第六十一話 かたり
朝、窪みの前で、音がした。
骨の音ではなかった。骨が鳴るとき、音は乾いている。これは、乾いていない。息のある者が、喉の奥で、ものを言う前に出す音に、近かった。
骨は、あごで鳴る。喉で音を出す者は、この区画に、三人。ドロテアと、ピンと、区画長だ。ドロテアは鍋の前にいる。ピンは、俺の横で、帳面を開いている。ヴォルクは、岩机の向こうだ。三人とも、口を開いていない。
音は、窪みから来た。
◇
朝の帳面の時間である。
鍋の明かりと、戸口のほうから来る薄い光とが、床の上で混ざる。その中に、俺は立っている。窪みの前の、いつもの場所に。右手は黒いままで、指先が二つ、ない。欠けたところの横に、古い白の継ぎ目が、一本。
「かたります」
ピンが言って、帳面を読み上げる。読む前に、数え棒を、耳に挟んだ。昨日から、ピンは、棒を耳に長く置かない。挟む手つきが、前より、遅い。
査定まで、九日。壁際三十五。鍋の前に、一。岩机の向こうに、一。俺と、ピン。窪みの中に、一。四十。
四十、を、ピンは、窪みに向いて言った。俺も、そちらを見ている。センパイが、いつもの角度でいる。細い体で、立っている。生え直した左腕にも、継ぎ目がある。前と同じところで、合っていない。
隣の数字と、閉鎖の紙のことは、ピンが、読み飛ばした。
岩机の上に、閉鎖の紙が、昨夜開いたままで、ある。壁際の連中は、朝になっても、そちらを見ない。見ないで、床をたたいている。
「……きょうは、ここまで、です」
「はい」
帳面が、閉じかけた。
◇
その音が、した。
あの、ものを言う前の音。窪みの奥の、岩の棚の、頭の骨のあたりから。
ピンの数え棒が、耳から、半分、落ちた。落ちかけて、耳の縁で、止まった。ピンは、そのままでいる。
鍋の前で、おたまの音が、やんだ。壁際で、朝の床をたたいていた音も、やんだ。岩机の向こうで、袖が、動くのを止めた。区画の中の音が、鍋の火だけになった。
俺は、窪みを見ている。センパイは、動いていない。そのまま、次が、来た。
「かたり」
◇
岩の棚の上の頭の骨は、動いていない。あごの骨も、目の穴も、朝の薄い光の中で、そのままだ。それでも、来た。声の低さまで、俺は、聞いた。
右手が、熱くなった。
継ぎ目のところである。付け根の、一本の線。そこだけが、一拍、熱い。熱は、来て、引いた。引いたあとに、黒い手が、残っている。
聞き違いか、と思ったのは、熱が引いてからだった。
確かめなかった。もう一度、とは、言わなかった。言って、来なかったときの静けさを、俺は、窪みの前に置きたくなかった。
幾日か前に、出なくなった顔のことを、思った。名前は出て、顔が出なかった、あの顔。思って、やめた。やめて、窪みを見た。
かたり、は、ドロテアが付けて、ピンが帳面に書いた名だ。壁際の連中が床をたたくとき、俺のほうを向く名でもある。呼び名だと、思っていた。
その呼び名で、窪みの中の骨が、俺を呼んだ。ドロテアが来た頃には、もう、いちばんよく喋る骨だった。そのあと、少しずつ、言わなくなった。
返事を、しなければならない。
言う前に、俺のあごの骨が、一度、動いた。動くより先に、言った。
「……はい」
声が、小さかった。小さいまま、窪みに届いたかどうかを、俺は知らない。一拍、置いた。置いて、続けた。
「カタリです」
窪みの中で、何も、動かなかった。
言ったあと、右手を見た。黒い。継ぎ目の線は、もう、熱くない。熱かったことを、俺は、数に入れた。一つ。
◇
二度目は、なかった。
センパイは、そのままでいる。あごの骨は、閉じたままだ。音も、来ない。窪みの奥の岩の棚に、頭の骨が、乗っている。その下に、細い体が、立っている。
俺は、待たなかった。待つ代わりに、窪みの前から、一歩、下がった。下がって、岩机のほうを向いた。朝の仕事は、帳面のあとに、まだある。
ピンの数え棒が、耳の縁から、手に落ちた。ピンは、それを、両手で握った。握って、言った。
「……だいこう。きこえました。かたり、と」
「聞こえた」
「かきますか」
「書く」
ピンは、棒を帳面袋に入れて、筆を取った。入れる手が、袋の口で、一度、止まった。取る前に、一度、帳面の表紙を押さえた。押さえてから、開いた。開く音が、小さい。
「なんと、かきますか」
考えた。
「せんぱい。かたり、と、いった」
ピンが、書いた。せんぱい。かたり、と、いった。筆の音が、いつもより、遅い。書き終えて、ピンは、字を、たたかなかった。
「せんぱい、の、ぎょう、に、かきました。いちばん、うしろ、の」
「それでいい」
いちばん後ろの、せんぱいの行に、今日の字が並んだ。
鍋の前で、おたまの音が、戻った。戻って、すぐ、また、やんだ。鍋の火だけが、鳴っている。ドロテアは、窪みを見ない。鍋を見たまま、おたまを、鍋の縁にかけた。かけた手が、そこから、しばらく、離れなかった。
「……あんた」
呼んで、そのあとを、言わなかった。誰に向けた、あんた、かを、俺は訊かなかった。ドロテアは、おたまを、取り直した。取って、鍋を、かき回した。ゆっくり。
壁際で、床をたたく音が、一つ、戻った。ぱたりの、右の継ぎ目の音だ。それから、もっかいの、床の一つ。朝の音が、順に、戻ってきた。
ヴォルクは、岩机の向こうで、袖を手首まで下ろしたまま、窪みを見ている。長く、見ている。見てから、俺を見た。何も言わない。袖の中で、手が、一度、動いた。動いて、袖の布が、手首のところで、小さく鳴った。
◇
昼前に、戸口まで行って、坂を見下ろした。
坂の下の、裏市場の明かりを、数えた。前に見たとき、暗かった側に、一つ、ついている。どの店かは、ここからは分からない。戸が開く音も、来ない。坂を上がる足音も、ない。一つ。それだけだ。
今日の客は、まだ、いない。振り向くと、ピンが、俺の後ろで、帳面に、何かを書いていた。あかり、ひとつ。そう読めた。書いた字を、ピンは、たたいた。
その上の行に、九日、の字がある。隣の四十八は、昨日のまま、帳面に挟まっている。
◇
窪みの前に、立っている。
戸口から来る薄い光が、窪みの奥まで、届いている。棚の上の頭の骨は、俺を見ていない。
センパイの、左腕の、合っていない継ぎ目が、その光で、白い。




