第六十話 紙で来る
査定まで、十日。
朝、ピンが帳面のいちばん上の行に、そう書いた。書く前に、数え棒を、帳面袋から出した。出して、耳に挟まずに、書いた字を一度、たたいた。
戸口を、朝のうちに、三度見た。三度とも、影がない。三度目のあと、戸口まで歩いて、裏回りの道の坂を、見下ろした。
上がってくる足音は、ない。坂の途中に、人の影も、ない。十日のうちに、客が戻るかどうかを、俺は知らない。
鍋の火は、いつもどおりに入っている。壁際も、いつもの角度だ。窪みの中の白い骨は、細い下で立って、俺を見ていない。
◇
昼前に、石の翼の音が来た。
壁際の連中が、姿勢を正す。ヴォルクが岩机から出て、俺とピンは、その少し後ろに立った。
階層長フォスカは、紙を持っていた。二枚だった。層外の色をしている。上から来る紙の色だ。石の指が、紙の縁を、いつもより強く、はさんでいた。指の先が、紙に、少し食い込んでいる。
紙が、岩机に、置かれた。二枚、重ねて。
フォスカは、何も言わなかった。石の顔が、置いた紙と、俺の黒い右手とを、順に見た。それから、窪みのほうを見た。見て、翼を開いた。
翼の音が、境の通路へ、下りていく。
◇
上の一枚を、開いた。
——第二層第四区画。
閉鎖。
区画の名を、俺は知らない。
「……境の先の。焼けた区画の、名です」
ヴォルクが、岩机の向こうから、言った。三ノ四の暗がりの先、二層へ上がる口を越えた、黒い土になった区画。その名が、これである。
理由の欄は、ない。名の欄も、ない。焼いた者の名は、どこにも書かれていない。
下の一枚を、開いた。
——第三層第三区画。受けた区画。
以上。
受けた区画。受けたのは、火と、棒と、センパイの肩口と、俺の右手だ。それを、上は、五文字で書く。
ピンが、横から、上の紙を見た。
「……へいさ、は、なんですか」
「閉める。区画を」
「だれ、が、しまりますか」
「書いてない」
ピンの数え棒が、閉鎖の二字の上で止まった。止まって、下の白いところへ、下りる。引っかかるところがない。棒が、紙の端まで下りて、岩机に当たった。小さい音だった。
ピンは、棒を二字の上に戻して、読んだ。へいさ。口の中で、二度。二度目の声が、一度目より、小さかった。
◇
ヴォルクが、紙の前に立った。袖を手首まで下ろしたまま、閉鎖の二字を、見ている。袖の布が、小さく、鳴った。
「……閉じた区画は、帳面に、潰れた区画のまま、残ります。行は、消えません。中の者が、どこへ行ったかは、書かれません」
事務の声だった。
「三ノ四のときは、十八体が、うちへ来ました。今度は、来る者が、いません」
来ない。灰は、数えん。回収屋が、そう言った。
壁際に、三ノ四から来た連中がいる。十八体のうちの、まだ立っている者たち。その連中の持ち場だったところは、暗いままで、火は、そのさらに先だった。
訊くか。誰が焼いたのか、を。
訊けば、この人は答える。前に、そう思った朝があった。今朝も、答える顔をしている。
答えて、名が出れば、俺は、書く。書いた名は、上が読む。読まれた名が、どうなるかを、俺は知らない。知らないものを、俺の帳面に、入れない。
口が、開きかけて、閉じた。
紙を、一枚、黒い右手で取った。閉鎖のほうを。欠けた指先に、紙の端が当たって、折れた。折れたまま、ピンの帳面の、今日のところへ、挟んだ。
訊く代わりに、書く。
「書け。へいさ。にそう、よんくかく。だれ、は、ない」
「だれ、は、ない、と、かきますか」
「書け」
ピンが、書いた。へいさ。にそう、よんくかく。だれ、は、ない。筆が、ない、の字で止まって、次の行を空けた。
あばらの内側が、鳴っている。書いたあとで、聞いた。黒い指が、帳面の端を押していて、押した跡が、紙に残った。
◇
岩机に残った下の一枚を、ドロテアが取りに来た。
「貸しな。これは、厚くていい」
紙を二つに折って、鍋の蓋のつまみを、その紙でつかんだ。熱い蓋が、上がる。湯気が、紙を通って、上に行く。受けた区画、の文字が、湯気で、少し、波を打つ。ドロテアは、読まない。
「熱くないよ、これなら」
ピンが、見た。それから、俺を見た。俺のあごの骨が、一度、鳴った。それだけだった。あばらの内側のものは、止まっていない。
ドロテアは、おたまで鍋をかき回しながら、紙を蓋の横に置いた。置いて、言った。
「上から来る紙も、うちに来れば、こうなるんだよ」
◇
夕方、裏回りの道から、ゴブリンが一体、上がってきた。
隣の区画の子だ。岩机に紙を一枚置いて、置いただけで、下りていった。前にも、こうして来た。
写しである。上の帳面の、隣の行の写し。隣の区画長が、うちに読ませるために送ってくる。
灯の行。頭数の行。頭数のところで、目が止まった。
四十八。
隣は、火を受けていない。増えた分の作り方を、俺は、前の月の灯の行で見ている。呼んだのだ。呼んだぶんが、行に、乗っている。
写しの余白に、字はない。前の写しには、あった。今度は、ない。
「よんじゅう、はち」
「四十八だ」
「うちは、よんじゅう、です」
「四十だ。上の帳面では、一つ、少ない」
ピンは、写しを、帳面の一位の行の隣に挟んだ。前の写しの、上に。挟んでから、数え棒を耳に挟んで、挟んだ棒を、もう一度、抜いた。両手で、握った。
「だいこう。よぶ、ひとは、ふえます。やかれた、ほうは」
「増えない」
「はい」
ピンは、もう一度、四十八の字を見た。見て、何も書かなかった。
握った棒を、ピンは、耳に戻さなかった。
◇
夜、ピンが今日の行を書き終えて、言った。
「へいさ、の、かみ。かべぎわ、に、みせますか」
壁際の連中は、紙を読まない。紙の色は、知っている。見せれば、怖がる者が出る。出てもいい。隣が四十八になった夜に、閉じた区画の紙を見せないでおくほうを、俺は選ばなかった。
帳面から、閉鎖の紙を抜いた。挟んであったところの隣に、朝ピンが書いた、十日、の字がある。十日のあとに、閉鎖の紙。その順で、今日が、帳面に入っていた。
折れた端を、黒い指で、伸ばした。伸ばして、岩机の上に、開いた。壁際から見える向きに。
壁際で、骨が、動いた。ぱたりが、一歩、前に出た。出て、紙を見て、戻らなかった。もっかいが、床を、一度、たたいた。それきりだった。
ヴォルクは、岩机の向こうで、袖を下ろしたまま、紙を見ていない。俺を見ている。見て、何も言わない。鍋の火だけが、鳴っている。
——第二層第四区画。
閉鎖。
その下に、何も書かれていない。




