第五十七話 大破
朝は、来た。
火の匂いが、通路に残っている。鍋の火は、夜のあいだ一度も落ちなかった。ドロテアが、柄を握ったまま、火を足して、立っていたからだ。朝の光が裏市場側から入ってきて、鍋の火の色を、薄くした。
戸口から、境の向こうが見える。焼け跡の煙が、まだ細く上がっている。昨夜より、細い。
岩机に、座った。窪みの前には、昨夜のままの欠片の山がある。山のいちばん上の小さい欠片は、ここからは、白い点にしか見えない。
客は、まだ来ない。来たら、昨夜のことを、どこまで言うかを決めていなかった。決めるより先に、帳面の今日の行がある。順は、いつもそうだった。
◇
座って、膝に置いた右手を、見た。
黒いところが、夜のうちに広がっていた。昨夜は、残った指が黒かった。朝には、黒が手首まで来ている。動かない。動かない手を、俺は、朝の光の中で見た。
壁際のぱたりの右腕にも、昨夜、同じ火で黒くなった継ぎ目がある。ここから見ても、昨夜の幅のままだ。俺の手は、広がった。違いを、俺は知らない。
「だいこう。きょうの、ぎょう、です」
ピンが、数え棒を耳に挟み、筆を持って、待っている。帳面は、閉じたまま岩机の上にある。開けるのは、俺でもピンでもいい。
左で開けばいい。
そう思ってから、思ったとおりにしなかった。今日は、俺が開ける。右で開ける。黒いところが手首まで来ている手で、だ。開けて、どうなるかは、分からない。
焼けた骨は、戻らない。昨夜、それを知っていて火に入れた手で、今朝も、開ける。
左手で右手を持ち上げて、表紙の上に、置いた。
「だいこう。みぎて、くろい、です」
「見てる。……今日の行は、俺が開ける」
左手で、右手の指を、表紙の縁にかけた。
音が、した。
昨夜、骨の頭に当たったときの、あの乾いた音である。音のあとに、重さが、なくなった。右手の、手首から先の重さだ。
黒い手が、表紙の上から、岩机の縁を越えて、床に落ちた。見るより先に分かった。俺の右手だ。帳面の角を揃えるときの形のまま、床で止まっている。
◇
黒が、動いた。
手首で止まっていた黒が、腕を、ひじを、見ているあいだに上がってくる。上がった先で、骨と骨が、離れる。腕の骨が、一本ずつ、床に落ちた。右の肩が、なくなる。黒は、肩で止まった。
止まったあとも、骨は、離れ続けた。体が、前に傾いた。あばらの内側が、鳴る。鳴る場所が、離れていく。あばらが、一本ずつ、岩机の上に落ちた。
ピンが、筆を落とした。
「だいこう」
「……数える」
言った。言う口が、まだあった。
壁際を、数えた。うちの連中を。
壁際に、いつもの角度で、並んでいる。昨夜、屑を運んだ手のまま列に戻らなかった連中が、朝には、列に戻っていた。一体ずつ、目で追う。追う目が、半分、暗い。
半ばまで数えて、暗いほうの目を、使うのをやめた。残った目で、続きを追う。
三十五。壁際が、終わる。鍋の前に、一。岩机の向こうに、一。岩机の横に、ピンがいる。ピンで、三十八。窪みの前の山は、入れない。
「……三十八」
昨夜まで、うちの区画は四十だった。センパイで、三十九になった。三十九に、一つ、足りない。
足りないのは、誰だ。いつもは、俺も入れて数える。今日は、入れていなかった。
入れる体が、崩れている。
頭が、岩机の縁から、床へ落ちた。一度転がって、止まる。目の穴が、床の高さで、通路のほうを向いた。
◇
床の高さから、見ている。
ピンが、しゃがんだ。拾ったのは、俺の右手である。両手で、持ち上げる。
「かぞえ直します」
小さい声だった。昨夜、山の上に欠片を置いたときの高さの声だ。
「だいこうが、かぞえられないので」
「ひとつ」
俺の右手が、ピンの両手の上で、数えられた。
「ふたつ」
拾われるたびに、ピンの声が、数を言う。数を言う声が、床の高さまで、まっすぐに届いた。
ドロテアが、鍋の柄を、床に置いた。昨夜、火を持った者たちが鍋の前を通ったときも、置かなかった柄である。置いて、こちらへ来て、しゃがんだ。大きい手が、腕の骨を、拾う。
「言ったろ。あとで、で戻るのは、焼けてない骨だけだって」
拾いながら、拾っている腕に向かって、言った。
壁際から、うちの連中が来た。来て、床の骨の前で、足が止まる。止まった足が、骨のあいだを、探して踏む。床の高さから見えるかぎり、踏んだ足はない。
ぱたりの右腕が、あばらの一本を拾った。継ぎ目のところで、小さく鳴る。もっかいが、一本拾って、床を、一度つつく。
ヴォルクが、岩机の向こうから出てきた。袖は、手首まで下りている。袖の先が、床へ下りて、岩机の脇に落ちた指の骨を一本、拾い上げた。中の手は、見えない。一本だけだ。
拾った骨を、袖の中へ入れずに、ピンの両手の上に乗せた。区画長の袖が、骨を持った。
「代行の、指です。……数に、入れてください」
ピンが、うなずいた。
◇
骨が、運ばれていく。
窪みの前へ、である。センパイの欠片の山の、横。昨夜、連れて帰ります、と俺が言った場所に、俺のほうが、運ばれていく。運ぶのは、うちの連中だ。
拾う順が、昨夜、俺がセンパイを拾ったときと、同じになっている。見ていた連中が、見たとおりに、やっている。
ぱたりが、俺の頭を持ち上げた。右腕の継ぎ目が、頭の横で、小さく鳴る。運ばれて、窪みの前の床に、置かれた。目の穴が、二つの山を、横から見る向きである。
センパイの山と、俺の山とが、並んでいる。センパイの山の上に、俺の指の先が、まだ新しい白のまま乗っている。並んだ二つの山が、いつまで、どちらがどちらと分かるのか。
ピンが、山の前にしゃがんだ。しゃがんだときに、耳から数え棒が落ちた。床で一度はねて、二つの山のあいだで、止まる。ピンは、拾わない。拾うものが、先にある。
ピンの手が、止まった。数え棒の隣にある小さい欠片の上で、拾いかけたまま、動かない。
「……だいこう。ぼうの、となりの、これ。どっち、ですか」
答える声が、出なかった。あごが、動かない。誰も、答えなかった。
「きょうの、ぎょう、は、あとで、かきます」
ピンは、そう言って、その欠片を拾わずに、次の大きい骨を拾った。
◇
床の高さから、見える。
数え棒が、落ちたままある。ピンの耳に戻らない。戻す手が、俺を拾っている。
目の穴に入る光が、細くなっていく。
数え棒の隣に、小さい欠片が、一つ、残っている。




