第二十八話 敗北興行(前)
当日の朝は、静かに来た。
大きな足音というのは、聞こえ始めるより先に、床で分かる。三ノ三の床は、六日前から静かすぎた。観測点の岩陰で、ピンの数え棒が一度、かちりと鳴った。一度は、来た。二度は、引き際。六日前に、そう決めた。
百二十は、通路の外で一度止まった。石臼の団は、区画に入る前に隊列を組み直す。深いところの作法だ。その組み直しの間、俺は開店前の最後の点検をやった。受け十一、位置よし。転び六、位置よし。場づくり七、岩の陰。二本目の通路、空。壁際の前、俺。帳面は鍋の裏。品書きの下の一行だけ、まだ誰も読んでいない。
六日ぶんの勘定が、この並びに全部、入っている。
鍋の匂いが、いつもより濃く流れてくる。ドロテアが火を強くしている。開けたまま守る、の匂いである。
先頭が、通路に入ってきた。
岩の並びが、仕事をした。押し寄せるはずだった百二十が、幅に絞られて、二列になった。二列は、並びだ。並びは、客だ。先頭の男——三本槍の酒場で名乗ったという、あの石臼の男が、絞られた幅を一度だけ見下ろして、それから、ほんの少しだけ歩幅を狭めた。
測る目が、棚の仕掛けに気づいた目だった。目は幅から棚へ、棚から奥へ動いて、通路のいちばん奥——壁際で、一瞬だけ止まった。止まって、外れた。いまは品定めが先、という目の使い方だった。
「……興行だな」と、男は連れに言った。「聞いた通りだ。潰すには、惜しい」
惜しい、と言いながら、足は止まらない。それが本来の攻略で、悪気というものが、ない。恨みで来る客なら、勘定が立つ。立たないのは、こういう客だ。
「開店だ」と、俺はうちの列に言った。
◇
開店から、たいまつ半本ぶん。前半の受けは、設計のとおりに回った。
先頭の十の呼吸を、ピンが数える。数え棒の間合いで、受けの十一体が構えを合わせる。石臼の剣は、深いところの剣だ。重くて、速くて、無駄がない。まともに受ければ、二合で挽かれる。だから、一合だけ受けて、引く。
一度だけ、引きが遅れた。二合目が入って、受けの一体が岩まで飛んだ。数え棒が鳴る前に、隣の受けが割って入って、間合いを戻した。教わったとおりの構えに、教わっていない判断がひとつ乗った。冷えたのは、こっちの背すじである。
「はやい」と、石臼の側で誰かが言った。「引き際が、はやい」
はやいのではない。決めてあるのだ。引き際をそっちに決めさせない。それだけのことを、うちは六日かけて数えてきた。
数えているのは、先頭の十だけだ。後ろの百十は、ピンの目の外にいる。塞ぐ手がないと知って開けた穴は、開けた本人が、いちばんよく見える場所にある。
分類も、効いた。剣の客は受けへ。目の客——歩きながら場を測っていた幾人かは、観る席のほうへひとりでに逸れた。席があれば、座る者が出る。座れば、観る者になる。石臼の百二十がぜんぶ剣の客だと、うちは最初から思っていない。
観る席の岩に、深いところの攻略者が三人、腰を下ろした。座ってから、自分が座ったことに気づいた顔をしていた。
「おい、見たか、いまの」
「受けたぞ、あの骨。おれの二段目を、受けてから引いた」
「引き方が、うまい」
深いところの連中の言葉で、品評が始まる。品評は、語りの入り口だ。椀を持って帰る先は、三本槍の卓である。
◇
昼前、最初の山が来た。
受けの列が、二枚同時に押された。戻りが追いつかない時間の、一箇所目である。時間割のとおりなら、ここは追いかけっこで埋める。埋まるかどうかは、当日の脚に訊くしかない——と、六日前の俺は書いた。
脚は、走った。
追いかけっこの骨が、二列のあいだを斜めに抜ける。石臼の若いのが、つい追う。追った先で、教室の生徒が、教わったとおりに転んだ。手本と、同じ音で。
痛くない音が、鳴った。追った若いのが、剣を持ったまま、変な顔で立ち止まった。
「……なんだ、この区画は」
なんだ、は、勘定の止まる音である。六日前、俺は三十九体の前で、一件だ、と言った。一件を根拠に、潰れるを知っている体を、この列に立たせた。昼前までで——七件になった。その数だけは、指を使わずに数えた。壁際の前から、手を離せないからだ。
