第五十九話 痩せた土地
鍋を、運んだ。
空の鍋である。ドロテアが縁を持ち、俺が底を持つ。朝の飯のあとで、中には、何も入っていない。入っていない鍋は、思ったより軽く、思ったより持ちにくい。
「グレテのところで、引き取ってくる。向こうも、客が来ないって話だ。余ってるだろう。あんたは、底を持つだけでいい」
「はい」
戸口を出て、裏回りの道へ入った。裏市場へは、坂を下りる。下りる前に、道は、境の側を、一度かすめる。ピンが、後ろについてくる。帳面袋を肩に、数え棒を耳に。いつもより、近くを歩く。
◇
境の側で、ドロテアの足が、止まった。
見えた。
焼けた区画である。境の通路の向こう、三ノ四の暗がりの、さらに先。二層へ上がる口を越えた、すぐの区画が一つ。焼かれた次の朝、白く低く明るかったところだ。いまは、黒い。土が、黒い。
三ノ三の床は、岩だ。向こうは、土の床の区画だった。その土が、黒くなっている。骨も、柱も、ない。奥まで黒が続いていて、奥の端は、見えなかった。
ピンが、俺の横で、止まった。止まって、帳面袋の口を、両手で押さえた。
「だいこう。くろい、です」
明るかったのは、あの朝である。明るさは、どこにも、残っていない。黒いまま、何も、ない。
俺は、黒い土を、見た。三ノ三の壁には、天井には、青白い苔が生えていて、それが、うちの明かりである。向こうの区画にも、あった。境の通路の奥まで行けば、向こうの壁の苔が、見えた。
ない。黒い土の上にも、黒い壁にも、苔が、一つも、生えていない。
ドロテアが、鍋の縁を、一度、持ち替えた。
「生えないね」
いつ生えるのか、と思って、思うのをやめた。
◇
鍋の底から、手を離した。境を、越えた。
「あんた」
ドロテアが、鍋の縁を持ったまま、言った。越えるな、とは言わなかった。俺は、黒い土の上に、足を置いた。土が、鳴らない。岩の床は、骨の足で、鳴る。土は、吸う。
しゃがんで、右手で、土に触れた。黒い指で、黒い土を、つまむ。乾いている。乾いた土は、指のあいだから、落ちる。
落ちたあと、指に、黒が、残った。俺の黒と、土の黒が、同じ指の上で、分かれない。
焼けた匂いは、もう、薄い。薄い匂いの底に、苔の匂いが、ない。
数えようとした。
黒い土地の、広さを。歩幅で、何歩か。消えた灯を、いくつか。立っていた骨が、何体だったか。
足が、出なかった。
数えないでいる、と、決めた。決めたのは、足が止まってからである。目は、決めていない。黒い端を、追っている。端から端まで、追って、戻る。追う目を、閉じるまぶたは、俺にない。
「だいこう」
ピンが、境のこちらから、俺の腕のほうへ、手を伸ばした。届かない。届かないまま、言った。
「かぞえません、か」
「……数えない」
「はい」
ピンは、数え棒を、耳から抜いた。抜いて、帳面袋の中へ、入れた。耳にも、手にも、ない。それで、俺が戻るのを、待った。
立って、境を、戻った。黒い指のまま、鍋の底を、持った。ドロテアは、何も言わなかった。
◇
坂を下りた。裏市場の明かりが、半分である。
いつもは、道の両側の店に、明かりがつく。今日は、片側だけだ。明かりのない側の店は、戸を閉めている。閉めた戸の前の台に、昨日までの値札が、一枚、裏返しで置かれていた。
歩いている者はいる。買う者が、いない。鍛冶の音が、遠くで、鳴って、やんだ。やんだあとの道に、俺たちの足音と、鍋の底が俺の指に当たる音が、残った。
道の脇に、回収屋がいた。ゴブリンの小柄な体に、帽子。背中の籠が、三つ、空である。俺を見て、帽子に手をかけた。かけて、何も言わない。
すれ違うとき、帽子の下の目が、鍋の底を持つ俺の黒い手で、止まった。止まって、帽子を、少し深くかぶり直して、行った。
◇
グレテの店に、客がいなかった。
長い卓に、椀が、伏せて並んでいる。並んだ椀の上に、埃は、まだない。
奥の大鍋に、火が入っている。湯気が、天井の苔のほうへ、上がっていた。火の前に、グレテが、腕を組んで立っていた。三ノ三の連中が二人並んで座れそうな肩幅である。
「おや。来たね。空で」
言って、俺たちの鍋を見た。
「持ってきな。減らないんだよ、うちの鍋。誰も、食いに来ないんだ」
ドロテアが、鍋を、卓の端に置いた。
「焼けたとこの客が、来ないね」
「あんたらの客も、来ないだろ。灰狼の隊は、今朝、下の層へ下りたって。回収屋が、坂で見たってさ」
「焼けたとこの話は」
「聞いたよ。聞いて、客が減った。火の話は、飯の話より、早く回る」
グレテは、おたまを取った。取って、俺たちの鍋に、自分の鍋から、移しはじめた。湯気が、俺たちの鍋から、上がる。
「座んな」
座った。ピンも、座る。椀が、俺の前に、一つ。ピンの前に、一つ。ドロテアの前にも。
「一杯一グリム」
言ってから、グレテは、おたまを止めた。
「……今日は、取らねえ。余らせる気はないよ。食って、減らしな。あたしの都合だ」
俺の手が、壁の木札へ行きかけて、止まる。椀が、三つ。鍋が、一つ。一杯一グリムで、いくらか。出した数を、引く線が、今日は、ない。
グレテが、止まった俺の手を、見ている。
「帳面に書きたいなら、あたしが食わせたぶんを、あんたが書きな。……書けるかい」
「……書けません」
「だろ」
グレテが、笑った。牙が、見えた。笑ってから、おたまを、もう一度、鍋に入れた。
食った。骨は、椀を持ち上げて、傾ける。湯気が、あばらの内側に入る。入ったぶんが、黒い右手の先まで、来るのに、少しかかった。
ピンが、両手で椀を持って、音をさせて飲んだ。飲んで、椀の縁を、見ている。数え棒は、袋の中である。
「おかわり、は、かぞえますか」
「数えないよ。食いな」
ピンが、椀を、グレテのほうへ、押した。押した椀に、おたまが、来る。音を立てて、椀が、満ちた。
ドロテアは、何も言わずに、二杯目を、自分で、よそった。よそって、椀の底で、卓を、一度、鳴らした。グレテが、鼻で、笑った。笑って、おたまを、鍋の縁に、かけた。
◇
帰り道、鍋は、重かった。坂を、上る。上る足の下で、岩が、鳴る。
底を持つ俺の手に、湯の重さが、来る。黒い右手に、鍋の底の熱が、来た。白い線のところだけ、熱が、遅れて来た。
境の前で、もう一度、黒い土を見た。奥まで、黒い。黒い土に、俺の足の跡が、ある。
鍋の湯気だけが、上に行った。




