第五十四話 焼けた匂い
朝、通路が、明るかった。
裏市場側の光でも、鍋の火でもない。境の通路の、向こうから来る明るさだ。白くて、低い。火のない明るさで、匂いが、一緒に来ていた。
骨に鼻はない。それでも、焼けた匂いは、あばらの内側に届く。
「……あんた、匂うかい」
ドロテアが、鍋に火を入れる前に言った。火打ちを持つ手が、鍋の下で止まっている。
「匂います」
「うちの火じゃないね」
うちの火は、まだ入っていない。鍋の冷えた朝の通路に、焼けた匂いだけが、ある。
◇
客が、転びかけた。
二本目の通路の、観る席である。少女が、境の通路の向こうの明るさを見たまま、欠けた岩に腰を下ろそうとした。
足元を見ていない靴の先が、岩の欠けに入って、横に倒れかけた。ミナである。ひよこ隊の、小人族の子だ。
「ミナ!」
テオが手を出す。出した手より先に、ぱたりが受けている。転ぶ客を受けるのは、受けの骨の仕事だ。観る席の横に立っていたぱたりが、先に受けた。右腕で、ミナの背を支えて、立たせる。
支えた腕の、継ぎ目のところから、白いものが一つ、床に落ちる。
一つ。見てしまってから、目を離した。
「……わたし、転ぶほうじゃないんだけど」
ミナが言って、靴の先を見ている。それから、岩の欠けを見た。
「ここ、前から、欠けてた?」
欠けていた。ふた月、欠けている。先月、来月に回し、今月、もう一度、来月に回した岩である。回したのは、俺だ。
「欠けていた。……直すのが、遅れている」
遅れている、と言った。回した、とは言っていない。
「ふうん」
ミナは、別の岩に座ろうとして、足をついたところで、小さく息を止めた。くじいている。テオが、謝る。
「すみません! ……あ、いえ、ミナが、じゃなくて、席が」
「席は、うちのだ」
言った。テオが、口を開けたまま、閉じた。
ミナは今日、奥へ行かない。テオも行かない。この二人は、潜った日数で章を保っている。保険もない。今日の一日が、潜らない日になった。俺の岩がしたことだ。
ドロテアが、鍋を持ってくる。椀を一つ、ミナに。ミナは受け取って、笑わずに、靴を脱いで足首を見ている。
「分かって払ったんだろ。……払ってるのは、この子だよ」
ドロテアが、鍋の柄を握ったまま、俺に言う。それだけ言って、鍋のほうへ戻っていった。
◇
岩机に戻って、紙を見た。
残、一灯一分。
欠けた岩に仮の石を入れる値は、石屋の紙で、一灯一分。本直しではないが、客が転ばなくなる。残りと、同じ数である。一分は、紋の費えの、ちょうど一回ぶんだ。
岩を留めれば、呼べる回数が、今月、残らない。呼ぶほうを取れば、岩は欠けたまま、来月まで、客が転ぶ。
一灯一分を、使わない。使わない、と決めるまで、紙を見ている時間が長かった。呼ぶほうを、もう一度、取った。
欠けた岩の前へ、歩いた。石は、来ない。横に立っていたぱたりが、岩の欠片を一つ、持って来る。欠けに詰めるためのものを、詰めずに、俺の手の上に置いた。置いて、壁際へ戻るあごは、上がっていない。
欠片を、自分の指で、欠けに詰めた。客が座れば、また抜けて、抜けたら、また詰める。それを来月まで、俺がやることになった。
◇
回収屋は、昼に来た。
三度目である。帽子を取ってドロテアに挨拶をし、そのあとで俺を見た。値を訊く相手を見る目で、見ている。
後ろから、水のかたまりが、床を滑ってきた。骨運びで、中に、骨の欠片が三つ、透けていた。
「置きに来た。うちのじゃねえ」
水が、床の、あいだの山のところで止まる。回収屋が、籠を床に下ろした。籠は三つで、中は、空に見える。
「境の向こうだ。区画が、ひとつ、焼かれた」
焼かれた。ゴブリンの声は、荷の話をする声のままだった。
「焼かれた骨は、返せん。返せん区画には、値がつかん。……商売に、ならん」
水の中の欠片が、少し沈む。
「選り分けた。匂いが焼けてる。焼けた匂いの欠片は、焼けた区画のもんだ。返す先が、焼けて、ねえ」
回収屋は、籠の一つをひっくり返した。
空の籠の底から、白いものが床に落ちた。灰である。息で立つくらいの軽い灰が、立って、通路の明るさの中で、見えなくなっていく。
「……うちに、置くのか」
「境から、いちばん近い区画が、ここだ。混ざったまま、生えるかもしれん。生えなきゃ、灰だ。灰は、数えん」
回収屋が、あごで水を指す。欠片が三つ、水から床へ下りて、前からある七つの横に並んだ。それが、置きに来たものの、全部である。
◇
テオとミナが、通路の端で見ていた。ミナは片足で立って、テオの肩に手を置いている。
「……あの明るさ、あれも、焼けたの?」
ミナが、境の通路のほうを指している。
「そうだ」
回収屋が答えた。
「焼けた土地は、明るい。中の灯が、全部、外に出るからな」
ミナは聞いて、テオを見ている。
「……テオ。帰るとき、境の通路、通らないでね」
「え。なんで」
「明るいから」
テオは、分かった顔をしないまま、うなずいた。ミナは、それ以上言わなかった。足首を見ている。
◇
回収屋は、帽子をかぶり直した。籠を三つ、背負い直す。骨運びの水が、床の灰を避けて戸口へ滑っていく。
「……焼いた奴は、なんで、焼く」
訊いた。回収屋は、戸口で止まっている。
「知らん。知ってるのは、ひとつだ。帳面のある区画は、灯が動く。動く灯は、境から、よく見える」
戸口の向こうを、あごで指す。
「焼いた奴は、数えねえ。……数える区画は、目立つぞ」
「……うちは、数える」
「知ってる。だから言った」
口の端が、少しだけ上がった。二度目に見た形で、三度目だ。
「代行は、面倒な骨だな」
「よく言われる」
戸口を出ていく。裏回りの道を行く背中に、声は、もう届かなかった。道の先の、境の通路の向こうが、まだ白く明るい。
◇
夕方、欠けた岩の前に立った。
詰めた欠片は、まだ入っている。今日は、誰も座らなかった。座れなかった客が一人、片足で帰っていった。境の向こうは、まだ明るい。
壁際に向いて、言った。
「受けを、増やす。観る席の前に一体。二本目の通路の口に、一体。転ぶ客を受ける。……来るものも、受ける」
来るものが何かは、言わなかった。ぱたりのあごが、半分、上がる。
岩机へ戻る通路の床に、灰が、まだ残っている。
戸口から入る夕方の風で立って、明るさの中で、見えなくなった。




