第四十四話 センパイの行
頭数の欄が、空いたまま、来た。
月のなかばを、少し過ぎた朝である。回状を運ぶゴブリンが、層外の色ではない、いつもの色の紙を一枚、岩机に置いて帰った。査定の前に、階層長のところから、月に一度回ってくる紙だ。上の台帳の、三ノ三のところの写しである。今までは、ヴォルクが読んで、ヴォルクが書いて、ヴォルクが印を押していた。今月は、読まずに、俺へ回した。
「代行の仕事です。頭数を、確かめて、書く。私の印は、そのあとです」
紙には、番号が並んでいる。若い番号から、順に、三十九。指で、列をたどった。骨の番号のあいだに、ピンの番号がある。ドロテアの番号がある。骨のページ、と、この紙を呼ぶ者がいるが、骨だけの紙ではない。番号の横に、名前の欄はない。職名の欄に、区画長、と一つだけ、書いてある。いちばん下に、頭数の欄があって、そこだけが、空いていた。
三十九。
書こうとして、手が、止まった。
自分の手を、見た。ここに代行が数を書き、区画長が印を押す。それで、上の台帳の三ノ三のところは、今月も、正しくなる。この数が、給料の木札の数になり、査定の頭数になる。止まる理由は、数えれば、一つしかない。
◇
ピンの帳面と、写しを、並べた。
ピンの帳面には、番号が三十九、並んでいる。写しにも、三十九。一つずつ、数え棒の先で、突き合わせた。ピンが左を読み、俺が右を見る。ぱたりの番号。もっかいの番号。もどりの番号。俺の、一一四。三十九、ぜんぶ、合った。
「あって、ます」
ピンが、顔を上げた。数は、合っている。
その紙を、俺は、しばらく見ていた。
壁際に、窪みがある。その中に、区画でいちばん白い骨が、いつもの角度で、座っている。写しの三十九の中に、その骨の番号は、ない。ピンの帳面の番号の列にも、ない。番号がないから、ない。それは、ずっと前から、そうだった。給料の帳面を運ぶ子に頼んで、ドロテアが見た。台帳の三ノ三のところは、立っている骨の数より、一体ぶん、少ない。給料の列に、この人が並んだことは、一度もない。木札は三十九枚で、どれにも、持ち主がいる。
そのときは、ヴォルクの紙だった。今日は、俺の字である。
◇
窪みの前に、立った。
数える。入口の夜番から、教室の列、壁際、裏の広場。頭の中で、番号のある者を、順に置いていく。三十九。
もう一度、数えた。今度は、窪みから始めた。四十。
三度目。窪みを、飛ばした。三十九。
三十九、四十、三十九。同じ区画を、三度数えて、二つの数が出た。数え間違いではない。先に、決めなければならないことが、一つ、あった。この人を、数に入れるか、入れないか。入れれば、四十。そうでなければ、三十九。数える骨が、数える前に、決める。そういう数え方を、俺は、今日まで、したことがなかった。
指が止まったのは、代行になった日と、同じ場所である。あの日、断る理由を数えて、一つだけ指が止まった。紙の上で、この窪みが、俺の預かりになる。預かった窪みの中の一体を、今、俺の字で、上の台帳に入れることができる。
窪みの縁に、手を置いた。この縁を、指の足りない新入りが、握っていた。今は、もどり、という名で、教室の列にいる。名前は、下から生えた。番号は、上から振られる。この人には、どちらも、ない。——センパイ、は、俺が呼び始めた。下から生えた名前ではない。呼ぶ側が、忘れないための、呼び名である。
左腕の継ぎ目が、いつ見ても少し、合っていない。この区画で、ずっと合っていないものが、一つある。
入れ方は、簡単だ。番号を、一つ振る。四十番目の行を、写しの下に足す。頭数の欄に、四十と書く。ヴォルクが、印を押す。それで、台帳と、区画が、合う。
書けば、合う。
合えば、この人のものになるはずのものを、数えた。木札が、一枚。椀が、一つ。番号が、一つ。三つ。三つとも、この人は、受け取りに来ない。来ないと分かっているものを、この人に訊かずに、俺が決める。三つのうち、一つも——
「……センパイ」
白い骨は、動かない。いつもの角度で、いつもの窪みにいる。
「四つ目が、生えました。もどり、です。上の台帳には、ありません。名前の欄が、ないので」
返事は、ない。返事がないのは、いつものことだ。
「数を、合わせられます。俺の字で。……合わせません」
窪みの縁に置いた手を、下ろさなかった。
上の台帳に載れば、給料の列に並ぶ。番号で呼ばれる。査定の頭数に入る。上が、読む。この人は、上の台帳に、いない。それでも、うちにいる。うちの誰もが、それを憶えている。憶えている者の側で、持つ。
写しの端を、窪みの縁に、置いた。白い指先が、紙の端に、触れている。置いた紙が、指に、触れただけである。しばらく、そのままにした。
◇
頭数の欄に、三十九、と書いた。
俺の字で書いた数字が、区画より、一つ少ない。正しい紙である。上の台帳のとおりに、正しく、一行、足りない。
この紙を、上が、いつか、区画まで来て数え直すことがあるのかどうかを、俺は知らない。知らないまま、三十九と書いた。知らないことを、数に入れずに書いた紙は、これが、最初である。
ヴォルクが、印を持って、岩机の向こうに立った。書いた数字を、読む。三十九。読んでから、印の手が、紙の端で、一拍、待った。
「……私も、書きませんでした」
「はい」
「区画長になった月に、同じ紙が来ました。同じところで、手が止まりました。その月から、頭数の欄は、私の字でした」
袖は、手首まで下りている。下りた袖の奥で、明かりが、一度だけ、揺れた。
「今月から、あなたの字です」
理由は、言わない。俺も、訊かない。同じところで手が止まった者が、この岩机の向こうに、一人いる。それで足りるのかどうかは、印が下りたあとで、考えることにした。
印が、下りた。
◇
夜の飯で、椀が三十九、並んだ。窪みの前には、椀は、並ばない。並んだことがない。今日は、並ばない椀を、数に入れて見た。一つ。
ピンが、写しの下の、あいた一行を、数え棒の先で指した。俺は、首の骨を、横に振った。ピンは、それ以上、指さなかった。
代わりに、自分の帳面を開いた。番号の列ではない。名前の列でもない。いちばん後ろの、俺が見たことのない場所に、ピンの字で、三文字があった。
「うちの帳面には、せんぱい、います」
「いる」
いつ書いたのかは、訊かなかった。ピンの字は、俺の行より、少し小さい。
写しを、畳まずに、岩机の端に置いた。明日の朝、回状のゴブリンが、これを持って上がる。持って上がる紙に、書いてあることは、ぜんぶ正しい。三十九の番号と、頭数の三十九。上の台帳の三ノ三のところは、今月も、この形で、正しい。
台帳の外に、一体いる。
書かなかった。
写しの、最後の行の下が、一行ぶん、あいている。




