第三十八話 先に払う
ゲルズの帳場で、二日目の朝を迎えた。骨は眠らないが、帳場の火は落ちる。火が落ちているあいだ、俺は石の台の脇で、膝の骨を数えていた。千と六十で、数えるのをやめる。数えるのをやめても、膝は鳴る。
火が入ると、帳場の壁が見えた。棚に、帳面が並んでいる。古いものほど、薄い。いちばん奥の一冊は、うちの帳面と、同じくらいの厚みしかない。
配下の骨が二体、昨日と同じ場所に座り、昨日と同じ音で書き始めた。
「あの欄は、何ですか。灯の欄の隣の」
ゲルズは、斧の柄を布で拭きながら、こちらを見なかった。
「紋の費えだ」
紋の、費え。
「買った月に、減る。使った月に、また減る。……減るだけの欄に見えるだろう」
「見えます」
「四年前、運ぶ紋を買った。四灯だ。買った月は、四灯減った。翌月から、荷が速く回る。速く回ると、奥の区画まで客が届く。届いた客の数だけ、灯が増える。……月に、一灯と四分ほどだ」
「三月で、戻る」
「三月で戻った。四月目からは、ぜんぶ余りだ」
ゲルズは、そこで初めて、こちらを見る。
「先に払う、とはそういうことだ。払った分が、戻る。戻ったあとは、払わなかった奴より、前にいる」
台の脇で、書いていた骨の一体が、手を止めた。
「……贅沢もしないで、何を、と、あのときは思いました」
小さな声だった。ゲルズは、咎めなかった。
「思っただろう。ここの連中は、みな思った。四灯あれば、骨が二体増える。二体増えれば、その月は、楽になる。……楽になる月と、前にいる月は、違う月だ」
◇
「整える紋、というのは」
「通路を、組む。岩を掘るのではなく、組む。組んだ通路は、きしまん。狭い区画が、広く使えるようになる。……十灯だ」
席が増える。
そう思った瞬間に、腹の中で、まちきれの九が、ひとつ減った。減ったのは腹の中だけである。まだ、何も払っていない。
十灯。余りは、十三灯一分。払える。
払えば、残りは三灯一分。二本目の通路のきしみと、観る席の欠けた岩を本直しするには、繕いの一灯に足しても、まだ一灯、届かない。今月のきしみを、今月は直しきれない。欠けた岩の席は、来月まで、欠けたままになる。客が一人、座れない席が、ひとつ。
席を増やすために、今月の席を、ひとつ欠けたままにする。数える骨のやることではない、と、前の世界の俺なら言った。
「伝える紋は」
「十二灯。おまえの区画では、まだ高い。区画がひとつなら、声が届く。届く声を、灯で買う必要はない」
「見る紋は」
「十五灯。おまえには、要らん」
「整える紋、十灯を——取り置きたい。申請の紙を、書きます」
「取り置きは、漏れる。月に、一割だ。置いた十灯は、翌月には九灯になっている。認可が遅れれば、遅れた月の分だけ、漏れる」
「認可は、どのくらいで」
「知らん。上が決める」
昨日と同じ答えである。二度聞くと、それが本当の答えだと分かる。
「書きます」
ゲルズは、拭き終わった斧を、壁に立てかける。立てかける音が、帳場に一つだけ、響いた。
「数える骨」
「はい」
「おまえは軟弱だが、数は正しい。……先に払う奴は、少ない」
それだけだった。褒めたのかどうかは、分からない。分からないまま、俺は、首の骨を一度、深く下げた。下げたまま、しばらく、上げられなかった。下げる角度は、自分で決めた。
◇
帰りの階段は、上りである。
十層から九層へ。膝は、下りより鳴った。鳴る回数を、また数えた。数えながら、軟弱、の一語と、数は正しい、の一語を、同じ重さで持ち帰ることにした。層をひとつ上がるたびに、道の幅が狭くなり、通る者の背が低くなり、通る者の目が、俺を見るようになる。
