第五十話 この帳面、嘘をついてます
「あわない」
ピンが、俺の書いたばかりの一行目を読んだ。
今月の一行目に、俺の字で、こう書いてある。
たっているのは、よんじゅう。かいてあるのは、さんじゅうきゅう。あわない。
ピンの字より大きく、ピンの字より下手である。この帳面の中で、俺の字は頭数の行と、この行の二つだけだ。
筆をピンに返した。ピンは受け取って、耳に挟んだ数え棒を抜き、筆と棒を両手に一本ずつ持った。どちらも落とさない。
監査役の襟が、帳面の上で動いた。一行目から、前の月へ、ゆっくり戻って、拾いものの行で止まり、二列のあいだでもう一度止まる。それから、今月へ戻って、いちばん後ろまで行った。
「読んだ」
読んだ、だけである。
◇
うちの帳面が、岩机へ戻された。両手で、音を立てずに置かれた。
そのあとで、監査役は襟の内側に手を入れた。首のない人の襟の中は暗く、暗い中から、層外の色の束が出てきた。石板の棚で見た、あの厚みである。
「照合する。拾いものの行を」
うちの帳面と、上の帳面が、岩机の上に並んだ。
俺は、うちの拾いものの行を指で押さえた。うちの値、五十二。外の値、二百。二つの数のあいだに、小さく、あわない。
監査役の両手が、層外の束の、同じ月のところを開く。
俺は、のぞいた。数える前に、見えた。
一列である。
拾いものの行に、数が一つ。五十二。外の値の列が、ない。あわない、の四文字を入れる幅が、ない。
知っていた形である。上は知っていて書いていない、と、あの二列を見た日に思った。
思ったとおりの紙が、目の前に開いているのは、思ったのとは、別のことだった。俺のあごが、少し開いた。うちの帳面のほうが、一列、多い。
ピンの数え棒が、二つの帳面を往復した。一度。二度。三度目はゆっくりで、棒の先が紙をすって、かさ、と鳴った。
「ごじゅうに、と、ごじゅうに。あいます」
「合う」
「にひゃく、と」
数え棒が、上の帳面の、うちなら二百が入る高さで止まる。紙の、白いところである。
「……ありません。のこりの、いったところも、ありません」
「合う」
もう一度、監査役が言った。
紙にないものが、さっきは合わぬで、いまは合う。違うのは、どちらの紙か、だけだ。うちの紙にないと、合わぬ。
上の紙にないと、合う。さっき合わぬと言われたときより、こちらのほうが、冷たい。合う、と言われて、あばらの内側が、縮んだ。
ピンが、俺を見た。数え棒の先は、まだ白いところにある。
◇
あわない、と最初に書いたのは、ピンである。
あの日、二列のあいだに四文字を入れたのはピンの筆で、俺は、合わない、と書け、と言っただけだ。最初に見つけた者が、最初に言う。それでいい。言ったあとのことは、代行が持つ。
処分は、紙で来る。紙に、誰の名が書かれるかを、俺は知らない。
ピンは、数え棒と筆を両手に持ったまま、俺を見ている。訊いているのではなく、待っている。
俺は、うなずいた。
「ピン。言っていい」
ピンの指が、数え棒を握り直した。
それから、俺から監査役へ顔を向けた。首のない人のどこを見ればいいのかを少し探して、襟のまんなかに決めた。
「かんさやく、さま」
「聞く」
「この帳面、嘘をついてます」
ピンは、数え棒の先で、さした。
◇
俺のあごが、閉じなかった。
先に動かなくなったのは、俺だった。言ったのはピンで、止まったのは俺である。あばらの内側が、鳴っている。
誰も、動かなかった。ドロテアは鍋の前で、火を落としたまま柄を握っている。ヴォルクは俺の後ろで、気配だけになって立っている。
監査役の襟が、ピンへ向いた。
襟は、下がらなかった。向いたまま、しばらく動かない。
「どちらの帳面が」
襟の中から、声が来た。
「……うえの」
ピンの声は小さかった。小さいが、はっきり、三つの音である。
襟が、俺へ向いた。
「代行。同じか」
ピンに訊き、俺に訊く。ピンの言葉を、区画の言葉にするかどうかを、俺に訊いている。黙れば、ピンの言葉で終わる。
「同じです」
言った。言ってから、続けた。
「上の帳面は、二百を書いていません。残りの、行ったところも」
誰が持っているか、は言わなかった。知らないからだ。知っていることだけを、上の帳面の前で、口に出した。
◇
ヴォルクが、俺の後ろで、息を吸った。
霊体に、吸う息はない。それでも、吸う音に似たものが、後ろでした。ふり返らなかった。
監査役は、何も言わなかった。層外の束を閉じ、襟の内側へ戻した。暗い中に、三ノ三の行が入っていく。まんなかの束も、同じ暗い中へ入った。
それから、両手が、うちの帳面の下に来た。
「この帳面は、預かる。明日まで」
帳面が、持ち上がった。表紙に重ねてあった層外の色の紙が、一枚、すべって岩机に残った。読む前の礼は、なかった。読んだあとの帳面に、礼はないらしい。
ピンの手が、少し開いた。筆も、数え棒も、落とさない。落とさなかったが、その手は、しばらく閉じなかった。
「照合は、明日も、する。この帳面で」
うちの帳面は、襟の内側ではなく、両手の上に乗ったまま、戸口を出ていった。
岩机の上から、重さが一つ、なくなった。起きた順に書いた行が、全部、戸口の向こうにある。今夜、誰かが転んでも、帳面に書くところがない。残ったのは、通達の紙が一枚。
「……あずかる、は、かえってくる、ですか」
ピンが、戸口を見たまま言った。俺は、知らない、とは言わなかった。
「明日、と言った。明日、数える」
◇
帳面のない夜である。
岩机の上に、層外の色の紙が一枚。ほかに、何もない。ドロテアは、監査役が出ていったあとも、火を入れていない。入れる気がしない、と一度言った。
ピンは、岩机の前に座って、帳面のあった場所を、数え棒の先で一度なぞった。なぞる音は、しない。
それから、通達の紙を、裏返した。裏は、白い。
「ここに、かいて、いいですか」
「いい」
ピンは、筆を取った。上を数える帳面の二行目を、上の紙の裏に書いた。帳面と同じ二列である。
左に、かんさやく。ひとり。右に、いった、ことば、みっつ。あわぬ。あう。あう。
それから、少し考えて、その下に、左を空けて、右にもう一行。
いわなかった、ことば。ひとつ。
数え棒が、その行の上で止まった。
「ピン」
「はい」
「あの言葉、誰に教わった」
ピンは、数え棒を耳に戻しかけて、戻さなかった。
「……どろてあ、が、まえに。あるのに、かいてないのが、うそ、だって」
ドロテアが、鍋の向こうで、柄を握り直した。
「言ったかねえ。……言ったか」
それだけ言って、火を入れた。鍋の底が、小さく鳴りはじめる。
ピンの筆が、層外の色の紙の裏で、もう一行、動いた。にひゃく。上の帳面にない数が、上の紙の裏に、ひらがなで、乗っていく。




