第二十三話 席を、増やす
朝いちばんの三ノ三に、インクの匂いがした。
ピンが小さな壺を抱えて、十八体の前に立っている。番号の、書き直しである。うちでは、自分の番号は自分で書く。骨が混ざらないための、昔からの自衛だ。
十八体は、壺と自分の腕とを、順番に見た。書き直していいのか、どうか。その顔つきで、しばらく固まっていた。
最初に筆を取ったのは、例の、左腕の番号が深くかすれた骨だった。取って、止まった。
「……じぶんの、ばんごう。……わすれました」
忘れました、と来た。番号は在庫の呼び方だと、俺はずっと思ってきた。それでも、自分の番号を忘れるところまで行くのに、区画ひとつぶんの暗さが要る。
「ピン。査定簿を」
三ノ四の、薄い石板の束。鍵と呼ばれた帳簿を、ピンがめくる。行はすぐに見つかった。かすれた腕の骨の、番号の行。
「……ありました。のってます」
載ったものは、消えない。
骨は、石板と自分の腕を二度見比べて、それから、ゆっくり番号を書き直した。筆の運びは、たどたどしかった。たどたどしいのは、初めてやるからではない。思い出しながらやるからだ。
途中、筆が止まったきり、動かなくなる一体もいた。ピンは、急かさなかった。壺を抱えたまま横に立って、動くまで待った。
昼前には、十八本の腕に、読める番号がそろった。混ざらない、と決めた腕である。それでも、列はまだ音を立てない。鳴らす気のない足音の、そろい方である。返ってくるものには、順番があるらしい。
◇
昼までかけて、通路の向こうに明かりを入れた。
畳んだあとの暗さは、明かりを入れれば消える——わけではないのだが、まずは形からである。旧三ノ四。うちの二本目の通路。壁ぎわに観る席の岩を並べ、奥に稽古の場を取る。ピンの図の通りに置いていくと、席は図の通りに増えた。図とは、たいしたものである。
運びながら、俺は十八体を見ていた。
岩を運ばせると、分かる。角をそろえて置く骨がいる。置いた岩の座りを、手で確かめる骨がいる。運ぶより先に、道順を目で数える骨がいる。逆に、岩より自分が転ぶ骨がいて、転んだ音に、まわりの足が一瞬止まる。
客に三つの型があるように、骨にも向きがある。受け向き。転び向き。場づくり向き。ピンの帳面の空の行に、印がひとつずつ増えていく。
受けの構えを作ってみせた新入りの横で、古株が一体、黙ってひじの高さだけ直してやっていた。教えろとは、誰も言っていない。
「かぞえて、わけると……みんな、ちがいます」
「そうだな」
「ぜんいん、おなじに、みえてました。きのうまで」
きのうまでは、向こうもそう扱われてきたのだ。同じに見える扱いを、三ノ四ぶんの年月、されてきた。分けるというのは、ひとつずつ見るということだ。かかった時間のぶんだけ、骨は骨に戻っていく。
◇
同じ日の夕方まで、稽古の場は、転び教室になった。生徒は、転び向きの四体である。
教えるのは、ぱたりである。壁際の採点係が、初めて壁を離れて、稽古の場の真ん中に立った。あごが、これ以上ないほど上がっている。
手本は、走らず、その場で、ぱたり、と。欠けた指の右手を高く上げて、受け身の形だけを、ゆっくり見せる。落ちない転びである。形だけ見せて、地面までは行かない。手本で摩耗を払わない、師匠なりの値切り方だ。
生徒の一体目が、転んだ。ただの転倒だった。あごが、下がる。
二体目。転倒。あごが、下がる。
裏の飯場から、鍋の匂いと鼻歌が届いている。ドロテアが、通りすがりに言った。
「あの子ら、食べるの早くなったろ」
「はい」と俺は答えた。運ばれてきた日の、あの思い出すような食べ方は、もう消えている。
「早いのはいいことだよ、骨は」
三体目——受け身の音が、鳴った。まだ笑いの形ではない。ないが、痛くない音ではあった。鳴らす気で鳴らした音としては、十八体の、最初のひとつだったと思う。あごが、半分だけ上がる。
