第二十四話 名前は、下から生える
開店から三日目の朝も、三ノ三は「そこの」で回っていた。
「そこの、角をそろえるの。手前を頼む」「そっちの、走るのが早いの。奥へ」——呼び分けは、日ごとに長くなる。長くなるぶん、仕事は遅くなる。名前という道具の値打ちを、俺は毎朝、体で計り直している。
それでも、配らない。理由は、先月から変わっていない。
正直に言えば、頭の中では、半分できていた。つつくやつ。角をそろえるの。——あと三日「そこの」が続いていたら、俺は口に出していたと思う。
「なまえ、まだ、はえません」
朝の報告に、そういう行ができた。ピンは大真面目である。俺も大真面目に、そうか、と返す。畑の見回りと、たいして変わらない。
◇
昼の稽古の場に、音が増えた。
転び向きの四体は、順番に転ぶ。手本はぱたり。採点はあご。そして生徒同士のあいだでは、順番のやりとりに、あの仕草が流通し始めていた。地面を、指でつつく。もう一回、の合図である。四体目が始めた指の言葉を、いまでは四体全員が使う。
中でも四体目は、よくねだる。自分の番が終わると、つつく。ほかの生徒のいい転びを見ても、つつく。あれは合図というより、性分である。稽古の場でいちばん多く鳴る音が、生徒の落ちる音で、二番目がこいつの指の音だった。
四度目に四体目が前へ出たとき、ほかの三体は、もう地面をつつかなかった。ねだっても順番が来ないと知った指は、鳴らない。稽古の場でいちばん多く鳴っていた音が、そのとき、止んでいた。
その静けさを破ったのは、二体目の生徒だった。教室が始まってから、まだ一度もあごを上げてもらえていない一体である。
「もっかい。……ずるいです。こんどは、おれの、ばんです」
もっかい。
呼ばれた四体目が、振り向いた。番号でも、そこの、でもない呼び方に、体のほうが先に応じた。それから、返事の代わりに、地面ではなく、空をつついた。
生えた、と思った。
まわりの三体が、順番も忘れて、地面をつついた。つつく音が、三つ重なった。拍手を、こいつらは知らない。知らないなりの、あれは拍手だった。
誰も決めていない。俺は何もしていない。それだけのことに、俺は、稽古の見学のふりをして、しばらく動けなかった。用意しかけていた呼び方が、口の中で、要らなくなった。
呼び方は、その日のうちに広がった。順番待ちの列で、受けの持ち場で、灯の始末で。
もっかいのとなり。もっかいのむこう。
場所に名前がついたのではない。名前のあるやつのまわりに、場所ができたのである。
夕方、ピンが帳面を抱えてきた。
「かいて、いいですか。もっかい、って」
書け、と俺は言った。二度目は、返事が早かった。
筆を構えて、ピンが止まった。
「……おなじ、おおきさで、いいですか。カタリの、ぎょうと」
同じでいい、と言った。
十八あった空の行の、一行目が埋まる。ぱたりの行、カタリの行に続く、三人目の行である。壁際で、ぱたりのあごが、ゆっくり一度、上がって下りた。採点ではない角度だった。
裏の飯場にも、その日のうちに届いていた。鍋の前で、ドロテアが呼んだ。
「もっかい! 椀、置きっぱなしだよ」
呼ばれた体は、椀を取りに戻って、それから、鍋の前の地面を一度つついた。もう一回。何をもう一回なのかは、本体にも分かっていないだろう。呼ばれたのが嬉しいときの音、というだけである。
名前は、半日で鍋の前まで届いていた。
「いい名前じゃないか。欲が深くて」
欲が深い、を褒め言葉に使うのは、飯を作る側だけである。
◇
翌日の営業から、もっかいは、もっかいとして転んだ。
