第二十五話 幕間・大きな足音
門前町ヴェルンの酒場「三本槍」に、その綴じ本が置かれるようになったのは、つい先ごろのことである。この夜のことを、店の連中はのちに、綴じ本より先に語るようになる。
紐で綴じた、手のひらほどの写し。表紙はなく、一枚目に几帳面な字で「三ノ三 記録」とだけある。壁の黒板——三ノ三の話 一杯につき一席——の下に吊るされ、注文を待つあいだの回し読みが、この店の新しい作法になった。
書いたのは灰狼の隊の薬師、シルヴァである。写しは、綴じてからです、と言っていたエルフは、綴じ終えた一冊を店に預けるとき、亭主に何かを長々と告げた。亭主は聞き終えてから、黒板の下に釘をひとつ打った。取り決めは、それで済んだらしい。
日が落ちると、迷宮帰りで席が埋まる。今夜も、いちばんにぎやかな卓では、そばかすの少年が椅子の上に立っていた。
「だから、通路が二本になったんだって! 奥にもう一本! 座って観るだけの席があるんだよ」
ひよこ隊のテオである。
「僕らが入ったらさ、新顔の骨がずらーっと並んでて……あれ、何体だっけ」
「十八」隣で芋を持った小人族の少女が言う。ミナである。「並んでたのは、十四。四体は、転んでた」
「そう! で、そのうちの一体がさ、転ぶたびに地面をこう、ちょんちょんってつつくんだ! なにあれ!」
「もう一回、だろ」と、斧使いの古株が先に言った。この店で最初にあの話へ椀を出した男である。
「なんでお前が知ってるんだよ」
「そういう顔してんだよ、その骨は」
行った者より、行っていない者のほうが、話がうまい。今夜も、そうやって回っていく。
別の卓では、若いのが綴じ本を釘から外して、声に出して読んでいた。
「……客、十九。待ちきれず帰った客、なし。——なし、だとよ。聞いたか、待たされねえんだと」
「並んでから言え」「並ばねえんだよ、もう」
読み上げられ、笑われ、また語られる。書いた本人は奥の卓で素知らぬ顔をしているが、耳の先だけは、今夜も少し赤い。三ノ三の話は、もうこの店の定番である。はじめて椀ひとつの値がついた夜から、ふた月とたっていない。珍しい顔をする者は、いない。
◇
足音は、戸口から来た。
会話がやむ、というほどではない。ただ、床板の鳴りが変わった。入ってきたのは五人。全員が大柄というわけでもないのに、五人ぶんの足音が、床を底から鳴らした。深いところを長く歩いた者の、荷の重さと、足の置き方である。
先頭の男が、壁の槍を一瞥して、黒板の前で止まった。
「……三ノ三の話、一杯につき一席」
読み上げて、男は笑わなかった。
「下でも聞いた。浅層に、数字の跳ねた区画があると。二区画持ちの、数える骨がいると」
店のどこかで、杯の音がひとつ、止まった。
男は釘に掛かった綴じ本を手に取り、慣れた手つきで繰った。数える者の手つきだった。骨の数。通路の数。客の数。——十九、のところで、繰る指が一度だけ止まった。書き付けの中の数字だけを拾って、男は綴じ本を釘に戻した。
奥の卓で、耳の先の赤みが、引いていた。書いた本人だけが、その繰り方の速さの意味を知っていた。
「石臼の団だ」と、男は名乗った。「席はあるか」
卓のひとつが、黙って詰めた。誰も何も言わないまま、椅子が四脚ぶん、寄った。
◇
奥の卓で、白髭のドワーフが杯を置いた。灰狼の盾役、バルガスである。
「石臼、と来たか」
「知ってるの?」テオが椅子から降りて、声を潜める。潜めたつもりの声である。