採点は、厳しい。厳しいが、何度でも見せる。師匠は、口がきけない。きけないぶん、手本の数で教える。夕方までに、手本は五十を超えた。数えたのは俺ではない。観測点の岩陰の、ピンの帳面である。
五十一回目、師匠は初めて、本当に地面まで落ちた。両腕をふり上げる、いちばん大きい手本だった。その直後である。四体目の生徒が、地面を指でつついた。もう一回、の仕草である。
口は、きける。きけるのに、指で言った。
ぱたりのあごが、きょういちばん高く上がった。
◇
稽古が板について、数日たった。開店の昼は、よく晴れていた——山の上の話で、うちには関係ないのだが、客の機嫌には関係がある。
三十九体ぶんの飯の勘定は、きょうも動いている。数字が追いつかなければ、減るのは鍋の中身からだ。開ける前に、俺は一度だけ、帳面のその行を見た。
ひよこ隊が来た。灰狼の隊が来た。腕試しの三人組も来た。そのうしろに、見ない顔が続いた。目の客は二本目の通路の観る席へ。剣の客は手前の受けへ。口の客は奥の追いかけっこへ。列は、できなかった。できる前に、席が吸っていく。
一本目の通路で受けが回り、奥で追いかけっこが走り、二本目の観る席が埋まっていく。前は、同時に回せるのは二つ半が上限だった。きょうは、五つ、回っている。
客の前で、教室の四体目が転んだ。稽古のとおり、両腕を上げて、ぱたり、と。音が鳴って、観る席が笑った。生徒は起き上がって、壁際を見た。ぱたりのあごは、動かなかった。採点は、もう要らないらしい。
昼を回って、一度だけ、受けに一体足りなくなった。埋めたのは、かすれ番号の骨だった。誰も呼んでいないのに、先に動いた。どれでもできる骨が、空いた穴のかたちに、なっていた。
観る席の岩の上では、ミナが足をぶらぶらさせていた。ひよこ隊が、追いかけずに座って観るのは、きょうが初めてである。口だけが、声を出さずに動いている。転びの拍を、数えている口だった。それから、隣のテオにささやくのが、聞こえた。
「ねえ。わたし、わかっちゃった」
「なにが?」
「……でも言わない。楽しいから」
わかっちゃった、の中身を、俺は聞かないことにした。種を知ってなお通う客は、たぶん、客のいちばん上等なやつだ。
夕方、ピンが帳面を読み上げた。
「きた、きゃく……じゅうきゅう」
雨明けの満員の日が、十三だった。その上である。それから、数え棒が一段下の行に降りた。
「まちきれなかった、おきゃく。……きょうは、ゼロ、です」
ゼロ。
ピンは、そのゼロの字を、ほかのどの数字より丁寧に書いた。置く場所のなかった、痛い数字の行に、初めてゼロが載った。この行に最初の、に、を書いた日から、ひと月近くかかった勘定である。
◇
夜、役の印の並んだ帳面を、観測点の岩陰で眺めた。
受け向き、六。転び向き、四。場づくり向き、七。まだ決まらないの、一。
決まらない一体は、かすれ番号の骨である。きょうも、空いた場所へいちばん先に動いた。どれでもできて、どれでもない。割り切れずに一だけ残る、あの勘定の気分が、そのまま骨の形をしている。
場づくりの骨を呼ぼうとして、気がついた。
「おい、そこの——」
三体が、同時に振り向いた。
そこの、では、もう足りないのだ。
席は、増えた。手も、足りた。
足りないのは——呼び名だ。
役の名で呼ぶ手も、ある。うけの一、ころびの三。……やめておく。あれは、番号の親戚だ。上から配る呼び方で、配ったものは、生えてこない。
振り向いた三体が、まだこちらを見ている。呼ばれるのを、待つ顔である。教室でねだった四体目にも、まだ呼び方がない。もう一回、と指で言えるやつを、そこの、と呼ぶのは、そろそろ失礼だろう。
帳面の十八の空の行は、まだ一行も埋まっていない。席を数え、手を数えて——呼び名だけ、俺はまだ数えていなかった。




