第三十話 帳面が、三日を語る
音で、目が覚めた。
朝の三ノ三、壁際である。散ったはずの体が、ひとつにつながって、起きられる形に戻っている。何日目の朝なのかは、分からない。あとで、帳面に訊くことになる。
最初に聞いたのは、歌だった。裏の飯場から、鍋の火と一緒に流れてくる、いつもの鼻歌である。
やんだはずの歌が、鳴っている。ということは、店は開いている。
体を起こす前に、いつもの仕事をした。指折りの棚おろし。名前——カタリ。ある。歳——三十七。ある。仕事——
仕事、のところで、指が一本ぶん、空を折った。
前は、何かを作っていた。作る側だった、とは思う。
……何だったんだろうな、俺は。
三本目を折ろうとして、折る先が、見当たらなかった。見当たらないものを、帳面のどこに書けばいいのか、俺はまだ知らない。知らないものは、書かない。それがうちの決まりである。
体を数えた。あばら、七。七本目は、床のどこかから、ちゃんと帰ってきたらしい。左腕も、肩から先まで、ある。散らばった順は覚えていないのに、つながる順は間違えない。骨というのは、俺より几帳面である。
起き上がって、気づいた。ここは壁際の、窪みのすぐ隣だ。
前を塞ぐ、と言った骨が、そのあいだずっと、この人の隣に寝かされていた。順番が、逆である。
◇
表に出ると、店が動いていた。
教室の列で、生徒が転ぶ。壁際側の岩の上で、採点のあごが動く。列の端に、あの新入りがいた。窪みの縁を握っていた手で、いま、転びの構えを取っている。鍋の匂いは通路まで届いて、観る席のほうには、もう椀を持った客がいる。
岩の並びも、少しだけ変わっていた。受けの立ち位置に、白い線が一本、引き足されている。観る席の岩が、一つ増えている。俺の知らない日々が、俺の知っている店の上に、薄く積もっていた。
誰も、俺を見ていない。
……いい店である。
小さい足音が、駆けてきた。ピンである。耳に数え棒。肩に帳面袋。いつもの装備で、いつもの岩陰から、まっすぐに。
俺の前で止まって、帳面を両手で開いた。
「かたります。みっかぶん、です」
三日か。語ってくれ、と俺は言った。
「いちにちめ。きた、きゃく……なな。じょうれん、ばかり。あけたのを、たしかめに、きました」
開けたのを、確かめに。再開の初日に来る客というのは、品ではなく、店を見に来る。
「ふつかめ。きた、きゃく……じゅうさん。しらない、かおが、ふえました。はなしを、きいた、と」
「それから……ひとつ、まよいました。ふつかめ、きゃくが、こんで……にほんめの、つうろ、あけるか。……あけません、でした」
開けないで、合っている。二本目は、まだ品が足りない。迷った、という一行が帳面にあることのほうが、開けなかったことより、値打ちがある。
「みっかめ。きた、きゃく……じゅうきゅう」
十九。もう一度、指が動いて、止まった。俺の折る指は、俺のいなかった三日を、折れない。
「ならんだ、です」と、ピンは言った。「ぬいて、いいのか、わからなかったので……ならべて、おきました」
抜いていい。抜いた日は、祭りにする。だが、並べておきました、の律儀さのほうが、いまは腹に来た。俺のいない三日目に、うちの店は、俺のいた最高の日と、同じ数字を出した。
「ゆび、いっぽん。もどりました。もどった、ので、かぞえました」
教室の、あの指か。戻る指か、戻らない指かは数えられない——そう言って、勘定の外に置いておいた一本である。戻ってから数える。それでいい。それが、ずるをしない、ということだ。
「そんもう、ほかは、ゼロ。まちきれなかった、おきゃく……みっかで、ゼロ、です」
三日で、ゼロ。待たせた客が、一人も、いない。……立派なもんだ。