三層に着いたとき、匂いがした。
匂いというのは、正しくないかもしれない。骨に鼻はない。だが、うちの裏市場の坂の、鍋の火と、岩の湿りと、たいまつの煤の混ざったものが、階段の途中で、先に来た。それを匂いと呼ばずに、何と呼ぶのか、俺は知らない。
浅い。浅くて、狭くて、きしむ。十層の帳場の火より暗く、十層の通路より低い天井の下で、三十九体が今日も演目を回している場所である。
うちである。
◇
「代行が、帰った」
三ノ三の入口で、転び教室の一体が、それだけ言って、走っていく。走っていった先で、同じ言葉が、卓から卓へ回る音がした。半日下って、一晩と、半日上っただけである。それだけの留守が、うちでは、回る言葉になる。
ドロテアは、鍋の前にいた。
「で、どうだったんだい。牛は」
「紋を、申請します。整える紋。十灯。認可が下りるまで、取り置いて、使いません」
ドロテアは、玉じゃくしを持ったまま、しばらく黙った。使わない、という言葉を、椀の数に直しているような間だった。
「……あとで、返るので」
「三月」ドロテアは、指を三本立てて、見た。「三月のあいだ、あの欠けた岩は、どうなるんだい」
「欠けたままです。今月は、直しきれません」
ドロテアは、玉じゃくしを鍋に戻した。戻した手が、今度は、鍋から離れなかった。
「あんまり、先のことばっかり見てると、足元の椀が冷めるよ」
「冷めた椀も、数えます」
「……あんた、ほんとに変わってるね」
うちの連中には、夜に話した。使わない灯がある。使わない理由がある。理由は、あとで返るからだ。
「なんで、使わないんですか」
受けの一体が、聞いた。
「使うんだ。先に、払う。それだけの違いだ」
「じゅっとうって……なんにんまえ、ですか」
転び教室の一体である。十灯を、飯に直している。ゲルズの帳場で、配下の骨が言ったのと、同じ計算だ。上でも下でも、同じ壁に当たる。
「じゃあ、あの、きしむところは。来月ですか」
「来月だ」
それしか、答えられなかった。誰も、分かった顔をしない。分からない顔で、それでも、誰も帳面を疑わなかった。帳面のほうが、俺より信用がある。それでいい。
◇
申請の紙は、その夜のうちに書いた。
代行の名で出す紙は、これが二枚目である。一枚目は、配分の紙だった。
帰ってすぐ、空いていた余りの欄を、埋めた。「とりおき、じゅうとう」。残りの三灯一分は、繕いに足した。足しても、本直しには、一灯届かない。届かない数字を、そのまま書いた。
ヴォルクは、紙を受け取って、読んだ。読んでから、印を持つ手が、紙の端で、一拍、待った。この前と同じ一拍である。それから、押した。何も、言わなかった。
申請の紙は、階層長のフォスカを経由して、上へ行く。詰め所まで、境の通路をふたつ越える。行って、渡す。
「上に上げる。それだけだ」
フォスカは、紙を受け取って、それだけ言った。読まなかった。読まない紙を、上に上げる。それが、この階層長のやり方である。
「いつ、下りますか」
「下りるかどうかを、私は決めん。私は、上げるだけだ」
◇
帰って、壁際に立った。
「ただいま」
鳴らなかった。
窪みの中の白い骨は、いつもの角度で、いつものように立っている。
今日は、鳴らない日らしい。鳴らない日があることも、数えておく。帳面は、ピンの膝の上に、開いている。
「とりおき、じゅうとう」
ピンが、読み上げた。読み上げてから、灯の欄の脇に、線を一本、引いた。
漏れは、月が替わるときに来る。線を引いた今日から、月が替わる日までを、数え始めた。
線は、まっすぐで、細い。




