第五十一話 袖の奥
岩机の上に、帳面がない。
昨日、監査役が持って出た。今朝の三ノ三の岩机は、岩である。石の面に、昨夜ピンが裏返して書いた層外の色の紙が一枚、乗っているだけだ。
裏の白いところに、ひらがなの行が三つ。表の、監査、の二文字は、机の石を向いている。
監査、二日目の朝である。裏市場側の光が、帳面のない机の面を、端から端まで照らす。照らすものが紙一枚だと、岩机は、広い。
◇
監査役は、来た。昨日の刻に、昨日の戸口から、名を言わずに。
両手の上に、うちの帳面が乗っていた。預かる、と言って持ち出した帳面が、見た目は変わらずに、戻ってきた。
「返す」
岩机に置かれる。読む前の礼はない。読んだあとの帳面に礼はないらしい、と昨日思ったことが、今朝も続いている。
ピンが、帳面の表紙に手を置いた。開かない。置いただけで、しばらくそのままにしている。それから、裏返しの紙を、表紙の上に戻した。監査、の二文字が、上を向く。
俺の手は、帳面の角を揃えていた。揃える前から、そうなっていた角である。角を押さえて、気づいた。帳面の端から、層外の色の細い紙が一枚、少しのぞいている。昨日までは、なかった。
ピンが気づく。俺も気づいた。抜かない。
「照合する。この帳面と、紋の申請、通路を」
監査役は、帳面を細い紙のところで開いた。拾いものの行である。その横に、襟の内側から、昨日のまんなかの束を出す。
整える紋、認可せず。三本目の通路、手で掘った記録。昨日礼をした紙には、礼をしない。一枚ずつ両手に乗せて、帳面の行と見比べる。
ピンが監査役の横に立つ。俺は、立たなかった。
◇
「代行」
岩机の向こうの、いつもの定位置からではなかった。壁際の、窪みから少し離れたところに、ヴォルクは立っていた。袖は手首まで下りている。
「少し、いいですか」
「はい」
壁際へ行った。監査役の革の音が聞こえるところに、ヴォルクは立っている。それより遠くへは、行かずに。
「昨日、あなたは、同じです、と言いました」
監査役の革の音が、岩机のほうから、一枚ごとに来る。
「言いました」
「私は、言いませんでした」
袖の奥に、明かりはない。あの夜から、戻っていない。
「私が区画長になった年に、紋の申請を出しました。整える紋です」
「通りました。紋は、来ました。使うぶんの灯は、来ませんでした。翌月の配分の紙に、結界、と書いてありました。それだけです」
それだけ、と言った。
俺の手が、帳面の角を探す。帳面は岩机の上にある。手は、何もつかまずに、下りる。
「紙は、正しかった。申請は通り、紋は来て、灯は結界に入った。どこにも、合わぬ、はありません。私は、合わぬ、と書きませんでした」
「……書けなかった、ですか」
「書きませんでした」
言い直しは、しなかった。頭数の欄のことを言った月と、同じ形の文である。
「それから、見ていませんよ、と言うようになりました」
一つ、間があった。革の音が、岩机のほうで一枚ぶん鳴って、やんだ。
ヴォルクの手が、袖を押さえた。押さえる必要のない袖である。布が、小さく、鳴る。
「見ていました」
その一文だけ、事務の声ではなかった。
「私のときも。あなたのときも」
俺の口が、開きかけた。誰が、の形まで。訊けば、この人は答える。答えない、と思った夜もあった。今朝は、答える。
閉じた。誰が回したかを、俺は今日、知らないままにした。
◇
ヴォルクは、袖を、手首から少し上げた。
内側に、印がある。焼き付けたような形の、古いのに新しいままの印。代行になった日に一度だけ見えて、もう一度見たときには袖が戻っていたものである。今朝は、見せた。
「使われた形跡が、ありません。一度も」
袖が、下りた。
「区画を整える紋を持ったまま、区画が潰れるのを、よそで見ました。三ノ四のときも」
監査役の革の音が、岩机のほうで、やんでいる。紙が尽きたのか、何かを読んでいるのか、ここからは分からない。襟の向きだけが、こちらではなく、帳面のほうへ向いている。
ここは、革の音が届くところである。届くところを選んで、この人は言った。
「あなたは、同じ紋を、申請しました」
「出しました。認可せず、で返ってきました」
「監査の紙に、紋の申請、と書いてありました。読まれます。通るかどうかは、知りません」
袖の奥を、俺は見た。何もない。
「私の紋は、使われないまま、ここにあります。あなたのが、来たら」
ヴォルクは、そこで一度、黙った。上は、と言いかけて黙る、あの黙り方ではなかった。続きを持っていて、出す順を決めている、黙り方である。
「……あなたは、使いますか」
「使います」
答えは、先に出る。何に、を考える前に、口が出す。革の音の届くところで、である。
「何に」
ヴォルクが訊く。答える前に、岩机のほうで、襟が動いた。監査役が、帳面の上に両手を置いて、こちらへ向いている。革は鳴らず、待っていた。
「代行。照合する」
「はい」
壁際を離れる。ヴォルクは、そこに残る。振り返ると、窪みの中の白い骨と、袖を下ろした区画長とが、壁に沿って、並んでいる。
岩机に戻ると、ピンが、俺を見上げた。
「もん、の、ところ、です」
「読みます」
整える紋、認可せず。理由の欄は、空いたままだ。書かなくていい相手だったから、空いている。あの日、そう教えてくれた人が、壁際にいた。
監査役の襟が、空欄の上で止まった。しばらく、そのままだった。
「読んだ」
それだけである。
◇
夕方、ヴォルクは岩机の向こうの定位置に戻っていた。
何も言わない。朝、壁際で言ったぶんだけで、今日の言葉は尽きたように、立っている。袖の奥を、俺は明かりで読んできた。今日は、読むものが、そこにない。
ピンが、帳面を開いて、今日の行を書いている。かんさやく。ふつかめ。ちょうめん、かえってきた。
筆の音が、鍋の音と、近い速さで続く。昨夜、紙の裏に書いた行は、帳面に写さなかった。上の紙の裏は、上の紙の裏のまま、とピンが言う。
拾いものの行の、層外の色の細い紙は、挟まったままである。抜いていいか、とは、まだ誰も訊いていない。ピンは、紙ののぞいた帳面の端を、見ないようにして書いている。
俺は、筆を借りて、何に、と訊かれたところの答えを、書こうとした。書くことが、まだ、ない。筆が、紙の上で止まる。
袖は、手首まで下りている。布の、手首のところに、皺が寄っている。
袖の奥は、暗いままである。




