第三十六話 灯の使い道
配分の紙を、自分の字で書くのは初めてである。
紙は一枚。上に「第三層第三区画」、その下に今月の数字。十七灯一分。
先月の紙まで、この数字を書くのはヴォルクの仕事で、俺は横で見ているだけだった。今月から、書くのは俺で、ヴォルクは印を押すだけになる。紙のほうを実務に合わせる、と言ったのは本人である。
書き出しの字が、少し大きくなった。前の世界で、判をもらう紙を初めて自分の名で回した朝も、たぶん同じ大きさだった。そこまでは、思い出せる。
「結界の維持に、三灯。……これは、動かせないんですよね」
ヴォルクは、卓の向こうで、いつもの声で言った。
「動かせません。減らせば、薄くなります。薄くなった結界は、上が見ます」
袖は、手首まで、きちんと下りている。
「通路二本の繕いに、一灯。床のきしみと、岩の観る席の欠け。これで、四灯」
書く。四灯。残りが、十三灯一分。
前の世界なら、ここからが仕事である。残った金を、何に使えば、来月もっと増えるか。先に払って、あとで返ってくる場所を探す。それが俺の職だった。少なくとも、そう思っている。
ペン先が、止まった。
払う先が、ない。
昨日は、比べる相手がいなかった。今日は、払う先がない。足りないのは、いつも、俺の側ではない。
「ヴォルクさん。先月までの余りは、何に」
「結界を、厚くしていました。紙の上で、いちばん文句の出ない使い方です」
「厚くすると、何か、増えますか」
「増えません。減らないだけです」
減らないだけ。十三灯を、減らないだけのものに注ぐ。前の世界の俺なら、机を叩いている。この世界の俺は、ペンを持ったまま、机の木目を数える。
「……余りの欄、いったん、空けておきます」
「空けた紙は、上に出せませんよ」
「出す前に、埋めます。今日中に」
ヴォルクは、それ以上、言わなかった。印を持つ手が、紙の端で一拍だけ待って、下りた。
◇
灯の普通の使い方を、俺は見たことがなかった。
見に行く先は、隣である。裏回りの道を、境まで歩く。三ノ二の側の、岩の張り出しの陰に立てば、向こうの通路が見える。オルバスの区画は、うちより広い。通路が、三本あって、三本とも、きしまない。
隣の一位がうちを見に来た日の、逆である。あのときは向こうが岩陰に立った。今日は、俺が立つ。見に来た側が何を数えているかは、見られる側には分からない。それは、こちらが見られる側だった日に、覚えた。
月の頭は、どの区画も召喚をやる。灯が来た直後だからだ、とドロテアが言っていた。うちは、やったことがない。
光は、その真ん中の通路の奥で、始まった。
緑ではない。緑は、オルバスの色である。この光は、白に近い。床の一点から立ち上がって、人の背丈ほどで止まり、しばらく震えて、消えた。消えたあとに、骨が一体、立っていた。
召喚である。
灯が、骨になった。それだけのことが、目の前で起きた。
立った骨は、自分の手を一度見て、それから、壁際の列に歩いていく。誰も、迎えに出ない。番号を呼ぶ声も、しない。生まれた骨が、生まれた場所から、持ち場まで、自分で歩く。それが、隣の作法である。うちなら、あそこでピンが番号を読む。読まれた骨が、音を返す。それだけの差だ。
二体目。三体目。光が立つたびに、数える。四体目で、光は止まった。
四体で、いくら使ったのかは、分からない。分からないが、隣の月の灯が二十一灯六分で、四十体を回していることは知っている。増えた四体は、来月の帳面で、四十四になる。
隣の一位は、灯を骨に換えている。骨が増えれば、演目が増える。演目が増えれば、数字が増える。分かりやすい。分かりやすすぎて、腹が立つほどである。
うちで同じことをすれば、どうなるか。骨が四体増える。通路は二本のまま。同時に回せる演目は五つのまま。増えた四体は、壁際で、順番を待つ。
まちきれの九は、九のままだ。増えるのは、待つ骨の数だけになる。
「……違うな」
