第四十三話 四人目の名前
名前を、裏市場で聞いた。
月のなかば、給料でも祭りでもない、ただの夕方である。ドロテアの鍋の火が落ちてから、俺は裏回りの道を下りて、マム・グレテの店へ行った。用は、鍋の相談だった。三本目の通路が通ってから、昼の客が増えた分だけ、骨たちの直りに飯が要る。ドロテアの鍋一つで足りない夜に、大鍋を借りたい、という話である。
グレテは、大鍋の向こうから俺を見て、鍋の話より先に、言った。
「あんたのとこの、あの子、名前ついたってね」
「……誰が、ですか」
「あんたが知らないのかい」
牙が、見えた。笑うと見える牙である。
「あたしの店で生えた名前だ。あたしが先に言う権利がある。指の戻った子だよ。うちの店で、ほかの骨に呼ばれてた。番号じゃなくてさ」
指の戻った子。二本目の通路で手本どおりに転んで、指を一本落として、三日で戻ってきた新入りである。戻った、ので、数えました、と言った骨だ。
「何と」
「もどり」
グレテは、おたまで鍋をひと回しして、言った。
「呼んだのは、教室の子たちだね。呼ばれて、あごが上がるのを、あたしは三度見た。番号のときより、速かった」
もどり。
俺は、その場で、何も言わなかった。言うことが、ない。名前が生えたとき、俺は、店にいなかった。ぱたりのときも、カタリのときも、もっかいのときも、生える瞬間は、誰かが見ている。今度は、俺が見ていない。裏市場の飯屋の女将が見て、女将の口から、俺が聞いた。
「いい名前だね」と、グレテは言った。「戻ってくる名前だ」
◇
裏回りの道を、上がる。
上がりながら、順番を数えた。ぱたり。カタリ、これは俺だ。もっかい。もどり。四つ。三つ目までは、生える現場にいた。四つ目は、いない。それを、俺は、悪いことだと思わなかった。名前は、下から生える。上が見ていなくても、生えるものだ。
区画に戻ると、夜番の一体が、入口に立っていた。奥で、転び教室の稽古が、まだ続いている。
新入りは、列の三番目にいた。戻った右手の指で、転びの構えを取っている。俺は、その骨の番号を、帳面で確かめてから、呼ばなかった。番号を呼ぶと、あごは、ゆっくり上がる。それは、知っている。
「もどり」
あごが、上がった。
速い。
構えていた右手が、ほどけた。壁際で、ぱたりのあごが、少し上がる。採点である。今日の採点は、転びにではなく、上がったあごに向いていた。
教室の列で、誰かが、床を指で、つついた。一つ。二つ。列の端まで、つつく音が、順に渡っていく。もっかいの合図ではない。もっと短くて、揃っていない。拍手というものを知らない連中の、拍手だった。
列の三番目の骨が、上がったあごを、下ろさない。呼ばれたことが、分かっている。誰に呼ばれたかも、分かっている。
「……もどり、です」
自分の名前を、自分の声で言うのを、俺は初めて聞く。
あとから、数えた。あごの速さは、ぱたりが「ぱたり」と呼ばれたときと同じである。もっかいのあごも、同じ速さで上がった。カタリと呼ばれたときの俺も、たぶん、同じだった。番号のときと名前のときで、あごの速さが違うことは、ぱたりで知っている。四体で、同じだ。四度目の同じ速さを、俺は、あとから数えた。
◇
ドロテアは、知っていた。
「三日前からだよ。あんた、気づかなかったのかい」
「三日前」
「教室の子が呼び始めて、次の日には、みんな呼んでた。あんたは、帳面ばっかり見てたからね」
三日のあいだ、名前は、俺の帳面の外で、呼ばれていた。帳面の外にあるものは、俺には見えない。見えないものが、三日、育っていた。
「何で、もどり、なんだい」
ドロテアが、聞く。俺は、答えを持っていなかった。指が戻ったから、だろう。たぶん、そうだ。——戻った、ので、数えました。あの言い方のほうかもしれない、とも思った。呼び始めた教室の子たちに訊けば、答えるだろう。帳面を、開きかけて、閉じた。
「さあ」と、俺は言った。
ドロテアは、それ以上、聞かなかった。
◇
帳面を、開いた。
ピンが、隣で、数え棒を耳から抜く。
「かきますか」
「書く」
「どのぐらいの、おおきさで」
ピンは、俺の行を、指した。カタリ、と書いてある行である。ぱたりの行と、もっかいの行と、同じ大きさの字だ。
「同じ大きさで」
ピンは、書いた。もどり。三文字である。俺の行と、同じ大きさで、同じ列に、四つ目が並んだ。
並んだ四つを、見る。それから、もう一冊のことを、考えた。
うちの帳面の外に、台帳がある。上の台帳である。その三ノ三のところには、番号が並んでいて、横に、名前の欄は、ない。あるのは、職名の欄で、区画長と、その上の職だけが、書かれる。ヴォルク、と書かれているのは、区画長だからで、ヴォルクだからではない。
もどり、を、上の台帳に書く欄は、ない。カタリも、ぱたりも、もっかいも、上の台帳では、番号である。
書く欄がないものを、俺は、うちの帳面に書いた。ここに書けば、うちでは、名前になる。上では、ならない。名前の欄がない台帳は、名前を、数えないのである。上に、それは、ない。
それでいい、と、今日は思った。上の台帳に書くために、生えた名前ではない。
呼ばれる骨は、語られる。語られると——
そこで、止めた。その先は、まだ、俺の帳面には書けない。書けないことを、書けないまま、置いておく。
◇
夜、帳面を閉じる前に、前の世界のことを、少し思い出した。
思い出したのは、道具である。毎朝、数字を見ていた道具だ。前の世界の、誰もが持っていた、手のひらに乗る薄い板。指で触ると、数字が変わる。あれで、企画の数字を見て、あれで、誰かに追いつかれる数字を見た。板の形は、はっきりしている。角が丸い。片面が、光る。
名前が、出てこない。
あの板を、何と呼んでいたか。毎日、何十回も、呼んでいたはずである。指で、岩机の上に、板の形をなぞった。角の丸い、四角。なぞっても、名前は、出てこない。
それは、数に入れない。四つ目の名前が生えた日に、一つ、出てこなかった。
◇
朝の点呼で、ピンが、番号を読んだ。
読まれるたび、音が、ひとつずつ返る。もどりの番号のところで、ピンは、番号を読まずに、名前を読んだ。
「もどり」
音が、返った。番号で返る音と、名前で返る音が、違うのかどうかを、俺は聞き分けられない。どの指が鳴ったのかも、分からない。分からないまま、返った音だけを、数に入れた。
その隣で——番号を読む前に、もう一つ、音が返った。
隣の骨は、教室の二体目の生徒である。もっかいの名前を、最初に呼んだ骨だ。誰かが、小さく、番号ではない呼び方をしたのを、俺は聞いている。中身は、聞き取れない。番号より先に、音が返った。
ピンは、知らん顔で、番号を読み直した。俺は、帳面に書かない。
……生えるのは、下からだ。
帳面には、ピンの字で、四つ目の名前がある。俺の行と、同じ大きさ。




