第五十五話 火
布が、擦れた。
夜である。音は、二本目の通路の、奥から来た。観る席の、さらに奥。うちの連中が手で掘った、三本目の穴のほうである。岩机からは見えない角度で、音だけが、静かな通路を伝って来る。
布が布に擦れる音と、そのすぐあとに、何かが息を吸う音。火が何かを吸う音だと分かるまでに、一拍の間があった。
匂いは、朝からあった。朝の匂いは境の向こうのもので、いまの匂いは、うちの通路の中のものである。
ヴォルクが、岩机の向こうで、立ち上がった。袖は、手首まで下りている。
◇
客が、まだ残っていた。
裏市場側から来た客が、戸口の近くに三人。それから、観る席に、テオとミナ。帰った二人が、夜、戻ってきた。裏市場の道でミナの足が動かなくなり、テオが背負って、うちの戸口へ戻ったのである。
ミナは片足を伸ばして、観る席の端に座っていた。足のせいで戻ってきて、その足は、俺の岩のせいだ。
五人。
二本目の通路の奥に、火が、見えた。
青くない。
骨を焼く火は、青いか、緑か、見たことのない色をしているものだと、どこかで思っていた。立ったのは、鍋の下の火と同じ色である。
油を吸った布が、棒の先で、普通に燃えている。焼いた奴は、どんな火で焼くのかと、朝から思っていた。これだった。
火の向こうに、人が、いる。
数え棒を持たない手が、それでも、一、と動く。一の次が、来ない。顔が、布で隠れている。頭から肩まで、同じ色の布で覆った者が、火の明かりの中で、重なって動く。一人が二人に見え、二人が一人に見える。
多くはない。それだけは、分かる。分かるのに、数が来ない。
数えられない。それが、俺の中で、火より先に立った。
壁際に並ぶうちの骨たちは、動かなかった。いつもの角度のまま、並んでいる。あごを上げる癖のぱたりの、あごが、上がっていない。
床をつつくもっかいの指が、床の上で止まっている。火が吸う音だけが、通路にあった。
◇
「おきゃくさん、こっち」
声は、二本目の通路の口からだった。夕方、そこに立たせた受けの一体である。客には、骨の鳴りに聞こえる声だ。鳴りと、広げた腕で、客が動く。
受けの骨の仕事は、転ぶ客を受けることである。今夜は、受けて、渡す。受けの一体が、腕を広げたまま戸口のほうへ走り、戸口の近くの三人が、鳴りについて走った。
一人が、岩机の角で足をもつれさせる。前を走っていた受けが、戻って、受けた。受けて、戸口へ渡す。
興行の型である。笛も、歌もない。
ピンが、戸口の外で、数え棒を両手に握っている。
「だいこう。さんにん、でました」
「ミナと、テオ」
「まだ、です。あし、です」
◇
火が、観る席のほうへ、一歩、動いた。
布の者たちが、火のついた棒を、手に持っている。棒の先に、巻いた布。それに油。剣も、杖も、見えない。ただの火を、ただの棒の先に持って、骨の店に入ってくる。声を、出さない。布の擦れる音だけが、進む。
窪みのほうを、見た。
いちばん奥。壁際の奥の窪みに、白い骨が、いつもの角度でいる。
火は観る席の向こうにあって、窪みへ届くには、二本目の通路を出て、鍋の前と壁際を通らなければならない。届く。いつかは。いつかが、いつなのかを、俺は知らなかった。
岩机の脇の岩肌に、手が、置かれていた。沈んだ紋の上である。呼ぶ言葉を口の中で探す間は、なかった。手を、離した。担ぐ腕は、ある。
足が、窪みへ、半歩出た。
出た足を、床に、踏み直した。
観る席へ、向いた。向く前に、あごの骨が、一度、鳴りかけた。
◇
二本目の通路へ、走った。
観る席は、火の、こちら側にある。布の者たちは、席を見ていない。火の手前で、ミナを担いだ。テオが背中に乗せようとしていた。テオより、俺の足が速い。奪うように、担いだ。
「あの、僕が」
「走れ。前を見て、走れ。戸口まで」
「はい!」
テオが走り、俺が続く。布の者たちは、担がれて通る客も、担ぐ骨も、見なかった。棒の先を、窪みのほうへ向けている。通路の口を出るとき、肩の上のミナが、首だけ後ろへ回して、言った。
「……ねえ。あの人たち、席、見てない」
「……窪み、だ」
一言、出た。足は、戸口へ向いたままである。向いたまま、走った。窪みへ向きたい足で、戸口へ走る。肩の上の重さが、足を前へ出す。
数えないで走る自分の足を、見た。
戸口の外へ、ミナを下ろす。テオが受け取った。ピンが、数え棒を握り直す。
「かぞえます。おきゃく、ごにん。ぜんいん、です」
「全員だ」
言ってから、壁際と、鍋の前と、窪みを、思った。客の数には、入らない連中である。
「だいこう。もどりますか」
「戻る。……おまえは、ここだ。客を、見ていろ」
「はい」
ピンの数え棒が、両手の中で、動かなかった。戸口の外の、裏市場のほうへ続く通路の先で、灯が一つ、消えた。消えたのを、見ただけだった。見たものを、あとで数えればいい。
◇
走った。
遅かった。布の者たちは、二本目の通路の口を、もう出ている。
戸口から岩机の横を抜けて、通路の口を走り過ぎるとき、横目に、奥の床で白いものが鍋の明かりを拾った。俺の指で詰めた欠片である。はらわれて、床にあった。
鍋の前に、ドロテアがいる。鍋の火を、落としていない。ドロテアは、柄を握ったまま、火を持った者が鍋の前を通るとき、言った。
「あんたら、飯は、食うのかい」
答えは、ない。布の者たちは、鍋を見ないまま女将の横を通り過ぎ、壁際の列の前を通って、窪みのほうへ進んでいく。
列の前を通るとき、布の向きが一度だけ列へ向いて、すぐ戻った。壁際の連中は、凍ったままである。火が、連中の顔の高さを通り過ぎていった。
ヴォルクが、岩机の向こうから、俺の走る背中に、何か言った。聞き返す足は、なかった。袖は、下りたままである。
「センパイ!」
声は、届く。区画が一つなら、声は届く。届いて、窪みの白い骨は、いつもの角度のまま、動かない。いつもと同じ角度が、今夜だけは、違って見えた。
布の者たちが、窪みの前に立つ。火のついた棒の先が、白い骨の、頭の高さまで、上がった。
普通の火で、骨は焼ける。境の向こうの区画が、そうだった。
走った。火と窪みのあいだに足が入る前に、棒が、横に振られた。窪みのほうから、音がした。
砕けた。
床に、白い欠片が、一つ、転がる。走る俺の足の、先に。




