第二十一話 隣を、引き取る
取り潰しの報せの、あくる朝の三ノ三である。岩机の上に、書き付けが一枚のっていた。
「引き取りの、申し出の様式だ」
区画長ヴォルクの袖の淡い明かりが、書き付けの上で止まっている。様式、と呼ぶには、ずいぶんそっけない紙だった。区画の名。区画長の名。引き取りたい頭数。以上である。
「……これだけ、ですか」
「これだけだ。出す者が、いないのでな。様式が育つ理由もない」
いつから誰も出していないのかは、聞かなかった。紙の白さで、足りた。
その白い紙のすみに、小さな刻みがひとつある。受け取りの印と、日付。——報せが来た、あの夜の日付だった。
俺が言い出すより、先だった。
「行くぞ。階層長の詰め所は、遠い」
袖の明かりは、もう境の通路のほうを向いていた。
◇
出がけに裏の飯場へ寄ると、勘定の匂いのする騒ぎになった。区画長ヴォルクは土間の入口で止まり、淡い明かりだけが中へ届いている。
「十八体だろ。食わせられるのかい」
ドロテアが、おたまでこちらを指した。指されたのは、俺である。
「鍋は二十一体ぶんしかない。飯は付けで回してる。給料の枠は、査定に乗ってる頭数のぶんだけ。十八体は、まるごと乗ってない。——あんた、どの勘定で食わせる気だい」
三つとも、正しい。そして三つとも、俺は答えを持っていなかった。
「……答えは、まだ持っていません」
「だろうね」
「答えを持たないまま出す紙を、前の世界で、俺は何度も見ました。だいたい、ろくなことになりません」
「なら、やめるのかい」
「いえ。数字の側を、間に合わせます」
おたまが、下りた。ため息とも笑いともつかない息が、ひとつ。
「……で、やる気なんだろ。なら、鍋を大きくしないとね。付けでだよ」
家計番は、勘定より先に、鍋の心配をする。
観測点から駆けてきたピンが、帳面を差し出した。
「かんがえた、ことも、なかったです。ほねを、ひきとるの。……でも。せき、ふやすなら、て、が、いります。ての、かず、かぞえました。たりません」
席を増やす図。通路二本目に幾つ、控えに幾つ——数えの筋は、開かなくても分かる。足りない数、十七。
「……ほとんど十八じゃないか」
「はい。ぴったり、では、ないです」
ぴったりでは、ないらしい。一体、余る。余る一体を何に使うかは、まだ決めていない。それでも、うちの足りない数と、つぶれる区画の頭数が、ここまでかみ合うことがあるのか。
俺は、様式の紙に、帳面の写しを重ねた。
「区画長。これも、持っていきましょう」
願いは、断られる。勘定は、読まれる。前の世界で覚えたことのうち、いまでもいちばん役に立っているやつだ。
写しに載せたのは三つ。まちきれなかった、おきゃく、の行。満員の日の十三という数字。席を増やす図と、足りない手の数。
袖の明かりが、ゆっくり一往復した。笑ったのかどうかは、分からない。
◇
階層長の詰め所は、境の通路をふたつ越えた先の広間だった。
初めて入る。壁の一面に、石板の棚。この層のすべての区画の、査定簿の並びである。……数える者の巣だ。悪くない眺めだった。
待つあいだ、棚を目でなぞった。石板の厚みは、区画の年月の厚みだ。いちばん厚い束は、見なくても分かる。隣の一位の、三百年ぶん。うちの束は、端のほうで薄かった。薄いが、いちばん新しい石の色をしている。
厚みでは、当分勝てない。色なら、もう勝っている。浮かれた数え方だとは、自分でも思う。
階層長フォスカは、石の机の向こうで灰色の翼をたたんでいた。片角の欠けた頭が、書き付けと帳面の写しへ、順にかたむく。
「……引き取りの申し出。三百年ぶりに見た、ではないな。初めて見た」
「様式は、ありました」
「様式はな。出す馬鹿がいなかっただけだ」
読むのは速かった。書き付けは一拍。写しは、長い。石を刻む指の先が、まちきれなかった、おきゃく、の行で止まった。
「……おまえの帳面では、十八体は、荷物ではないのだな」
「品切れの側です。席はあるのに、出す手が足りないので」
「つぶれる区画を欲しがる区画長など、聞いたことがない。……ヴォルク。おまえの名で出すのか」
「……私の名で、出す」
袖の明かりは、揺れなかった。
フォスカは何も言わずに、書き付けへ何かを刻んだ。石を引っかく音が、二度。一度目が通す印、二度目が、誰の裁量で通したかの印だ——とだけ、言った。
「通す。骨を移すのは、査定の日だ。取り潰しと、同じ日——次の査定の日に、鍵を渡す」
鍵。
区画に、鍵などない。あるのは境の通路と、帳簿の上の線だけだ。それでも、階層長は鍵と言った。
「……ひとつ、聞いていいですか。なぜ、通るんですか」
「引き取り手がなければ、十八体の割り振り先を、私が考えるはめになる。おまえの帳面は、私の面倒をひとつ消した。それだけだ」
それから、いつもの調子で付け足した。
「私は、受け取っただけだからな」
欠けた角が、こちらへかたむいた。
「頭数を増やして、数字を落とした区画の例なら、いくらでも読み上げてきた。次の査定で落ちれば、読み上げられるのは、おまえの区画の名だ」
十八体ぶんの飯。十八体ぶんの席。十八体ぶんの、給料の枠。数える端から、腹の底が少し冷えた。
「……読み上げないでいい月に、します」
「言うようになったな、数える骨」
数える骨。呼び名のほうが、写しより先に、ここまで届いているらしい。
帰り際、机の端に、見慣れない厚さの束が積まれているのに気づいた。この層の棚の、どの並びとも、石の色が違う。
視線に気づいたフォスカが、翼をひとつ揺すった。
「……下から上がってくる話が、今月は多い。おまえの用は済んだ。帰れ」
聞くな、という意味だと数えた。数えて、聞かないでおいた。
◇
帰りの境の通路で、区画長ヴォルクが立ち止まった。
「カタリ」
「はい」
「……鍵は、重いぞ」
それだけだった。袖の明かりは前を向いたままで、それ以上は何も言わなかった。
この人が俺を、番号でなく名前で呼んだのは、それが初めてだった。重いぞ、の中身は聞かなかった。聞けば、たぶんあの明かりは、また揺れないようにするのだろう。
三ノ三に戻ると、稽古の音がしていた。受けの型の骨の音。壁際の、採点のあご。いつもの店だ。
夜、壁際の白い骨に、今日の数字を言った。申し出、ひとつ。通った数、ひとつ。来る骨、十八。うちの頭数、もうすぐ三十九。
数えながら、気づいた。俺が来てから、ここの点呼は、ずっと二十一で終わってきた。その終わりの数字が、変わる。
俺は、指を一本折った。三十九体ぶんの飯の勘定が、まだ白い。
——そして俺はまだ、来る十八の、どの一体の顔も知らない。




