一語で済ませる。
石の指が、紙をめくる。
「三ノ三。——二十灯と、四分。来月からだ」
二十灯と、四分。二十灯台まで、俺の帳面にある数である。四分、は、今、来た。
石の指が、次の行へ行く。
止まらなかった。天井も、見なかった。指は、進んだ。
「順位。……二番」
口だけが、遅かった。二番、までが、長い。
「第三層、総合の、二番」
ヴォルクの袖が、手首のところで、一度、鳴った。手は、出ていない。
あばらの内側が、鳴った。前の月、鳴らなかったところで。黒い右手が、岩机の縁を探した。縁に、かかった。
壁際で、音がしなかった。ピンの両手の中で、棒は、動かない。ピンの目は、俺の、黒い手の、付け根にある。鍋の前で、おたまの柄を、ドロテアが握り直した。
「三ノ二。——二十三灯と、二分。順位、一番」
隣の行だ。読まれる順は、変わらない。順位が、変わった。一位の月、下で読まれた行が、今月は、上だ。
石の指が、査定簿を閉じた。閉じたまま、小脇に戻った。
◇
壁際を、見た。
三十五。角度は、揃っている。ぱたりの、あごが、一度、下がりかけた。下がる前に、止まった。止めたのが、見えた。もっかいの指が、床に触れかけて、膝の上に戻った。
崩れないために、二体が、動いた。動いたのを、俺は、見た。
石の階層長に、言うか。火の月に、客が来なかった日のことを。隣が、上がったことを。言えば、読まれた数の外に、俺の話が出る。
言わなかった。右手を、岩机の縁に、置いたままにした。黒い手を。
石の顔は、何も言わない。境の通路のほうへ、翼を向けた。通路の手前まで、運んで、そこで、止まった。石の目が、窪みのほうで、止まる。
◇
戸口から、坂の下を見た。
暗かった側の明かりの、さらに向こう。隣の区画のほうは、ここからは、見えない。見えないほうを、一拍、見た。頭数の増えた区画が、そこにある。見て、岩机に戻った。
ヴォルクが、岩机の端の、たたんだ閉鎖の紙を、手前に寄せた。通路の手前の、石の目の、届かないほうへ。寄せてから、袖を、手首のところで、押さえた。紙は、たたんだままだ。今日も、開かない。
鍋の火が、一度、大きくなった。ドロテアが、薪を足した音だった。足してから、言った。
「あんた」
「はい」
「抜かれた日は、どうすんだい」
抜いた日は、祭りにする、と決めてある。抜かれた日の、行はない。
壁際の三十五が、こちらを見ている。窪みの中の一体は、見ていない。通路の手前の石の顔は、窪みを見たままだ。
言わなければ、今日は、給料日の鍋で終わる。グレテの大鍋が、給料のぶんで、坂をのぼってくる。それで、済む。済む、と、言おうとした。あごが、動かなかった。
右手を、縁から、離した。離した手が、帳面の、今日の行の、さてい、の字の横に来た。横は、白い。ここに、今日の数が入る。入れるのは、ピンの筆だ。その下に、うちの行を、一つ、足せる。足せ、と言うのは、俺だ。
「……祭りだ」
ドロテアのおたまが、止まった。
「負けたのにかい」
「負けた日の祭りは、まだ、やったことがありません」
おたまの先が、鍋の縁を、一度、たたいた。
「いつだい」
「今夜では、ありません。隣の紙が、来てからです」
一位の月、隣の紙は、祭りの途中で来た。今月は、来てから、やる。順を、入れ替える。
「祭りに回す灯は、ないよ。給料日のぶんで、終わりだ」
「鍋ひとつで、やります。うちの鍋で。火だけ、強く」
「……その日は、強くするよ。椀は、あんたが数えな」
「数えます」
ドロテアは、おたまを鍋に戻した。戻してから、鍋の底まで、一度、深くかき回した。音が、いつもより、低い。
ピンが、棒を帳面袋に入れて、筆を取った。書いた。じゅんい。にばん。ぬかれたひ。書いた字を、たたかなかった。筆を置いて、棒を、袋から出した。耳に、挟んだ。
「だいこう」
「なんだ」
「ぬかれたひ、の、ぎょうは、はじめて、です」
「初めてだ。……書き方は、同じでいい」
「おなじ、おおきさで、かきました。まつり、は、そのひに、かきます」
「それでいい」
「はい」
壁際で、ぱたりのあごが、上がった。下がりかけた、あごである。上がったまま、戻らない。
◇
境の通路の手前に、石の階層長が、立っている。
帰らない。査定簿が、小脇から、石の指の上に移っている。指が、表紙を押さえている。一位の日、この人は、今日は祭りか、と訊いた。今日は、訊かないまま、立っている。
壁際の三十五が、立っている階層長を見ている。一位の日も、こうして見た。あのときの顔と、今日の顔の、違いを、俺は、見分けられない。石の顔である。
鍋の湯気が上がったとき、石の顔が、一度だけ、鍋のほうを向いた。向いて、戻した。
ピンが、俺の横で、耳の棒に、手をやった。触って、下ろした。
石の指は、査定簿の表紙の上にある。
閉じてから、もう一度は、開かなかった。




