第三十一話 一位の背中
月末の朝、三ノ三。査定の日である。
帳面のほうは、とっくに祭りだった。
あの三日のあと、客は減らなかった。減るどころか、器から器へこぼれた数字が、麓からぞろぞろ坂を登ってきた。ピンの月次のまとめを、俺は昨夜のうちに聞いている。
「こんげつ。きた、きゃく……いちばん、おおいひ……にじゅうよん」
十九を抜いた日、うちは約束どおり祭りをやった。ドロテアが鍋のお代わりを許し、ぱたりが頼まれてもいない手本を三つ出し、教室の生徒がそろって真似て、そろって転んだ。それで終わりの、安い祭りである。安いが、全員が出てきた。そして二十四は、その祭りのあとに出た。
「まちきれなかった、おきゃく……もどって、きました。いちばん、おおいひ……なな」
ゼロを続けてきた行に、また数字が付いた。喜んでいい数字ではない。店の外に列ができるというのは、店の中身より先に、噂が席に着いているということだ。なな、と付いた日は、席の側が、もう追いついていない。
「にほんめの、つうろ……あけました。いちど、くずれかけて……ぱたりが、てほん、いっぱつで、なおしました」
開けるか迷った、と帳面に書いた二本目である。開けてみれば、一度きしんだ。きしんだ日の分も、帳面は隠さない。そして、きしみの直しは、まだ仮のままである。
語られている、というのは、こういうことだった。観る席には、深いところの顔つきの客が、毎日いる。誰も数えてくれと頼んでいないのに、俺の数字は、外で勝手に育っている。
だから今月、帳面に行をひとつ足した。
「はなしを、きいて、きた、おきゃく……こんげつ、よんじゅういち」
来た客に、ピンが聞ける分だけ聞く。聞けない客のほうが多いから、粗い数字である。粗いことは、行の頭に印をつけて、帳面が自分で白状している。それでも、ないよりいい。外で育っている俺の数字を、内側からも数え始める。書き留める行を持っていない、と言ったのは、月のあたまの俺だ。持っていないなら、作る。
◇
昼、石の翼の音が来た。
階層長フォスカ。片角の欠けた石の顔で、査定簿を小脇に、いつもの巡回である。ヴォルクが岩机の前に立ち、俺とピンは、その少し後ろに並んだ。
読み上げが、始まった。
「三ノ三。挑戦者の数——増。大きく、増」
止まらない。
「撃退の率、相変わらず。客足の続き具合、増」
止まらない。査定簿をめくる石の指が、いつもより速い。
「第四項——生還譚の流通」
来た、と思った。読まない項に名が付くのは、大きく動いた月だけだ。
「大きく、動いた。……第三層、一位」
横で、ピンが数え棒を、両手で握り直した。音は、立たなかった。
一位。その二文字を、フォスカは数字の並びでも読むように、平らに読んだ。平らに読まれたぶんだけ、あばらの内側で、音がした。俺の店が何かで一番になったのは、これが最初である。二度あった生まれを、両方入れても。
「下から上がってくる話が」と、フォスカは言った。「今月は、おまえの区画の話ばかりだ。深いところの帳場まで、届いている」
いつかの詰め所で、層外の色の厚い束を前に、この人が言った台詞の続きだった。あのとき束の中身は開かれなかった。いまは、名指しで読まれている。
横で、ヴォルクの袖の奥の淡い明かりが、ゆっくり、天井をなぞった。
「総合。十七灯と、一分。来月より適用」
十七灯と、一分。先月が八灯二分だから、倍を越えて、まだ余る。
「階層順位。二位。……一位との差は、縮んだ」
品目でてっぺん、店の総合では、まだ二番目。勘定が二本あるだけで、どちらも本当である。
フォスカは査定簿を閉じた。
「読み上げる前に、読み違いかと、三度見た。三度見て、同じだった。……おまえの区画の数字は、読むのに慣れたつもりだったがな」
それから、石の目が、ヴォルクのほうへ動いた。
「……この区画は、いつから、二つ分の数字を出すようになった」
ヴォルクは答えず、署名を済ませた受領の書き付けを差し出した。頼まれない数字も、書き添えてある。フォスカはそれを受け取り、去り際に、一言だけ足した。
「一位は、結構だ。だが、二本目の通路がきしんだ件も、報告には載っている。——浮かれた区画から順に消える、と言ったのを、忘れるな」
「肝に銘じます」
「私は、読み上げただけだからな」
いつもの逃げ口上を、いつもより少しだけゆっくり言って、石の翼は次の区画へ飛んでいった。
◇
夕方は、給料日である。
「給料日だよ! 並びな!」
ドロテアの声で、裏の広場に列ができる。頭数、三十九。骨も、ゴブリンも、ゾンビも、みな込みの三十九である。頭数だけなら、もう小さな村だ。鍋の匂いが、いつもより濃い。
「じゅうしちとう、いちぶん、って、どのくらいだい」と、誰かが訊いた。
「先月のぜんぶに、先月のぜんぶを、もういっこ。それでもまだ、お釣りがくる数だね」と、ドロテアが翻訳した。「……お釣りは、そんなに多くないけどね。あんたたち、食いっぱぐれの心配は、当分しなくていいよ」
列のどこかで、指が地面を、とん、とつついた。もっかいである。それが隣へ移って、また隣へ移って、列の端まで、つつく音が続いた。拍手というものを、うちの連中は知らない。
俺は列の後ろで、それを数えずに聞いていた。数えなくても、いい音というものがある。気がつくと、拍に合わせて、俺の指が動いていた。数えていたのではない。……数えていなかったと、思いたい。
「祭りは」と、ピンが横で訊いた。「……きょうも、やりますか」
「やる。抜いた月も、祭りだ」
「……きろく、します。まつり、ふたつめ」
祭りの数を数える行が、また増えるらしい。うちの帳面は、こういう行から太っていく。
ただ、ひとつだけ、祭りの外に置いてある勘定がある。十七灯一分の仕入れに、俺の三日が入っている。安かったのか、高かったのか——数える行は、作らないことに決めた。知らないものは書かない、が、うちの決まりである。知っているのに書かない行も、あるらしい。
◇
夜、ヴォルク経由で、隣の写しが届いた。
相互監視の約束の、月に一度の紙である。オルバスの区画、二十一灯六分。先月から、伸びている。
差し引き、四灯と五分。
先月、十二灯と八分あった差である。指を折って、俺は数え直した。折れた。何度折っても、四灯と五分だった。
写しの余白に、細い字が一行、書き足してあった。磨かれた骨のような、癖のない字である。
——語られたな、数える骨。私の行は、止まらんぞ。
その一行の下に、一度書きかけて、消した跡があった。何を書きかけたのかは、読めない。
止まらないでもらいたい。抜く相手が止まっていたら、抜いた数字に値が付かない。俺は写しを畳んで、ピンの帳面の、一位の行の隣に挟んだ。
うちの写しも、同じ夜に隣へ渡っている。余白に何か書き返すかは、少し考えて、やめた。十七灯一分。数字だけで、足りる。
四灯と五分。あの夜、裏回りの道の向こうにいた三百年に、手の届く数字が出た。
写しの紙に、においなど、付いていない。それでも——
一位の背中に、初めて、においがした。




