第五十二話 合う
三日目の夕方になった。
開いたままの帳面の、紙の端が、反っている。三日、俺の指が押さえつづけた端である。監査役は、朝から岩机の前に立っている。
昼を越えて、夕方まで、場所を変えない。この人が、合う、と言うか、合わぬ、と言うか。合わぬと書かれた区画がどうなったかを、三百年、誰も教えてくれない。
帳面は、今朝から開いたままである。拾いものの行には、層外の色の細い紙が、折られたまま挟まっている。閉じるのは、合う、か、合わぬ、を聞いてからだと、俺が決めた。
ピンは、朝からずっと監査役の横に立っている。数え棒は、今日も耳に戻っていない。
「だいこう。きょう、おわりますか」
昼に、ピンが小さく訊いた。答えなかった。帳面のいちばん後ろの行まで、あと、どれだけあるかは、俺が知っていた。
壁際の連中は、いつもの角度で、いつもの場所にいる。三日、客を入れていない。入れないとは誰も言わなかったが、岩机の前に首のない人が立っている区画へ、客は、来なかった。
鍋の前には、ドロテアと、きょうはグレテがいる。三日目だってね、と女将は言って、ドロテアの鍋の横に大鍋を下ろし、火を入れた。
◇
「客。ひと月ぶん、と」
監査役が読み上げる。
「はい。穴が通ってからの、客の数です」
「読んだ」
襟が、帳面の次の行へ下りる。客の行のあとに、ドロテアの飯の行。その次に、ピンの字で、小さく、歌の行がある。
うた。きゃくの、ことばの。おしえられた、こ、よん。
「歌、と」
監査役が止まった。両手が、帳面の上で、動かない。
「はい。客の言葉の歌です。教室の子が、四体、覚えました。意味は、誰にも分かりません」
「数えぬ」
一語だった。
歌は数えない、と上の口が言った。うちの帳面にあって、上の照合に入らないものが、ある。数えぬなら、何も来ない。何も来ないのは、上では、ないのと同じになる。
「数えてください」
言った。言ってから、あばらの内側が、ひとつ、大きく鳴った。
鍋の前で、ドロテアの柄が、鍋の縁に当たる音がした。ヴォルクの袖が、動かない。
襟が、俺へ向いた。
「数えぬ」
同じ一語である。二度目は、一度目より、低いところから来た。それ以上は、来なかった。歌の行は、帳面に残り、上の紙には、入らない。四体が覚えた節は、上では、ないものになった。
ピンが俺を見てから、岩机の端に置いてあった通達の紙を、裏返す。あの夜に書いた、ひらがなの行が並んでいる。ピンの筆が、あう、あう、の横で止まり、何も書かずに離れた。
「かぞえぬ、は、どこに、かきますか」
「書かない。空けておく」
「……あいてる、ところが、ふえます」
増えたまま、置いておく。
◇
「照合。終わる」
両手が、帳面から離れた。
襟が、帳面の一行目へ戻る。俺の字の行である。たっているのは、よんじゅう。かいてあるのは、さんじゅうきゅう。あわない。そこで止まった襟が、少しだけ、傾く。
読む角度である。もう一度、読んでいる。
「起きた順に、書いてある、と」
「はい。起きた順です。直していません」
一行目だけは、十日、空けておいた。空けたことは、言わない。
「読ませたい順に、並べてありますな」
ありますな、と言った。な、で終わる語尾を、この口から聞くのは、はじめてだった。
——上に読ませる紙には、読ませたい順に。
そう教えた人が、岩机の向こうの定位置に、袖を下ろして立っている。
「はい」
それだけ答えた。
「紙と、合わぬ。立っている数と、合う。照合したのは、帳面」
言ってから、監査役の両手が、帳面を閉じた。俺が三日そうしなかったことを、上の手がした。行に言うときは、開いた行の上だった。いまは、表紙の上である。
「合う」
襟の中の暗いところから、一語が出た。
俺のあばらの内側が、鳴らなかった。鳴り続けてきたものが、合う、の一語で、やんだ。やんだところに、大鍋の底の音が入ってきた。
◇
誰も、動かなかった。
壁際の連中は、合う、を聞いて、動かない。あごを上げたのは、ぱたりだけである。ドロテアは柄を握ったまま監査役の襟を見ていて、グレテは大鍋の蓋を、まだ開けない。
ピンの数え棒が、耳に戻った。
ヴォルクの袖は、下りている。奥は、見えない。合う、と言われた瞬間、袖の布が、手首のところで、一度だけ動いた。ゆるんだ。
俺は、席、と言いかけた。
監査の紙の、いちばん下の三文字。第七席。席、って、なんだ、と、あの日に訊いて、誰も答えなかった。答える口が、いま、目の前にある。合う、と言った口だ。
訊かなかった。合う、が、まだ耳に残っている。あごを閉じると、歯が、小さく当たった。
◇
監査役の両手が、閉じた帳面をもう一度開き、拾いものの行から、層外の色の細い紙を抜いた。
二晩挟まっていた紙である。折り目を開くと、何も書いてない。襟の内側から細い筆が出て、紙の上で二度、動いた。筆が襟に戻る。両手が紙を乗せ、襟が傾く。革が鳴った。紙に、礼をしている。
それから、岩机の、帳面の横に置いた。
「読め」
紙に、字がある。語が、二つ。上の字で、小さく。
合う。
その下に、もう一つ。
次。
「次、とは」
監査役は答えずに、戸口へ向いた。両手には、何も乗っていない。帳面は岩机の上に開いたまま残り、拾いものの行は二列のまま、あわない、の四文字も、そのままだ。
出る前に、襟が、一度だけ、こちらへ向いた。向いただけで、何も言わずに、首のない人は通路へ出ていき、革の音が、上のほうへ遠くなっていく。
◇
大鍋の蓋が、開いた。湯気が、岩机のほうまで来て、俺のあばらのあいだを抜けていく。三日鳴っていたところを、温かいものが通る。
「終わったんだろ」
グレテが言った。
「終わりました」
「一杯一グリム。合った日でもね」
「……合う、です。合った、じゃなくて」
「どっちでもいいよ。木札、出しな」
壁際の連中が、椀を取りに動きはじめる。ぱたりが、一番に鍋の前へ来た。二つの鍋の音が、重なる。木札に、線が、一本ずつ引かれていく。客の来なかった日の線は、どこにも引かれない。
ピンが、岩机の前で、開いたままの帳面を、もう一度のぞいた。監査の二列の、すべて、の行。右は、空いたままである。ピンは、そこに何も書かずに、帳面を閉じた。
帳面の横に、監査役の置いた、層外の色の紙。
合う。次。




