第四十九話 十一日
首のない監査役が、紙に礼をした。
十一日の朝である。戸口で名を言わず、上から来た、とだけ言ったその人は、俺が差し出した頭数の紙を両手に乗せると、読む前に、黒い革の襟を前へ傾けた。襟の革が、小さく鳴った。
礼を、紙にしている。
◇
十日、あった。
そのあいだ、うちの帳面はどこも直していない。拾いものの二列は二列のまま、そのあいだの「あわない」の四文字もそのまま、穴の行もそのままである。
いちばん後ろには、せんぱい、います、とピンの字で、俺の行より少し小さく並んでいる。
直したのは出す順だけだ。岩机の上に束を三つ作り、崩し、また作った。十日で十一回、並べ替えた。
最後の一回で、頭数の紙を左に、通路と紋の申請の控えをまんなかに、帳面そのものを右に置いた。右が、いちばん後ろである。帳面の表紙に、層外の色の紙を一枚、重ねてある。監査の通達だ。
それから、帳面には、まだ書いていない行が一つある。今月の、一行目だ。十日前の夜に中身を決めて、書かなかった。上が読む日まで空けておく、と決めたから、今朝も書いていない。
ピンが数え棒を耳から抜いたのは、戸口に影が立ったときだった。
「かんさ、です」
「分かってる」
分かっていて、あばらの内側が鳴る。十日鳴らなかったものが、戸口の影の形を見て鳴っている。
「だいこう。かみ、ひだりから、です」
「左からだ。……数え棒、落とすな」
「きょうは、おとしません」
ピンは数え棒を両手で握った。耳には挟まない。一位の朝と同じ持ち方である。
影に、頭がない。
肩の上に、立った襟がある。黒い革の襟の上に何もなく、襟の中は暗い。通路の明かりは岩机の上までは届いて、襟の中には届かない。
「上から来た」
声は襟の中から出た。出どころが見えない。低くも高くもなく、出る顔を持っていない。
「照合する。帳面を」
ヴォルクが岩机から出た。袖を手首まで下ろしている。袖の奥に明かりはなく、十日のあいだ戻っていない。
「区画長の、ヴォルクです。……代行が、おります」
それだけ言って、ヴォルクは一歩下がり、俺の横に来た。
「お願いします」
小さい声だった。この十日で、この人が俺に言った言葉のうち、いちばん長いのが、これである。
◇
俺は左の紙を取って、監査役の前に出した。
「読んでください。左から、順に」
監査役は受けなかった。両手を紙の下に置いて、俺が手を離すのを待っている。離した。紙が両手に乗り、乗ってから、襟が下がった。
紙に、礼をする人である。
読み終えて、紙が岩机に戻る。
「頭数、三十九と」
「はい。三十九です」
俺が答えた。
「立っている数を、見る」
「どうぞ。壁際に、並んでいます」
俺も通路に出て、戸口の側に立った。ピンとヴォルクが、俺の後ろに並ぶ。
壁際にうちの連中が並んでいる。査定の日と同じ角度で、背筋を伸ばして。ぱたりがあごを上げている。鍋の前には、ドロテアが柄を握って立っている。
壁際に三十五。鍋の前に一。数えるまでもない数を、俺は数えた。
監査役は声に出さずに数えた。襟が一体ずつわずかに向きを変える。頭がないのに、どこを見ているかが向きで分かる。
壁際の列が終わると、襟は鍋の前のドロテアへ向き、それから戸口の側へ向いた。俺と、ピンと、ヴォルクへ。襟が三度、小さく動く。
それから、いちばん奥へ向いた。
窪みの前で、襟が止まった。
白い骨が、いつもの角度で、いつもの窪みにいる。
襟は動かない。俺は窪みの一体を数えなかった。数えなくても、壁際と鍋の前と戸口の側と窪みで、立っているのは四十である。
俺のあごの骨が、一度、鳴りかけた。
「立っている数、四十と」
襟が、岩机へ向いた。
「紙は、三十九と」
「はい」
「合わぬ」
合わぬ、と言った。それだけである。
ヴォルクの袖の手首の布が、ほんの少し持ち上がった。奥には、なにも見えない。
ピンの数え棒が耳に戻らない。
「あわぬ、は」
ピンが小さく言った。俺にだけ聞こえる高さである。
「あわない、と、おなじ、ですか」
「同じだ」
「……では、うちのちょうめんに、あります。ひろいものの、ところに」
ある。拾いものの二列のあいだに、ピンが小さく入れた四文字である。上の口が、今日、同じことを言った。
◇
まんなかの束を出した。
三本目の通路を手で掘った記録と、紋の申請の控え。認可せず、の紙も控えてある。上が書いた紙を、うちが控えている。それも出した。
監査役は一枚ずつ両手に乗せて、一枚ずつ礼をした。
長い。俺は礼の数を数えていた。紙が一枚で、礼が一度。十を越えたところで、ドロテアが鍋の火を落とし、鍋の音がしなくなって、革の音だけが残った。
「あんた」
鍋の向こうから、小さい声が来た。
「あの襟、飯は、食うのかい」
「……知らない」
「食わないなら、火は、落としたままにするよ」
ドロテアは鍋の柄を握ったまま、監査役の襟を見ている。
◇
右の束を出すときが来た。
帳面を、今月のところを開いたまま、両手で差し出す。重い。監査役の両手が下に来る。離す。乗る。
襟が、下がる。
読む前の礼である。この礼のあとで、上の目は開いたところの一行目から入って、いちばん後ろの、せんぱい、います、まで行く。
離した手が、帳面の端に、また触れている。離したはずの指である。
礼は、何回目だ。十を越えたあとの数が出てこない。
最初に読ませる行は、十日前に決めた。口で言う、とは決めていなかった。決めたときは十日あって、いまは、礼の途中の襟が目の前にある。
黙っていれば、どうなるかを、俺は知らない。合わぬ、と書かれた区画を、俺は一つも知らない。三百年、隣は合わせてきた。合わせない帳面を上に読ませた者が、どうなったかを、誰も教えてくれない。
知らないまま、言う。
「監査役」
襟が止まる。帳面の上で、礼の途中の形のまま止まった。
「その、開いた一行目に、まだ書いていない行が、あります」
ピンが俺を見た。
ヴォルクは、一歩も動かなかった。
書いていない行。十日前に決めて、今朝も書かなかった、最初に読ませる行である。
襟の中の暗さが、俺のほうへ向いた。
「書け」
一語だった。
ピンが数え棒を耳に挟み、筆を差し出した。帳面の字をずっと書いてきた、ピンの筆である。受け取った手が、帳面の端を離した。
帳面は監査役の両手の上にある。両手は動かない。礼の途中の形のまま、俺の次を待っている。
通路の明かりが岩机の上にあって、襟の中には届かない。
筆の先が、監査役の両手の上の帳面へ、一行目へ、下りていく。




