第二十九話 敗北興行(後)・いちばん高い転び
十四。
壁際の前、俺。昼過ぎの三ノ三、通路のいちばん奥である。十が来る。受けは前で塞がり、転びは戻りきらず、ここへ回せる手は、ない。数えられるものだけが、まだ手元に残っている。向こうの歩数と、俺の頭だ。
十三。
歩幅が広い。深いところの脚だ。急いでいない。急ぐ理由が、向こうにはない。
十二。
横に、白い影が並ぼうとした。ぱたりだ。守る順番に、書かなかった骨。書かれていない仕事をしに、一歩前へ出ている。
「ぱたり。仕事だ」
あごが、こっちを向いた。
「観る席の岩へ行け。そこで、採点しろ」
あごが、動かない。行かない、という角度である。俺は指を一本立てた。
「これから出す品は、うちの品書きで、いちばん高い。——採点のない品は、品にならない」
ぱたりは、たっぷり一拍分こっちを見てから、壁を離れ、観る席のほうへ走った。走り方だけは、ずっと昔から、うちでいちばん速い。
十一。
横合いから、もうひとつ白いのが飛び出した。
もっかいだった。走って、十の鼻先で止まって、両腕をふり上げる。いちばん大きいやつ。手本のとおりの、教わったとおりの、堂々の一品。
十の足が、そろって半歩、乱れた。誰かの息が漏れる音がした。勘定の止まる音、本日八件目。
だが、それだけだった。石臼の男が、転がった白い骨を、品物のように跨いだ。壊しはしなかった。壊す勘定にすら、入れなかったのだ。
十。
「もっかい。戻れ」
名前で呼ぶと、体が先に応じる。もっかいは起き上がり、地面を一度、指でつついた。
「もう一回は、ない。戻れ」
もっかいは戻った。戻りぎわに、指がもういちど動いて、途中で、やめた。
九。
六日前の夜、品書きの下に、誰にも読ませていない一行を書いた。読ませなかったのは、出さずに済むなら、それが一番だったからだ。
——最後の一品。いちばん高い転び。代金は、店が払う。
代金の中身を、俺はまだ数えていない。
窪みと、指の足りない新入りの、ちょうど重なる線の上に、立った。
八。
それから、いつもの仕事をした。見えるところで、指を折って、数えたのだ。向こうの頭数。歩数。残りの間合い。開店の日からずっと、うちの品でいちばん長く出しているのは、これである。骨が指を折って数えている。ただそれだけのことを、深いところの十が、歩きながら見ている。歩幅が、ほんの少し、狭くなった。
測っている、のではない。
歌は、まだ届いている。岩陰では、筆の音がしている。店は、開いている。
七。六。
五、四、と間が詰まって、
三。
十のうちの一人が、剣を上げた。石臼の男では、ない。深いところの剣は、振りかぶりが小さい。小さいまま、岩を割る。
一合。
受けた。教えたとおりの構えで、教えたとおりに引いた。それでも左腕が、半分持っていかれた。骨がきしむ音を、自分の内側で聞いた。挽かれる、とは、よく言ったものだ。——この音までは、済ませてある勘定の内である。
前のほうで、受けの列が乱れかけた。一体、こっちへ振り向いて、持ち場を半歩、離れかけた。
「持ち場」
とだけ、言った。六日前に、配りきった言葉である。持ち場を離れない。誰が転んでも、だ。配ったとき、誰が、の中身は言わなかった。言わなくてよかったと、いま思う。半歩は、戻った。
あとの九人は、手を出さない。囲みもしない。一人で足りる、という勘定を、誰も崩さないのだ。
二合。
二の太刀は、受けなかった。受けられなかった。岩まで飛んで、床を転がった。転がった先から、壁際が見えた。指の足りない手が、窪みの縁を、握っていた。
足は、線の上に戻った。数えていたからだ。飛ばされた歩数のぶんだけ、戻ればいい。それだけの勘定である。
三合目は、俺に来なかった。
刃の向きが、窪みへ通った。数字のない棚を、開けに行く向きだった。
間に、入った。
転びだ。うちの品書きで、いちばん高いやつだ。
三合、と数え——数は、そこで、遅れた。
音が、たくさん鳴った。どれが自分の音か、分からないくらい、たくさん。二度目だ。一度目は、数える間もなかった。視界が、床の高さまで下がった。白いものが、通路に散らばっていくのが見えた。散らばりながら、数えた。あばら、六。七本目は、見えるところにない。左腕は、さっき半分になった。
指を折ろうとした。折る指が、見当たらなかった。数える道具から先に散るのは、勘定として、どうなのか。頭で数えた。頭は——頭で数えているから、ある。
まだ、ある。
「——仕舞いだ」
頭の上で、声がした。俺に、ではない。連れの全部へ向けた、区切りの声だった。岩を底から鳴らす足音が、そばで止まっていた。
石臼の男は、壁際の窪みを一度だけ見た。それから、散らばった俺を見た。長いこと、見た。
「……数字がない、じゃなかったな」と、男は言った。「値が、書いてなかっただけだ」
連れの誰かが、何か言った。窪み、という言葉だけ聞こえた。
「触るな。代金は、もう受け取った。釣りを出す店が、どこにある」
それから男は、ふところから綴じ本を出して、短く、何かを書き付けた。数える者の手つきだった。何を書いたかは、見えなかった。ただ、書き終わるまで、誰も足音を立てなかった。
「行くぞ。次の区画だ」
仕事の声だった。うちは、順路の一番目に、すぎなかったのだ。足音が、そろって向きを変えた。百二十ぶんの床の音が、来たときと同じ二列で、遠ざかっていく。去り際に、若いのが訊いた。語るんですか、と。
「語るさ」と、男の声がした。「語るなら、数を間違えるな。——最後は、一対十だ」
◇
床の高さから見る三ノ三は、静かだった。
通路の真ん中に、白いものが寄って、小さな山になっている。数えるまでもない。俺である。
歌が、やんでいた。観る席のほうから、息の音がしなかった。九人ぶんの息が、九つとも、止まっている。岩陰の筆の音も、しない。帳面が止まるところを、俺は初めて、音のほうから知った。
観る席の岩の上に、ぱたりがいた。採点のあごは、いつも、上がって、下がる。下がって、点になる。——下がらなかった。継ぎ目のところが、床の高さから見ると、妙に白かった。
採点は、もらった。
窪みの中で、白い右腕が、ゆっくり上がるのが見えた。手のひらを、こちらへ向ける形。止まれ、の形に見えた。もう止まっているのに、である。その手前、窪みの縁に、指の足りない手が、まだあった。
受けの列のほうで、床を一度、つつく音がした。それきり、鳴らなかった。
小さい足音が、駆けてきて、そばで止まった。
かちり、と鳴るはずの音は、鳴らなかった。代わりに、乾いた音がひとつ、床で跳ねた。数え棒だった。あいつの棒は、鳴らすものだ。落ちる音を聞いたのは、初めてだった。
外套の裾が、床をする音がした。
「……営業は、翌日より再開、と書きました」
ヴォルクの声だった。正しい紙の、正しい一行である。返事を、俺は持っていなかった。
「復活には——日数がかかる」
何日だ、と数えようとした。
そこから先を、俺は数えていない。