帳面の字は、どの行も、いつもの字だった。慌てた字が、一行もない。
店がどう回ったかを訊こうとして、やめた。いま聞いたのが、答えである。回った、ではない。回した、だ。持ち場の名前が、行の端々に立っている。てほん、ぱたり。なべ、どろてあ。ころび、もっかい。
外套の裾の音が、横に来た。
「……紙は、正しいままでした」
ヴォルクだった。営業は、翌日より再開。あの夜の一行のことである。潰せる、と言ったときと、同じ声だった。
「そのようですね」と、俺は言った。「書いた紙のとおりに店が開くのは、いい区画です」
「……ええ。いい区画です」
それだけ言って、ヴォルクは岩机のほうへ戻っていった。正しい紙が正しいままで済んだ朝は、あの人の袖は、揺れないらしい。
◇
昼前に、壁際へ行った。
窪みの中の白い骨は、いつもの角度で、いつものように立っている。右腕も、いつもの位置に戻っていた。
「ただいま」
と、言った。ずっと前の夕方から、毎晩続けてきた挨拶である。三日ぶんの、間が空いた。
こつ、と一度、鳴った。
鳴った瞬間を、今日は、見ていた。
見ていても、分からないものは、分からない。俺は、たっぷり一拍分、突っ立っていた。
……よし。今日も、いい音の日だ。
三日前の、上がった右腕の形の話を、俺はまだ誰にもしていない。
◇
昼過ぎに、めずらしい客が来た。
先頭の女、アデル。連れはなし。剣は提げたまま、抜く気配もなしの、観る側の歩き方である。
通路の真ん中で立ち止まって、俺を見た。長いこと、見た。骨の数でも数えるように——いや、違う。あれは、照らし合わせている。何かと、何かを。
それから、うちの連中を、順に見ていった。受けの六体。教室の五体。骨の顔など、どれも似たようなものだ。あの人は、そのうちの一体の顔を、二度、見た。
「……生きてんのか、それ」
俺に向かって、と言うより、俺のほうに落ちてきた独り言だった。生きているかと言われると、種族の欄的には難しい質問である。俺は、いつもの返事をした。届かない声で、届かない挨拶を。
「三日で戻んのかよ。……頑丈なんだか、なんなんだか」
この人の褒め言葉は、いつも仕立てが悪い。
「そういや」と、アデルは観る席の岩に目をやった。「外じゃ、あんた一体で、百二十をぜんぶ止めたことになってるぞ。数が、もう三通りだ」
数を間違えるな、と言って帰った石臼の男の顔を、俺は思い出した。数というのは、器を移るたびに、大きいほうへこぼれるらしい。俺の帳面の外で、俺の数字が、勝手に膨らみ始めている。それを書き留める行を、俺はまだ持っていない。
去り際、アデルは観る席の岩を一度だけ指の背で叩いて、「またな」と言った。宛先は、書いていなかった。
何と何を照らしていたのかを、訊こうとして、やめた。訊いたところで、この声は届かない。
◇
夜、集計の岩陰で、帳面の残りを最後まで聞いた。
読み上げが終わって、ピンは、帳面のうしろのほうを、少しだけためらってから開いた。新しい行が、一本だけ増えていた。
「……かってに、つくりました」
かたり、ふっか。みっか。
俺の行だった。復活、二回目。三日。数える側だとばかり思っていた俺が、帳面のうしろのほうで、数えられる側になっていた。
書く行がなければ、自分で作る。教えた覚えの、ない育ち方である。
この行に書けることは、全部書いてある。書けないものが一つ、今朝から、俺のほうに残っているだけだ。
「いい行だ」と、俺は言った。「その行は、もう増やさない」
「……ふやさないのが、いちばん、です」
ピンは、みっか、の字の横に、小さく点を打った。
俺は、帳面の前のほうへ手を伸ばして、十九の行に指を置いた。
「明日から、抜きにいく」
裏の飯場で、歌が、まだ鳴っていた。