声に出して、境から離れた。増やす場所が、違う。骨ではない。骨の立つ場所のほうだ。場所を増やすのに、灯は使えるのか。それを、俺はまだ、誰にも聞いていない。
◇
裏市場の坂を下りると、飯の匂いが先に来る。
マム・グレテの店は、月のあたまの夕方で、満員だった。三十九体ぶんの木札が、壁に並んでいる。
先月までは、二十一枚と、枠の外の十八枚に分かれていた。枠の外の十八枚は、付けが溜まるばかりで、精算の日に線を引けない札である。この前の給料日に、初めて三十九枚ぜんぶに線が引かれた。今月から、ぜんぶ同じ列に並ぶ。
旧三ノ四から来た骨が、自分の札の前で、しばらく動かなかった。線が引かれた札を、初めて見る顔である。骨に顔はないが、あれは、そういう顔だ。
その骨が、札を裏返して、表に戻した。線は、裏には引かれていない。表にだけ、引いてある。グレテが鍋の向こうから「引いたよ」とだけ言って、骨は、札の前を離れた。
給料はグリムで来る。灯ではない。それでも、三十九枚ぜんぶに線が引かれた月の、その線を、俺は今日、初めて見た。
札の列の前で、俺は、今日の紙を読んだ。代行の仕事である。
「結界に、三灯。通路の繕いに、一灯。残りは——今日じゅうに、決めます」
「のこりは、なにに」と、誰かが聞いた。
答えなかった。答えられなかったので、答えなかった。骨たちは、それ以上聞かない。聞かないまま、椀に戻った。聞かれなかった質問だけが、俺の側に残った。
「ほら、座んな。一杯一グリム」
「いただきます」
椀を受け取って、ドロテアの隣に座る。ドロテアは、もう二杯目である。
「聞いていいですか。灯で、通路は増やせますか」
「増やす?」ドロテアは椀から顔を上げた。「灯ってのは、減らないようにするもんだろ」
「では、余ったら、何に使います」
「あたしにそんなもん、回ってこないよ」
「回ってきたら」
「……酒だね。あとは、椀を大きくする」
「使い切ったら、なくなりますよね」
「なくなるよ。灯ってのは、そういうもんだろ」
「先に払って、あとで、増えて返ってくるような使い方は」
ドロテアは、椀を持ったまま、俺を見た。骨を見る目でも、値札を見る目でもない。変な骨を見る目である。
「先に払う? 払ったら、なくなるじゃないか」
「なくなります。なくなった分より、多く戻る先に、払うんです」
「戻ってくるって、どこから」
「それを、探しています」
ドロテアは、しばらく考えた。考えて、椀を口に運んで、飲んだ。
「あんた、前の世界で、ずいぶん変な仕事をしてたんだね」
「よく言われました」
言ってから、誰に言われたのかを、思い出そうとした。顔は、出てこない。出てこなかったことは、椀の湯気と一緒に、流した。
グレテが、鍋の向こうから、口を挟んだ。
「貯めときゃいいって顔じゃないね。……漏れるよ、灯は。置いとくと、減る。だから、みんな、使い切る」
漏れる。減る。使い切る。この世界の金の常識は、三つの言葉でできている。先に払う、という四つ目の言葉が、どこにも見当たらない。
なければ、作るしかない。だが、作るには、払う先が要る。払う先を、俺は知らない。
「上の連中は」
ドロテアが、三杯目を頼みながら言った。
「紋に、使うらしいよ。余った灯」
「紋?」
「知らないよ。上の話だ。あたしらには、回ってこない」
紋。
俺は、椀を置いた。
ヴォルクの袖の奥を、思い出していた。署名のとき、一度だけ落ちた袖。その奥の、手首の内側に、焼き付けたような形があった。見えたのは一度きりで、もう一度見たときは、何も見えなかった。訊きそこねたのが、二回。
三度目は、こちらから訊く。
今日の配分の紙は、印を押す手が、紙の端で一拍待った。あの一拍のあいだ、袖の奥は、どうだったか。
思い出せる。袖は、下りたままだった。下りた袖の奥で、いつもの明かりが、いつもより、手首の側に寄っていた。
余りの欄は、まだ、あいている。