「深層の稼ぎ頭よ。隊がいくつも束になって、ひとつの団になってる。区画にまとめて入ってな、出てくるときにゃ、区画は空だ。石臼ってのは、そういう意味よ。挽いたあとに、粒は残らねえ」
「……悪い連中なの」
「いいや」老ドワーフは、そこだけはっきり言った。「あれが本来の攻略ってやつだ。潜って、倒して、記録を上げる。俺らが若い時分にやってたことを、あの束でやってるだけよ。悪気ってもんが、ねえ」
老ドワーフは、杯を少し回した。
「挽かれたあとの区画ってのを、二十層で一度、通ったことがある。……静かなもんよ。しばらくは、何も出てこねえ。出てくるようになっても、前と同じ顔ぶれかどうかは、誰にも分からねえ」
「でも」テオの声から、身振りが消えていた。「あそこは、殺さない店なのに」
殺さない店。自分で言って、テオは黙った。店、と呼んだことに、自分で気づいた顔だった。黙ったまま、テオの指が卓の上を一度、ちょんちょんと動いた。誰の真似なのかは、本人も気づいていないようだった。
老ドワーフは何も足さず、髭を一度だけ撫でた。
骨は湧く、と攻略者は言う。湧くから減らしていい、とも。
ミナは芋を持ったまま、石臼の卓を見ていた。数える目で、五人の、荷物の数を。
「……荷物、七つ」ぽつりと言った。「五人なら、五つでいいのに」
「じゃあ、二つは?」
「あずかりもの。あとから来る、だれかの先送り」
「あとから、って」
「本隊」ミナは芋をかじった。「あの五人は、先のり」
「……何人ぶん?」
ミナは数えかけて、やめた。荷物では数えられない大きさ、ということらしかった。奥の卓で、老ドワーフが、杯へ伸ばしかけた手を膝に戻した。
◇
石臼の卓は、静かに飲んだ。
騒がず、こぼさず、勘定は先払い。連れの若いのが椅子を鳴らしたとき、男は店に向けて短く詫びた。ちゃんとした詫びだった。給仕の娘に、男が二つ三つ、短く尋ねるのが聞こえた。宿の相場。飯屋の当たり。それから、灰嶺の浅層の、道の混みよう。監理局の受付の、朝の並び。聞き方に無駄がなく、答えの数字だけを受け取って、男は杯に戻った。
一度だけ、男のほうから店に問いが投げられた。杯の縁で、綴じ本のほうを示して。
「その骨は、客を数えて——どうするんだ」
数えて、どうする。答えられる者は、いなかった。テオが口を開きかけて、そのまま閉じた。開きかけた口のかたちは、楽しい、と言いかけていた。
男は返事を待たなかった。それきり、何も訊かなかった。
灰狼の卓では、薬師のエルフが手帳を開いたまま、書かずにいた。
「……記録します、と言いたいのですが」
「やめとけ」バルガスが短く言った。「数えてるやつを数えると、気づかれる」
エルフは、黒鉛筆を置いた。置いてから、あとで書き足すために、置いた時刻を目で測っていた。
夜が更けて、五人は立ち上がった。来たときと同じ足音が、床板を底から鳴らして、戸口へ向かう。戸口で、先頭の男が一度だけ振り返り、黒板の白い字を、もう一度だけ見た。
——次は灰嶺の三層だと、石臼の男は言った。
これは翌朝、門前町じゅうの卓に回った言い方である。実際は、もっと短かった。
「三層だ。例の、数える骨のとこからだ」
扉が閉まり、足音が遠ざかっていく。
店の中に、いつもの騒がしさは、すぐには戻らなかった。テオは椅子の上に立たず、ミナは芋の残りを皿に置いたままにしていた。灰狼の卓では、エルフの黒鉛筆が、目で測っておいた時刻から動き出す。書き出しの一行は、隣の卓からでも読めた——こんどは、こちらが数えられている。
大きな足音というものは、遠ざかるときにも、床を鳴らすのである。




