第二十六話 先触れ
三ノ三の昼は、きょうも観る席から埋まっていく。その席の岩のひとつに、見ない顔が座っていた。
客は、来る。新しい顔も、毎日来る。だから、見ない顔そのものは、めずらしくない。めずらしいのは、目の使い方だった。
観る客は、演目を見る。転びを見て、受けを見て、笑うところで笑う。あの客も、笑うところで笑った。笑いながら、目だけが別の勘定をしていた。通路の幅。出入りの数。骨の頭数。壁の暗がりの深さ。品ではなく、棚を見る目である。
連れは、いない。少なくとも、席には。ただ、荷の置き方だけが、深いところを長く歩いた者の置き方だった。
俺には、覚えのある目だった。毎晩、観測点の岩陰から、俺が客にやっている目である。
数える者は、数える者に気づく。気づいてしまえば、あとは互いに数えるだけだ。俺は演目の指示を出しながら、あの客の目の行き先を数えた。演目に三割。残りの七割が、場に向いていた。
一度だけ、その七割が、観測点の岩陰で止まった。数えている骨が、数えられた。
昼のうちに、ピンが数え棒を持って来た。帳面のすみに、書きあぐねた印がひとつ、浮いている。
「あのおきゃく……くちでも、めでも、けんでも、ないです。しるしが、つけられません」
三つの型に入らない客。ピンの帳面が客を分けられなかったのは、この帳面がついてから初めてである。
「四つ目の型だ」と俺は言った。言ってから、言い直した。「——いや。見に来たんじゃない。測りに来た」
あの目は、先触れだ。行列の前を歩いて、道を空けさせる役である。
「かくしますか。えんもく」
隠すか、見せるか。隠して怪しまれれば、次は数を増やして来る。見せて、きょう一回で測り終わらせるほうが、安い。それに、うちの数字は、見せたぶんだけ伸びてきた店だ。綴じ本が門前町に回って、客が増えた。見られて減る品なら、とっくに畳んでいる。
「いつも通りだ。いや——いつもより、いい日にする」
その日の転びは、よく回った。もっかいの、いちばん大きいやつが決まったとき、観る席がどっと笑って、あの客も笑った。笑って、それから一拍だけ、目の勘定が止まった。測りに来た男が、勘定を忘れた顔を、一度だけした。
一度だけ、である。次の瞬間には、目は棚に戻っていた。それでも、あの一拍のあいだ、あの男は客だった。分からない勘定は、書いておくに限る。俺はその一拍を、帳面の隅に書き留めさせた。
◇
夕方、客が引けるまで、その客は残った。それから、揉め事のひとつもなく、静かに帰っていった。転び三回ぶんの笑いを置いて、棚の寸法を持って。席を立った足音が、岩を底から鳴らした。客の足音では、なかった。
あとで知ったが、ピンは帳面に新しい印を作っていた。口と、目と、剣のとなりに、ものさしの絵である。
「よつめの、かたです。……つぎに、きたら、すぐ、わかります」
次が来る前提の帳面だった。うちの帳簿係は、こういう先回りをする。
入れ替わりに、紙が来た。
中央の帳場からの回状である。区画長宛。紙の色に、見覚えがあった。階層長の机の端に積まれていた、層外の色の束——下から上がってくる話が多い、と言われていた、あの色だ。話は上がりきって、通告になって、降りてきたらしい。
ヴォルクの袖が、紙を岩机に置いた。読め、ということらしい。読んだ。
監理局経由、潜行計画の届出の写し。石臼の団。百と二十名。来月の二日から、第三層の各区画を、順に潜行する。順の一番目に、うちの区画の番号があった。
一番目。偶然では、あるまい。二区画持ちの数える骨、の噂は、鉄章の卓まで届いている。跳ねた数字から、順に。分かりやすい順番である。
百二十。
指を折りかけて、やめた。毎晩、自分の減りを数えるのに使っている指だ。両手を、十二回。折り終わるより先に、意味の分かる数である。
読み終えるまで、区画長は何も言わなかった。言わずに、袖を返した。
「……夜に、伺います。あなたの数字で、聞かせてください」
ピンが数え棒を握ったまま、写しの数字を検算した。
「いちにちの、おきゃくの、さいこうが、じゅうく。ひゃくにじゅうは……むいかぶんと、ろくにん、です。それが、いちどに、きます」
