第三十二話 代行
査定から二日あとの昼、俺は岩机の前に呼ばれた。
ヴォルクの岩机には、紙が一枚だけ載っていた。呼ばれる理由に心当たりが多すぎて、どれで叱られるのかをみちみち数えてきた。隣の写しを読み込みすぎている件も、たぶんその中に入っている。だが、机の上の紙は、叱る側の顔をしていなかった。
「この区画は、いつから、二つ分の数字を出すようになった——と、階層長に訊かれました」
査定の日の、あの問いである。ヴォルクは答えなかった。答えずに、二日、この紙を書いていたらしい。
「実務と、紙が、ずれています」と、ヴォルクは言った。「三ノ三と、旧三ノ四。二区画ぶんの実務を、あなたが回している。紙の上では、私が一人で回していることになっている。……ずれた紙は、いつか、区画を潰します」
紙は、正しいまま、区画を潰せる——いつかの夜の台詞の、続きだった。
「だから、紙のほうを、実務に合わせます」
紙が、こちらへ滑ってきた。ヴォルクの指が、紙の端に置かれたまま、一拍だけ残った。それから、離れた。
願い出のたぐいではない。届け出の様式である。区画長代行。三ノ三と、旧三ノ四の運営実務を、以下の者に委ねる。——つまり、あなたに任せます、の紙である。
「……私の名で出す紙は、これで二枚目です」と、ヴォルクは言った。「一枚目より、ずっと軽い。あなたの数字が、先に全部、証明してくれているので」
引き取りの申し出の紙が、一枚目である。持ってみた。軽くは、なかった。
断る理由を、俺はいちおう、数えてみた。一つだけ、指が止まった。——紙の上で、あの窪みが、俺の預かりになる。答えは出さないまま、俺は口を開いた。
「代行の給金は」
「出ません」
「了解です。帳面に、ゼロと書いておきます」
ゼロも書くのがうちの帳面である。ゼロは、積み上がらない。積み上がらないものは、誰も数えに来ない。ヴォルクの袖の奥で、明かりがひとつ、小さく揺れた。笑った、に近い揺れ方だった。
◇
署名は、その場で行われた。
筆が紙をこする音が、していた。ヴォルクが手を返したとき、外套の袖が、手の甲まで滑り落ちた。
袖の奥、手首の内側に、焼き付けたような形がひとつあった。台帳の印章ではない。区画長の印でもない。古いのに新しいままの、一度も使われた形跡のない印だった。袖の長い人だと、ずっと思っていた。
音が、聞こえなくなっていた。
「ヴォルクさん、その——」
袖が、戻った。訊く前に、署名が終わっていた。
「……これで、あなたは代行です」
いつもの声だった。訊きそこねたものが、ひとつ増えた。
◇
その日のうちに、台帳の写しが回ってきた。
第三層第三区画、区画長代行——骨番一一四。
役職に就くと、台帳に職名が記される。名を持つのは区画長以上、という決まりの、入り口に立ったわけである。だが台帳の行を見て、俺は少し笑った。職名は付いた。名前の欄は、空のままだ。カタリ、の三文字は、うちの帳面と、骨たちの声の中にしかない。
名前は、下から生える。役は、上から降りてくる。
そして旧三ノ四の行は、台帳ではまだ、潰れた区画のままだった。紙は、いつも一歩遅れて、追いついてくる。
役が降りてくると、仕事もひとつ降りてくる。月の終わりの報告である。いままでヴォルクが書いていた紙を、これからは俺が書く。
「書き方は、教えます」と、ヴォルクは言った。「かんどころは、ひとつだけです。……上に読ませる紙には、読ませたい順に、数字を並べること」
うちの帳面は、起きた順に書く。上への紙は、読ませたい順に並べる。損耗を先に見せるか、客の伸びを先に見せるかで、読む側の顔がひとつ変わる、というやつだ。同じ数字でも、並べ方で別の顔になる。——隙間の広い場所には、だいたい、何かが落ちている。
◇
昼、代行の最初の仕事を決めた。
「二本目の通路の直し。仮のままになっている。本直しにする」
ピンが帳面を開く。費えの欄に、初めて、俺の署名で数字が入る。骨番一一四、と書いて、その横に、小さくカタリと添えた。台帳に載らない三文字を、うちの帳面には載せた。
「ほんなおし……いつ、やりますか」
「祝いの、前に済ませる。きしむ床の上で、祭りはやらない」
「……きろく、します」
二本目の通路では、ぱたりの教室が稽古の最中だった。指の欠けた手が、転ぶ角度を示している。本直しの日は、教室を休みにしてやることにした。
昼のうちに、総員へはひとことだけ伝えた。置き場所の紙が変わった。やることは、変わらない。それだけである。列の解散ぎわに、左腕の番号が深くかすれた骨が、一体だけ残って、こっちを見ていた。
「……この、くかくの、ひと、に、なったんですか」
「役が付いただけだ。前から、ここの骨だよ。——お前もな」
かすれた番号の骨は、自分の左腕を、指でひとつなぞった。数字は、もう読めない。それでも、なぞる場所は覚えているらしかった。うなずいて、持ち場へ戻っていった。
夕方、隣から言づけが届いた。ヴォルク経由である。
「『帳簿が、増えるな』——以上です」
祝辞である。たぶん。この人の褒め言葉も、仕立てが悪い。三百年の帳簿の人が、増えた帳簿の心配を先にする。俺は返事を頼んだ。こちらも短くした。
「増えたぶんも、止まりません——と」
ヴォルクが、言づけを書き取って、少しだけ間を置いた。書き取る手の、袖のあたりを、俺は一度だけ見た。何も、見えなかった。
「……売り言葉に、買い言葉では」
「商売の言葉です。うちは店なので」
ついでに、あさっての宴に来るかどうかも、訊いてもらうことにした。ヴォルクは書き取る手を止めずに言った。
「あの方は、宴には、出ません。……たぶん」
◇
夕暮れの壁際で、いつもの報告をした。
「代行に、なりました。数字は、きのうのとおり。……この窪みも、紙の上では、俺の預かりになったそうです。いままでも、そうでしたが」
返事は、なかった。鳴らない日も、ある。ただ、白い骨の傾きが、指一本ぶん、こちらに寄っていた。いつもの角度では、なかった。気のせいは、帳面に書かない。書かないが、覚えておく。
◇
夜、飯場の火の前で、祝いの相談をした。
「日取りは、いつにするんだい」と、ドロテアが言った。
「あさっての夜だ」
「なら、鍋はうちのと、グレテの大鍋を借りるよ。あの人、腕が鳴るってさ。人間を笑わせた骨が、今度は役付きだってね」
麓の店まで、もう届いているらしい。俺の数字は、俺より足が速い。
「全員でやる。骨も、ゴブリンも、ゾンビも、区画長も。夜番の当番も、順繰りで交代して、全員が一度は鍋の前に座れるようにする」
「あんたが決めると、宴会も時間割になるんだね」と、ドロテアが笑った。
時間割で悪いか。全員、の二文字を、紙の上だけの言葉にしないためには、当番表がいる。ピンが横で、もう書き始めている。
祝いは、あさっての夜。全員でやる。——全員が、何体になったのかを、俺は指を折って数えた。




