第四十五話 隣の一位が、数える
裏回りの道の奥で、緑の光が、二拍、またたいた。
祭りの夜に、見たかもしれない光である。あのときは、来たとも来なかったとも、帳面に書かなかった。今夜は、書ける。光は、またたいたあとで、こちらへ、近づいてきた。
音が、ない。うちの連中は、骨を鳴らして歩く。その姿は、鳴らさない。裏回りの道から、飯でも給料でもないものが、初めて、上がってきた。
区画長オルバス。隣の、一位である。
夜に、裏から、名乗らずに来る理由を、数えた。三つ、浮かんだ。三つとも、止めに来た、だった。
閉めたあとの三ノ三に、客はいない。骨たちは、壁際で、朝を待っている。待っている骨の列が、音のない足取りに、順に、姿勢を正す。誰も号令をかけていない。壁際のあごも、止まった。
ヴォルクが、岩机から出た。
「オルバス殿」
「ヴォルク。……夜に、すまん」
それだけである。ヴォルクは、岩机の脇へ下がり、何も言わない。二人の区画長のあいだで、俺の知らない年月が、今夜も、一往復した。
「代行」
「はい」
「読んだ。おまえの行を。名指しで、三月」
◇
先に、穴を見る。
オルバスは、案内を待たずに、二本目の通路の奥へ歩いた。俺は、隣を歩く。観る席の欠けた岩の前で、光が、一拍、止まる。止まって、何も言わずに、奥の穴の前に立った。
「組んだ通路ではないな」
「掘りました。手で」
「きしむな」
「きしみます。きしんでも、通ります」
緑の光が、穴の向こうの、表の道の明かりを、しばらく見ていた。
「うちの客が、坂で、この穴から出てくる客とすれ違う。笑って帰る客と、だ。……数えずに、いられるか」
止めに来たのではなかった。数えに来たのである。二度目の査定の翌々日に、この骨は、匂いの話をした。跳ねた数字は、ごちそうの匂いがする。腹を減らしたやつほど、遠くから嗅ぎつける。あれから、四月だ。嗅ぎつけたのは、まず、隣だった。
◇
岩机を挟んで、向き合った。椅子は、ない。オルバスは、立ったままである。俺も、立った。
「十七灯一分。十七灯九分。……伸びが、八分だ。その前は、倍で来た。今月は、八分」
数字を、言う。褒めも、けなしも、しない。
「頭数、三十九。三十九のまま」
ピンの数え棒が、耳から半分抜けかけて、止まった。オルバスは、見ていない。俺は、返事をするまでに、一拍、遅れた。
「日次の最高は、上の帳面には、載らん。載らんものを、私は、客から聞いた。三十一だそうだな」
「三十一です」
「表の道に、穴が開いた、とも聞いた」
聞かれるとは、思っていた。ただ、早い。
「開けました。帰り道です。十二歩、掘りました」
「上の帳面に、穴の行は、ない」
「ありません。要る、とも、要らない、とも、誰も書いていないので」
緑の光が、一度、ゆっくりかげって、戻った。
「……書いていないものは、上が、いつか、数えに来る。数えに来るときは、紙の色が、変わる」
岩机の上の、いつもの色の紙の端を、見た。
俺は、紙の色を、二度、見ている。石臼の通告と、認可せずの紙。三度目の色を、この骨は、知っている。
◇
「帳面を、見せろ」
ピンが、俺を見る。俺は、うなずいた。ピンは、帳面を、岩机の上に、開いた。
オルバスは、ページをめくらない。開いたところを、読む。日次の行。まちきれの行の、ゼロ。それから、拾いものの行に来て、光が、止まった。
うちの値、五十二。そとの値、二百。二列のあいだの、小さな四文字。あわない。
緑の光が、四文字の上で、動かなくなった。長い。ピンの数え棒が、耳に戻らないまま、手の中にある。ヴォルクの袖の奥の明かりが、動かない。壁際で、誰も、骨を鳴らさない。閉めたあとの区画で、いちばん長い静けさだった。
「それは——」
言いかけて、やめた。光が、帳面から、俺に移る。隣の区画で、持ち場の骨が帳面を見て、何か言いかけてやめるのを、俺は一度、見た。あの区画では、それが乱れに数えられる。今夜は、区画長が、同じ形をした。
「……いや。書き方は、おまえのものだ」
「はい」
「一つだけ、言う。その四文字は、うちの帳面には、ない。三百年、なかった。ないから、私の帳面は、正しい」
正しい、と言うとき、声は、少しも誇っていなかった。
「外の値は、誰に聞いた」
「回収屋です。二度目に来たときに、訊きました」
「……あれは、うちにも来る。うちは、訊かん。訊かんから、二列にならん」
訊かない、を、この骨は、三百年、続けてきた。訊かなければ、帳面は一列で、一列の帳面は、正しい。訊いた帳面は、二列で、あいだが、あく。どちらが正しいのかを、俺はまだ、決めていない。決めていないことを、今夜は、数に入れない。
◇
「来月、私を抜くか」
数えてから、答える。
「抜きます。来月の数字は、もう、だいたい見えています」
「二十二灯一分。私の行は、遅くなった。止まってはいない。……それでも、抜かれるだろう」
三百年の骨が、そう言う。妨げる、とは言わない。負けん、とも言わない。数字を、言った。
「抜くなら、抜け」
「……はい」
「抜いたあとの数字は、誰が読むと思う」
長いほうの答えは、言わなかった。上の帳面は、下の帳面を、ぜんぶ束ねている。束ねた帳面の、いちばん上の行に、来月、うちの行が来る。
「上です」
「上だ。読まれる行は、語られる。語られた行の区画が、そのあと、どうなったかを、私は、三百年、隣で数えてきた」
緑の光が、岩机の上の、二列の幅に、もう一度、落ちた。
「私も、一度、上に見られた」
緑の光が、動かない。
「……その先は、言わん。おまえが抜いてから、数えろ」
◇
帰り際、オルバスは、ピンの前で、足を止めた。
ピンは、数え棒を、両手で握っている。オルバスが言葉をかける相手は、この区画で、ピンだけである。三度目だ。
「数えていけ」
「はい」
数え棒が、両手の中で、一度だけ、回った。光が、ピンから離れて、裏回りの道のほうを向く。
岩机の上に、紙が一枚、置いてあった。うちの写しである。上の帳面の、三ノ三の行の写し。名指しで読んだ三月ぶんの、いちばん新しい一枚。オルバスは、それを、持って帰らなかった。
「読み終えた。返す」
音のない足取りが、裏回りの道へ、下りていく。緑の光が見えなくなるまで、壁際の誰も、動かなかった。
見えなくなってから、壁際で、床をつつく音が、一つ、鳴った。鳴りかけて、止んだ。隣の一位が、夜に、うちまで数えに来た。その意味を、うちの連中は、分かっている。
◇
写しを、手に取った。
十七灯九分。頭数三十九。俺の知っている数字である。前に返ってきた写しには、余白に、細い字が一行、書き足してあった。今度は、何もない。
端に、跡があった。
一度、書きかけて、消した跡である。細い字の、癖のない、消し方。何を書きかけたのかは、読めない。指で、なぞった。
抜いたあとの数字は、誰が読むと思う。
来月、抜く。そのあとのことを、隣の一位は、三百年、数えてきた。その骨が、書きかけて、消した。
消した跡の上で、なぞった指を、止めた。




