第四十話 認可は、下りない
紙が来た。層外の色の紙である。
月が替わって、三日目の朝、回状を運ぶゴブリンが、ヴォルクに一枚渡して帰った。階層長の机の端に積まれていた束と同じ色で、石臼の通告が来た日と同じ色の紙を、ヴォルクは読まずに俺へ回した。宛名は区画長で、中身は、代行の俺が出した紙の返事だからである。
一枚。文字は、少ない。
——第三層第三区画。整える紋。認可せず。
その下に、理由の欄がある。欄は、ある。中は、空だった。
二度、読んだ。三度目は、欄だけを読む。空欄は、三度読んでも空欄で、四度目を読む理由が、見つからなかった。
「……理由が、ありません」
「ありません」ヴォルクは、静かに言った。「理由の欄は、上が書きたいときにだけ、書く欄です。書かなかったのは、書かなくていい相手だったからです」
書かなくていい相手。浅層の、客に転んで見せる区画の、代行の骨。牛の言った順番どおりだった。ただ、順番を決めた手の跡は、紙のどこにもない。
紙は、正しい。申請は正しく出て、正しく上がって、正しく下りてきた。どこにも、間違いがない。間違いのない紙が、うちの区画を、止めた。
紙は、正しいまま、区画を潰せる。——いつか、この人が言った。今日の紙は、潰さずに、止める。同じ色の紙が、同じ手で、運ばれてくる。
◇
止まったものを、数えた。数える以外に、今朝の俺にできることは、なかった。
取り置いた十灯は、月が替わって、九灯になっている。帳面の上では取り置きのままで、紋にはならず、繕いにも回らず、宙に浮いたまま、来月には八灯一分になる。何もしなければ減るだけの数字を、俺は、自分の字で作った。減っていくのを、自分の字で見る。
繕いは、四灯一分だった。それは、床のきしみで、消えた。観る席の岩と、継ぎ目の直しは、来月に回る。届かなかった一灯は、取り置きの中にある。ある、のに、使えない。取り置きの紙を書き直せるのは、来月の配分の紙である。今月の分は、もう出した。
二本目の通路へ、行った。
観る席の岩は、欠けたままである。その席の前に、客が一人、腰を下ろしかけた。場づくりの骨が、手で、隣の席を示す。隣は、もう埋まっていて、その客は、立ったまま観ることになった。稽古の拍が、一度止まって、また始まる。座れなかった一人を、俺は数えた。数えても、席は戻らない。
壁際で、もっかいが床を指で二度つついた。もう一回、の合図は、今日は誰にも向いていない。
昼の客が、増えてくる。観る席を立った客が、来た道を戻る。戻る客と、来る客が、一本目の通路で、すれ違う。そのたびに、列が、少し止まる。列の後ろは、入口の外で、待つ。待ったまま帰った客の数を、俺は先月、十一と書いた。
列が止まった回数を、数えた。昼のあいだに、十四。席が空くのを待って止まるのではない。道で、止まる。
ぱたりが、壁際にいた。
いつもの採点の位置である。指の欠けた手を膝に置いて、教室の転びを、あごで見ている。生徒が転ぶ。あごが、上がる。その速さが、少し遅かった。遅いのが疲れなのか何なのかは、分からない。骨は疲れない。疲れを数える場所がないだけだ。
右腕の継ぎ目に、白いものがある。
前から、ある。砂かもしれない。砂ではないかもしれない。継ぎ目の白いものは、一月前も、同じところにあった。縁が、丸い。粉ではなく、粒でもない。それ以上は、俺には、分からない。分からないものは、帳面に書かない。
書かないが、見た。見ていることに、ぱたりが気づいた。膝の上の手を、腕の内側へ回す。継ぎ目が、手の陰に入った。
「ぱたり」
あごが、上がる。いつもの返事である。返事の速さだけが、いつもより、少しだけ、遅かった。
「……継ぎ目の直しが、遅れる。来月だ」
あごは、それ以上、動かなかった。責める動きではない。ただ、動かなかった。