勘定の止まった客の幾人かは、そのまま観る側へ流れた。観る席の頭数、九。
その九のうちの誰かが見ている前で、ぱたりが、一度だけ転んだ。設計のとおり、昼の山のいちばん高いところで。走らず、その場で、両腕をふり上げる、いちばん大きい手本である。取っておく札ではない。堂々と出す品だ。両腕が上がりきるまでのあいだに、観る席の剣持ちがひとり、構えるでもないのに腰を浮かせて、座り直した。誰かの椀が、口の手前で止まった。落ちて、音が鳴って、九つぶんの息が、そろって漏れた。
深いところの連中が、骨の転びに息を漏らす。きょうの店開けは、これだけで元が取れた。
そのあとの歌は、鍋の火と一緒に来た。
火を強くした飯場から、鼻歌が通路の表まで届く。火が強いぶん、声も出ているらしい。歌に、転びの拍が合っていく。それから、石臼の列の、後ろのほうの足が、拍に合い始めた。向こうは、気づいていない。深いところの剣を持った足が、うちの飯場の拍で動いている。——うちでは、いつものことである。
誰の歌かは、俺も知らない。知らないままにしてある。訊いたら、あの人は歌うのをやめてしまう気がするからだ。ただ、歌はうちの品書きに載っていない。載っていないということは、勘定に入っていないということだ。いま、この区画でいちばん働いているものを、俺は数えていない。
うちの損耗、いまのところ、指一本と、受けの構えの肩ひとつ。指を落としたのは、教室から出た、名前の生えた口だ。手本のとおりに転んで、手本のとおりに欠けた。痛いが、勘定の内だ。——戻る指か、戻らない指かは、いまは数えられない。数えられないものを勘定の内に入れるのは、ずるだ。
もっかいのいちばん大きいやつは、取ってある。数え棒は、まだ二度鳴っていない。呼吸は、こっちで持っている。
——回りすぎている。
職業病だ、と自分に言った。言ったが、帳面は閉じなかった。観る席の頭数が、九で止まっている。昼から、増えていない。目の客が九で止まっているということは、後ろの百十のうち、もう誰も、品を見に来ていないということだ。
◇
昼を回って、石臼の男が、自分で列を離れた。
受けにも来ない。転びも追わない。観る席にも座らない。男はただ、通路をゆっくり歩いた。歩きながら、数えていた。手つきで分かる。骨の頭数。品の数。引き際の速さ。それから男の目が、朝に一度だけ止めて、外した場所へ戻っていった。
測る者は、品を測り終えると、次に、品のない場所を測る。
俺が毎晩やっていることだ。だから、分かった。分かったときには、男の目は通路のいちばん奥——見学の席にした壁際で、止まっていた。
品のない壁際。動けない骨と、足音の戻らない新入りと、窪み。
「……あそこだけ、数字がない」と、男は言った。
数字がないのではない。数えさせていないのだ。だがそれは、測る者にとって、同じことを意味しない。数字のない場所は、隠した場所だ。隠した場所は、いちばん値の張る棚だ。
男が、片手を上げた。石臼の一角——後ろにいた十ほどが、列を離れて、壁際へ向き直る。先頭の十しか数えていなかった、その後ろから出てきた十だった。観測できなかった十が、いま、自分から出てきた。
——はずだ、が、破れた。嫌いなやり方で守っていた場所が、いちばん先に見つかった。
ピンの数え棒が、二度鳴った。引き際の合図。引き際は、こっちで決める。負け方の芯は、そこにあると、六日前に言った。だが向こうは、引く側ではない。
十が、壁際へ歩いてくる。受けは前で塞がっている。転びは戻りきっていない。ここへ回せる手を、数えた。ない。壁際の前に立つと決めたのは、俺だ。立てば挽かれる回数が増える、その勘定は済ませてある。済ませたつもりの勘定は、一対十の形をしていなかった。
壁際までの、向こうの歩数を、俺は数え始めた。二十。十八。
ぱたりが、壁を離れて一歩前へ出るのが、視界の隅に見えた。四番を、書かなかった骨だった。継ぎ目のところだけが、たいまつの明かりを、いちど返した。
十五。