試しに、列の後ろから「もっかい」と呼んでみた。転びの途中の体が、器用にこちらへ半回転した。名前というのは、体に届く呼び方のことらしい。
受けの列では、旧三ノ三の古株が、新入りの持ち場を手で示していた。もっかいの、むこう。示された先に立っているのは、旧三ノ四から来た骨である。きのうまでは、あっちの、そこの、と呼ばれていた場所だ。区画で分けて言う言い方が、その日から目に見えて減った。名前がひとつ生えただけで、境目がひとつ、消えた。
ピンに、呼びかけてから体が動くまでを数えさせた。そこの、で数えて七つ。名前なら、二つ。ひと声あたり、五つ縮む。十七体ぶんに直すと——そこまで勘定して、やめた。数字のほうは揃った。あとは、生えるのを待つだけである。
休みの時間、壁際に二体が並んでいた。あごの採点係と、指の生徒である。ぱたりは動かず、もっかいは地面をつつかず、ただ並んで、受けの列を眺めていた。師匠の隣というのは、ああいう顔で座る場所らしい。
その受けの列の脇で、口の客がふたり、椀を持ったまま喋っていた。
「だからよ、三本槍で聞いたんだって。鉄章の卓が話してた。二区画持ちの、数える骨がいるって」
「鉄章が? あの人ら、こんな浅いとこの話、するのかよ」
「してたから言ってんだよ。おれは聞いただけだ」
鉄章。深くまで潜る、一人前の証である。うちみたいな浅層に、本来なら用のない連中だ。
数える骨。それは、もう慣れた。慣れたが——二区画持ち、は初めて聞く呼ばれ方だった。席を増やして、まだ四日。四日で、そこの卓まで届いた。噂の足の速さを、俺はきのうまで、味方だとばかり思っていた。
その同じ列の向こうで、骨が骨を呼んでいる。もっかい、と。きのう生えたばかりの、二音である。うちで生えた名前と、外で貼られた呼び名が、同じ場所で鳴っていた。
背すじのあたりが、すっと冷えた。語られているぞ、と言われた日の、あの冷えである。
俺は受けの列を数え直すふりをして、その勘定を頭の隅に置いた。語られるのは、ありがたい。語られた数だけ、うちの第四項——生還譚の流通は動く。動くのだが、語られる範囲を、俺は選べない。
◇
夜、観測点の岩陰で、帳面を開いた。
埋まった行、一。白い行、十七。まとめて埋まる日は、たぶん来ない。来ないでいい。
十七の白い行のひとつは、きのう名前をひとつ生ませた、あの生徒の行である。ずるいです、と言った側の行は、まだ白い。
急がない。ぱたりの名前は、転び方から生えた。カタリの名前は、語る癖から生えた。もっかいの名前は、ねだる指から生えた。名前は、そいつがいちばんそいつである場所から生える。十七体ぶんの、その場所がそろうまで、飯と、声かけと、数えることを続けるだけだ。
そういえば、きょうのもっかいの転びは、心なしか音がよく通った。呼び名のある骨は、直りが早い——ぱたりで一度、そう思ったことがある。気のせいだ、と決めてある。二度でも、まだ気のせいだ。気のせいは、帳面に書かない。
かすれ番号の骨——どの役でもない、あの保留の一体が、灯の始末をして回っているのが見えた。きょうも、空いた場所をいちばん先に埋めた骨である。あの骨のいちばんあの骨である場所を、俺はまだ、見つけられていない。あっちが先に見つけるのか、こっちが先に気づくのか。それも、待つ側の仕事のうちだ。
外が呼ぶのは、数える骨、二区画持ち。うちで生えたほうの名前では、誰もまだ俺を語らない。俺の行の三文字は、麓のどの椀にも入っていない。
帳面を閉じる。
名前は、下から生える。この店に、一本目が生えた。
——呼び名のほうは、上から降りてくる。二区画持ちの数える骨。それがいま、どのあたりの層を歩いているのか。俺の指は、そこまで届かない。




