第六十二話 五つ目
帳面を、開いた。
右手で、開いた。黒い指が、表紙の縁にかかる。付け根の継ぎ目が、革に触れる。もう、熱くない。手つきは、前と変わらない。手だけが、黒い。
査定まで、八日、とピンが書いた。その下は、まだ、白い。
岩机の端に、閉鎖の紙がある。朝のうちに、ヴォルクが、たたんだ。たたんで、端に置いた。字は、見えない。紙の色だけが、見える。
「客が、来るかもしれませんので」
それだけ、言った。
◇
昼、戸口に、影が立った。
二つ。一つは、見覚えのある背の高さで、もう一つは、その後ろで足を止めている。戸口まで来て、入らない。
「……あの。まだ、やってますか」
テオだった。後ろに、ミナ。自分の足で、坂を上がってきている。くじいたほうの足も、ふだんの歩き方だ。
「やっています」
言ってから、俺は、自分の声を聞いた。客に向けた声を、何日ぶりに出したかを、数えなかった。右手が、戸口のほうへ、少し、動いた。岩机の縁に、戻した。
「酒場で、ここの火の話、してて。それで、来るのやめとこうって、みんな言ってて。でも、来ました。ミナが、行く、って」
ミナは、俺の右手を見ている。黒い手を。先に、戸口をまたいだ。またいでから、振り返った。
「ほら。やってるって言ったでしょ」
テオが、頭を下げてから、入った。下げる角度が、前と同じだった。
テオも、岩机の上の、俺の右手を、見た。それから、観る席のほうへ、足を向けた。
その後ろから、もう一組、来た。見覚えのない、槌を担いだ男と、杖の女である。テオが、振り向いて言った。
「あ。酒場で、隣にいた人たちで。火の話、聞いてて」
槌の男は、何も言わない。戸口の内側で、足を止めて、壁際の列を見ている。
二組。鍋の前で、ドロテアが、おたまを止めた。止めて、鍋に戻した。戻った音が、戸口まで届く高さだった。
壁際で、ぱたりが、あごを上げた。客を見るときの、角度である。
◇
教室の列を、組んだ。
転び教室の生徒たち。もどりがいる。その隣に、もっかいの名を最初に呼んだ骨。前の朝の点呼で、番号より先に音が返った、あの骨である。あとは、名のない骨。ぱたりと、もっかいは、壁際にいる。
ピンが、帳面を開いて、横に立つ。数え棒は、手に握っている。
「ばんごう、よみます」
「読め」
客が、観る席に、座った。ミナが、席の端に、片足を伸ばして座る。槌の男は、槌を、足もとに寝かせた。
ピンが、番号を読む。先頭の骨の、あごが、ゆっくり、上がる。次。もどり。番号の前に、ピンが、もどり、と読んだ。あごが、速く、上がる。
次の骨。
ピンが、帳面の番号を見た。口を開ける前に、列の端で、小さい声がした。
「さき」
その骨の、あごが、上がった。速い。
前のときは、中身が、聞き取れなかった。今日は、聞き取れた。さき。列の端の、名のない生徒の声だった。
ピンの口が、開きかけたまま、一拍、止まった。それから、その骨の番号を読んだ。読んで、足した。
「……さき」
最後の骨。番号を読む。あごが、ゆっくり、上がる。
列の端から、床を指でつつく音が、短く、渡った。それだけで、教室は、転びに入った。
先頭の骨が、転ぶ。もどりが、転ぶ。さきが、転ぶ。最後の骨が、転ぶ。壁際で、ぱたりが、採点のあごを、動かした。観る席で、テオが、笑った。笑ってから、口を押さえた。押さえた手の下で、まだ、笑っている。
観る席で、ミナが、俺のほうを見た。
「ねえ。あの骨、いま、へんだった」
「……そうですね」
ミナは、それ以上、訊かなかった。片足を伸ばしたまま、列を見ている。
俺は、さき、と呼ばなかった。呼ぶ前に、ピンが、読んでいた。
◇
転びのあいだに、ピンが、帳面に書いた。その骨の番号の、横に、ひらがなで、さき。ぱたりと、もっかいと、もどりの名と、同じ大きさで。
ドロテアが、鍋の前から、言った。
「あんた、また増やすのかい」
「増やしていません。生えました」
「おんなじことだよ。……何で、さき、なんだい」
「さあ」
教室の子たちに、俺は訊かない。前のときも、そうした。
五つ目だ。ぱたり。かたり。もっかい。もどり。さき。五つ、と、口の中で言った。
ピンの筆が、さきの行から、上へ戻る。戻る途中の行で、俺の指が、止まった。
ぱたりの行の、下。俺の行だ。見たことは、ある。番号を、写しと突き合わせたこともある。
「……ピン。俺の行は、何て書いてある」
ピンが、俺を見た。それから、行を見た。読んだ。
「いち、いち、よん。かたり。……それだけ、です」
それだけ、だった。ピンの声は、いつもの高さだった。読み上げに、何も足さない。
一一四。その横に、かたり。その先は、行の終わりまで、白い。
ピンは、数え棒を、俺の行の、白いところへ、下ろした。下ろして、何も書かずに、上げた。上げた棒を、耳に、挟まなかった。
鍋の前で、おたまの音が、続いている。止まらなかった。ドロテアは、こちらを見ずに、鍋をかき回している。
◇
客は、昼のあいだ、二組とも、席にいた。
ドロテアが、椀を四つ、運んだ。何日ぶりかの、客の椀である。槌の男が、一口で椀を空にして、ドロテアを見た。ドロテアは、見返さずに、鍋のほうへ戻った。戻る途中で、おたまを、一度、鳴らした。
「おかわりは、言いな」
ミナが、椀を持ったまま、教室の列のほうを見ている。食べる手が、止まっている。止まったまま、見ている。
帰るとき、テオが、戸口で、一度だけ、言った。
「今日、帰ったら、酒場で、名前のこと、話します。火の話じゃなくて」
槌の男と杖の女は、テオの後ろを出ていった。杖の女が、戸口で、観る席のほうを、一度、見た。見て、出た。
ヴォルクは、たたんだ閉鎖の紙を、岩机の端から、動かさなかった。客が帰ったあとも、そのままである。開きもしない。
夕方、戸口から、坂の下を見た。暗かった側の明かりが、二つになっている。二つ目が、どの戸かは、ここからは分からない。分からないまま、数に入れた。
「あかり、ふたつ」
後ろで、ピンが言った。言って、書いた。
◇
夜、ピンが今日の行を書いた。きゃく、ふたくみ。さき。書いて、字を、二度、たたいた。たたいてから、棒を、耳に挟んだ。今日、はじめてである。
帳面を、閉じる前に、もう一度、俺の行を見た。一一四。かたり。白い。
前の名を書く欄は、ない。