通路を、戻った。歩数を、数えながらである。二十まで数えて、次が、二十二である。二十一を、どこかに落とした。戻って拾う代わりに、数えるのをやめた。二本目の通路から岩机までの歩数を、俺は、今日まで、間違えたことがなかった。
◇
ドロテアは、鍋の火を落としながら、聞いた。
「で、どうするんだい。九灯」
「数えます」
「数えて、どうするんだい」
「数えてから、決めます」
「……あんたは、いつもそうだね」
いつもそうである。前の世界でも、そうだった。数えずに決めた企画は、ぜんぶ、途中で数字に追いつかれた。そういう企画を、俺はいくつも見たはずだが、いくつだったかは、出てこない。出てこないことは、今は、数に入れない。
紋を、諦めるか。来月、もう一度、紙を出すか。
出す紙は、今度も正しく書ける。正しく書いた紙が、正しく上がって、理由の欄を空にしたまま、下りてくる。空欄を、二枚にする。それだけである。来月もう一度、という手は、数えずに決めた企画の、いちばん多い型だった。同じ紙を、同じ手に、もう一度出す。数字は、それを待ってくれない。
今日まで、上は、俺の数字を読む相手だった。今日から、俺の手を止める相手でもある。読む相手に出す紙と、止める相手に出す紙は、たぶん、違う紙で、その違いを、俺はまだ、持っていない。
空欄と、九灯と、欠けた岩と、遅いあごと、昼に十四回止まった列を、卓の上に並べた。並べると、足りないものが、見えてくる。紋ではない。席でもない。席が空くのを待たずに、道で止まった列が、十四回。足りないのは、道である。
夜、帳面を開いた。
うしろの行を、探した。二本目の通路に、岩を並べ替えて席を作った日の行である。ピンの字で、残っていた。
——いわ、ならべかえ。て、じゅうはち。ひ、はんにち。
手が十八で、半日。岩を並べただけで、半日である。掘るのは、並べるより重い。手は、今、三十九ある。数える手と、図を持つ手と、鍋の手と、区画長を引いて、三十五。夜番を引いて、三十四。夜番の骨は、夜、ただ立っている。立っているだけの骨はうちにはいない、と十層への道で思った。それを、うちの通路で試す番である。
紋は、通路を組む。組んだ通路は、きしまない。
手は、通路を掘る。掘った通路は、きしむ。きしんでも、通る。
ヴォルクが、岩机の向こうから、俺を見ている。何も言わない。袖の奥の明かりが、一度だけ、小さく揺れる。
「ヴォルクさん」
「……はい」
「上は、見ていますね」
「見ています。……浮かれた区画から順に、と、階層長が言ったのは、脅しではありません。私は、それを」
言いかけて、止まった。
「……私も、一度」
袖が、手首まで、下りていた。その袖を、ヴォルクは、もう一方の手で、押さえた。押さえる必要のない袖である。
「……いえ。何でもありません」
聞かなかった。牛に訊かなかった問いを、本人にも、今日は訊かない。押さえた袖の、押さえ方だけを、覚えておく。
◇
「ピン」
「はい」
「取り置きの線を、消せ」
ピンは、数え棒を置いて、俺の顔を見る。骨の顔を見ても、何も分からないのに、見ている。
「……けす、と、きえます」
「消していい。九灯は、消えない。線だけ、消す」
「なにに、つかいますか」
「掘る」
ピンは、それ以上、聞かなかった。帳面を開いて、灯の欄の脇の、まっすぐで細い線の上に、数え棒の尻で、線を引く。一本。それから、もう一本。
二重線である。消した線は、消えない。消した、という印が、線の上に残る。残った印を、ピンは、しばらく見ていた。二重線の下に、次の行のための余白が、あいている。
「紋がないなら、手で掘る」
誰に言ったのでもない。帳面に言った。帳面は、返事をしない。
明日から、掘る。次の査定までの日を、指で折った。両手で二度折って、まだ、七つ余った。




