第三十七話 第十層の牛
空欄の紙は、上に出せない。出せない紙を、俺は二日、三ノ三の岩机に置いたままにした。今日じゅうに決める、と言った今日は、二日前に終わっている。
「紋のことなら」と、ドロテアは椀を洗いながら言った。「十層の牛だね。ゲルズっていう。あの人は、持ってる。持ってて、口もきく。上の連中で、口をきいてくれるのは、あの人くらいさ」
「十層」
「裏回りを、下りていけば着くよ。骨の足で、半日。……カタリ。あんた、区画を空けるのかい」
「代行の名で、紙を出しに行きます。訊きに行くとは、書きません」
帳面は、ピンに預けた。俺のいない半日と一晩の分は、ピンの字で残る。それで、いい。
ヴォルクは、何も言わなかった。言わないまま、印を持たない手で、戸口を指した。行け、の形である。
◇
裏回りの道は、区画と区画をつなぐだけではなかった。層と層も、裏でつながっている。
四層への下り口は、うちの裏市場の坂の、さらに奥にある。骨の足で、階段を数えた。百二十で、四層。四層の裏回りは、うちより広く、通る骨の背が、少し高い。
五層。六層。層を一つ下りるたびに、道の幅が広がり、道を通る者の数が増え、通る者の目が、俺を見なくなる。浅い層の骨は、深い層では、数に入らない。
膝の骨が、きしみ始めたのは、六層の階段だった。骨は疲れない、と思っていた。疲れないのではなく、疲れを数える場所がないだけだ。膝が鳴る回数を数えることにした。数えられるものになれば、疲れは、ただの数字である。六層から七層までで、二百と四十。
数えながら、岩机の上の空欄も、数に入れておいた。二日。空欄の二日は、膝の二百より、重い。
七層の裏回りで、動く鎧が、道の脇に立っていた。中身はない。立っているだけである。うちには、立っているだけのものがない。うちの骨は、全員、何かをしている。壁際のぱたりでさえ、あごで採点をしている。
九層で、道が岩から石組みに変わった。組んだ者がいるのである。うちの通路は、岩を掘っただけだ。その二つのあいだに、六つの層と、半日と、膝の千回がある。
十層の裏回りは、うちの表の通路より広かった。天井が高く、たいまつではなく、壁に埋めた石が光っている。灯を、明かりに使っている。灯を明かりに使う区画を、俺は初めて見た。
首の骨が、痛くなるほど、上を見た。上を見る首の角度で、自分の区画がどれだけ低いところにあるかが、分かる。分かることは、数えなくていい。
◇
「浅層の骨が、何の用だ」
声は、上から来た。
立っていたのは、牛である。牛の頭に、人の体。黒い毛。肩の高さが、うちの通路の天井と同じくらいある。片方の角に、金色の環が、はまっていた。装飾ではない。はめた、というより、角がその環を通って伸びた、という形である。
腰に、使い込んだ斧。飾りは、ない。
声の低さが、床から、膝の骨に来た。数える前に、体が先に受け取った。
ゲルズ。ドロテアの言った名を、口の中で一度だけ数えた。
「三ノ三の代行です。骨番一一四。……紋のことを、伺いに来ました」
「三ノ三」
牛は、俺を見下ろした。見下ろす角度が、深い。うちの区画の入口で、客が骨を見下ろす角度の、倍はある。
「数える骨の区画か。客に転んで見せて、灯を稼ぐ区画だ。……軟弱だな」
軟弱。
それだけである。
「十七灯一分。二区画。頭数三十九。第三層で、二番。読まない項で、一番」
正確である。うちの査定の写しを、俺より正確に言う。
「……ご存じでしたか」
「上の帳面は、下の帳面をぜんぶ束ねている。束ねた帳面は、私のところにも回る。軟弱だが、数は本物だ。本物の数は、読む」
牛は、それ以上、三ノ三の話をしなかった。話をしないまま、道の先へ歩き出した。ついて来い、とは言わない。ついて行かなければ、話は終わる。俺は、ついて行った。
ゲルズの一歩は、俺の四歩である。数えるまでもなく、そうだった。
◇
牛の区画には、帳場があった。
うちの帳面は、ピンの膝の上にある。牛の帳面は、石の台の上に、三冊、開いたまま置いてあった。三冊とも、厚みが、うちの一年ぶんはある。三冊の表には、八、九、十、と層の数が彫ってある。一冊が一層で、三冊で三層。この牛が束ねている幅が、石の台の上に、そのまま乗っていた。
配下の骨が二体、台の脇で、何かを書いている。書く音が、揃っている。何年書けば揃うのかは、訊かなかった。
目に入った帳面の行には、下りてきた者の数と、追い返した数が、日ごとに並んでいた。うちの帳面にない行である。
「紋とは、何です」
俺は、聞いた。牛は、答えた。
「台帳に、刻む。灯で買う。使うたびに、灯を食う。それだけだ」
「何が、できるように」
「運ぶ。伝える。見る。整える。……斬ったり、守ったりは、できん。そういうものは、紋にならん。斬るのは、斧の仕事だ」
牛は、それだけ言って、黙る。聞き方を、試されている。
「うちの区画長の手首に、印があります。焼き付けたような形が、ひとつ」
「見たのか」
「一度だけ」
「なら、それは紋だ。使われていない紋は、新しいままだ」
使われていない。袖の奥で、古いのに新しいまま。
あの印が、これだ。
数えた。訊きそこねが二回、答えが一つ。差し引き、一つ、余っている。余った一つの分だけ、帳場の書く音が、しばらく遠かった。
答えが出たついでに、次の疑問が、隣に立つ。区画長は、紋を持っている。持っていて、使っていない。灯が回らなかったのか、回さなかったのか。それは、本人に訊くことで、牛に訊くことではない。聞く順番が、違う。
順番を待つあいだに、自分の分を訊く。そう決めて、首の骨を、もう一度、上に向けた。牛の目は、俺が決めるまで、動かなかった。待っていたのかどうかは、牛にしか分からない。
「私は、灯が余っています。十三灯一分。減らないだけのものに、注ぎたくない。先に払って、あとで返る先を——」
牛の目が、初めて、動いた。
「先に払う、だと」
「……はい」
「その言葉を、浅層で聞くとはな」
牛は、台の上の帳面を、一冊、こちらへ回した。開いたままの一枚に、灯の欄があった。灯の欄の隣に、もう一つ、欄がある。うちの帳面にはない欄である。何の欄かは、読めない。読めないが、数字は読める。減る月と、増える月が、交互に並んでいた。
「先に払ったことのある奴は、少ない。浅層には、いない。……私は、三度、払った。三度とも、斬らないものにだ。斧を持つ者が、斬らないものに払う。それを、下の連中は、笑った」
三度。角の環が、たいまつではない光を受けて、鈍く光った。
「紋は、認可がいる。申請の紙を、上に出す。上が、判を押す。押すかどうかは、上が決める」
「基準は」
「知らん。知っているのは、上だけだ」
牛は、帳面を閉じる。閉じる音が、うちの帳面の十倍ある。
「訊きたいことの残りは、明日までに数えておけ。今日は、ここまでだ」
それから、牛は、言った。
「浅層の、客に転んで見せる区画の、代行の骨が、紋を申請する。……上が、おまえに紋を許すと思うか」
答えなかった。膝の数を数え直そうとして、数字が出てこなかった。答えを、持っていなかった。
牛の角の環だけが、帳場の光の中で、金色に、動かずにあった。




