第五十八話 ただいま
「ただいま」
言ってから、目が開いた。
床だ。窪みの前の、床である。鍋の明かりと、戸口のほうから来る朝の薄い光とが、床の上で混ざっている。その中に、俺の右手がある。
黒い手だ。
◇
右手を、持ち上げた。
持ち上がる。手首から先が落ちた朝のことを、手が、覚えているような重さだった。黒は、残っている。残った指も、黒いままだ。戻らない、と聞いていた。戻っていない。
黒いまま、つながっただけである。つながったものが、動く。理由は、手に訊いても出てこなかった。
腕と肩にも、黒が、薄く残っている。上がっていった黒の跡だ。手首から先だけが、濃い。
指の先が、二つ、ない。折れたところは、折れたまま。
知らなかったのは、その横だった。
欠けていない指の付け根に、白い線が一本、入っている。黒の中の、白である。俺の骨の白より、古い白だ。ぱたりの継ぎ目から落ちた白とも、違う。あれは、俺と同じ区画の白である。これは、もっと古い。
線のところで、骨が継いである。継いだ覚えは、ない。
センパイの白だ。
俺の指の先は、センパイの山の上に、乗っていた。指の先は、戻ってこなかった。欠けたままの指が、それを言っている。
山に入ったぶんは、山のほうに生えたのだ。代わりに、どこかから、一本、こちらへ来た。混ざったまま、生えた。
窪みを、見た。
白い骨が、いる。いつもの角度で。下が、戻っている。戻った下は、ところどころ、まだ細い。
細いまま立って、俺を見ていない。あの細い骨のどこかに、俺の指の先が、入っている。どこかは、見ても分からなかった。見ても分からないものを、俺は、しばらく見た。
◇
足音が、来た。小さい。
ピンが、岩机のほうから走ってくる。走って、俺の前で止まった。耳に数え棒、肩に帳面袋。止まって、俺の右手を見た。見てから、帳面袋に手を置いて、開けなかった。
「……かたります、は、あとで、します」
「ああ」
「さきに、いうこと、が、あります。よんだ、です」
「誰を」
「げるず、さま。もん、で」
岩机の脇の岩肌に、紋が沈んでいる。俺が払って、俺が使わなかった紋である。
「だいこうが、くずれた、あさ、です。みんなで、ひろって、ここに、ならべました。ぼうの、となりの、は、だいこうの、やまに、おきました」
「……それから、もん、に、さわりました。だいこうが、さわってた、ところに」
棒の隣の、と言った。どっち、と訊いて、答えのなかった欠片である。ピンが、決めて、置いた。来た一本は、それだ。
ピンは、俺の右手の継ぎ目を、見ている。置いたものが、どこに生えたかを、見て、分かっている顔だった。
「それで、通じたのか」
「とどいたか、わかりませんでした。へんじが、くるまで。さわって、なまえを、いいました。ほかに、しかたが、わかりませんでした」
ピンが、片手を、岩肌に当てる形にした。小さい手である。
「かたりが、こわれました、と、いいました。それだけ、です」
「費えは」
「いちぶ、と、かきました。かみに、そう、あったので。……かえりの、ついえは、わかりません」
帰りの、と言った。
「何て」
「おそく、きました。いわ、から。……なんじゃく、と」
ピンは、そこで止まった。
「……いきとるな、と」
◇
軟弱、と、牛は言った。それから、生きとるな、と。
牛は、来ない。声だけが、十層から、ここまで来た。呼んだのは、俺ではない。
ピンが呼んで、牛が答えた。あいだに、俺はいなかった。
「ピン」
「はい」
「よく、呼んだ」
ピンが、数え棒を耳から抜いて、両手で握った。握って、床を見ている。棒の両端が、小さい手から、少しずつはみ出ている。しばらくして、耳に戻した。
◇
立った。立てる。膝が、戻っている。
立って、壁際を数えた。ぱたり。もっかい。受けの骨。追いかけっこの骨。場づくりの連中。
一体ずつ、目で追う。追う目は、両方、明るい。壁際の終わりまで、数が揃っている。鍋の前に一、岩机の向こうに一、俺の横に一。窪みの中に、一。
三十九。
俺を入れて、四十である。合っている。
壁際で、もっかいが、床を一度つついた。
◇
「あんた」
鍋の向こうから、声が来た。ドロテアが、柄を握って、こちらを見ている。
「起きたんなら、鍋の前に来るんだよ。壁際で数えてないで」
鍋の前に行くと、椀が、一つ、置かれる。食えば、直りが早い、と前に聞いた。今日は、直すところが、多い。湯気が、あばらの内側に入ってくる。鍋の底で、何かが小さく、はねる音がした。
音のする鍋の前に、立っている。立っていられる。
「ただいま」
ドロテアが、鍋をかき回した。
「おかえり。……あんたの手、白いのが継いであるって、あの子が朝いちばんに言いに来た。誰のだい」
「……センパイの」
ドロテアは、窪みのほうを見なかった。鍋を見たままで、椀を、もう少し、俺のほうへ押した。押された椀の中で、湯気が、揺れる。
ピンが、鍋の前に来て、俺の横に立った。帳面袋を、開ける。
「だいこう。ただいま、は、かきますか」
「書け」
ピンが、帳面のうしろのほうを開けた。開けて、筆を持ったまま、一拍、止まる。前に、もう増やさない、と二人で言った行のある場所である。
「……かたり、ふっか。かえった。ただいま、いった」
筆が、動く。行が、一本、増えた。筆の音が、鍋の音と、近い速さで続く。
◇
書かれていく行を、見ていた。
見ているうちに、起きた朝のいつもの順が、遅れて来た。名前。歳。仕事。崩れたあとの朝は、とくに、だ。名前は、ある。歳も、ある。仕事は、前から出ない。
出ないところの横を、思った。前の仕事場の、隣の席である。
名前は、出る。下の名前も、出る。朝、来ると先に座っていて、こちらを見ずに、おはよう、と言った。声も、出る。
顔が、出ない。
右手が、空をなぞった。顔の輪郭を、なぞる形である。なぞって、途中で止まった。止まった先に、何もない。目のあったところも、口のあったところも、手が、場所を知らない。黒い手が、空で、開いたままになった。
手を、下ろした。
言うか。ピンに。ドロテアに。
言わなかった。言えば、ピンが書く。
ピンの筆が、行を書き終える。かたり、ふっか。かえった。ただいま、いった。その行の下は、空いている。空いたところを、俺は見た。見て、目を離した。
「だいこう。つぎの、ぎょう、は」
「……今日は、それでいい」
ピンが、筆を置く。置いてから、俺の顔を見た。見て、何も訊かずに、帳面を閉じる。
◇
壁際に、立った。窪みの前である。
白い骨が、いつもの角度でいる。細い体で、立っている。
右手を、上げた。指の先の、欠けたところ。その横の、白い継ぎ目。
こつ、と鳴った。