六日ぶんと六人の客が、一度に来る。そうだ、と返すのに、少しかかった。受けは、一人ずつ来る客のための品だ。百二十は、一人ずつ来ない。ひとつの塊として来る。数の暴力というのは、帳面の上でも、ちゃんと暴力だった。
来月の二日、というのも、よくできている。来月は、八灯二分の初めての月だ。もらうほうに回る、最初の月。その二日目に、店ごと挽かれる勘定である。数字というやつは、上がるときに、いちばん遠くまで匂う。跳ねさせたのは、うちだ。この紙を呼んだのは、うちの帳面である。
◇
夜、うちの岩机に、ヴォルクが来た。言っていた通り、俺の数字を聞きに。
並べた。斥候の目。ピンの検算。俺の読み。聞き終えるまで、袖の淡い明かりは一度も揺れなかった。揺れないのは、揺れないようにしているときの色だと、俺はもう知っている。そして今夜の明かりは、久しぶりに、暗かった。
「区画長。石臼、というのは」
「……挽いたあとに、粒が残らない、という意味だそうです」ヴォルクは、そこだけ、人から聞いた言い方をした。「二十層でも、三十層でも、同じことをして、同じように記録を上げてきた団だと。悪気は、ないのだそうです」
悪気がない。手ごわい客の条件が、またひとつ揃った。
「……上に、止めてもらう手は」
「ありません」即答だった。「攻略は、攻略です。届けは、正しく出ています。正しく出ている届けを、上は止めません。上は——」
見ていませんよ、と続くのが、この人の口癖である。今夜は、そこで切れた。
「紙は」と、ヴォルクは言った。言ってから、少し黙った。「……紙は、正しいまま、区画を潰せるんです。私は、それを知っています」
どこで知ったのかは、訊かなかった。訊いても、この明かりは答えない色をしていた。
「カタリ。……逃げる算段なら、手伝いますよ」
上は、見ていませんよ、といつも言う人が、上に見られたら済まないことを、言った。
逃げる。——一瞬ではなく、最後まで数えた。三十九体で、どこへ。育ちかけの名前ごと、どこへ。数え終わって、答えの欄は空のままだった。空の欄を見て、俺は笑ったと思う。骨の顔は笑えないが、笑ったと思う。
「区画長。うちは客商売です。向こうがどう来ようと、来るなら客だ」
「……本気で、言っていますか」
「勝てないのは、分かりました。数えたので」と俺は言った。「だから——勝ちません」
「……勝たない、とは」
「勝ち負けは、向こうの品書きです。うちの品書きに、勝ちの欄はない。あるのは——客が何を持って帰るか、の欄だけです」
袖の明かりが、今夜初めて、揺れた。揺れたまま、区画長はしばらく黙って、それから、何も言わずに袖を返した。
◇
ヴォルクが帰ったあと、俺は通路を一本、歩いた。
壁際に、二体が並んでいる。あごで点をつける師匠と、いちばん大きく転ぶ生徒。昼にいちばん大きい笑いを取った指が、今夜は鳴っていない。
「もっかい」
呼んだ。返事の代わりに、指が一度だけ、空をつついた。呼ばれると、体のほうが先に応じる。それが、この名前の生え方だった。
もう一回、という意味の名前である。もう一回があると、誰も約束はしていない。
挽かれて、散って、湧き直したとき——同じ顔ぶれが戻るとは、限らない。壁際で、ぱたりが手をそろえている。腕は繋がった。粉になった二本は、戻らなかった。戻らないものは、戻らない。証拠が、目の前に座っている。大破の復活ほど、深く削れる。それをいちばんよく知っているのは、毎晩指を折って、自分の減りを数えている俺だ。
向こうは、本来の攻略を、本来の規模で、悪気なくやりに来る。受けでは受からない。逃げれば、畳まれる。降りれば、挽かれる。まともにやれば、勝ち目はどこにもない。
なら、残っている土俵はひとつだ。
敵として数えれば、百二十は勝ち目のない数だ。だが、客として数えれば——百二十は、開店このかた最大の、客でもある。一日の最高が、十九。その六日と六人ぶんが、日を決めて、まとめて来る。うちの帳面が、まだ一度も書いたことのない数だ。
俺は帳面を開いた。脅威の欄に書いた百二十を、線で消す。同じ数字を、客の欄に書き直す。数字は動かない。動いたのは、欄のほうだ。
空いた行の頭に、新しい勘定の名前を書く。まだ一度も、書いたことのない名前だった。
向こうは、うちを攻略しに来る。うちは——最高の負け方を、数え始めた。




