第十九話 隣の一位が、来た
査定の翌々日、昼下がりの三ノ三に、客の途切れる時間が来た。稽古の時間である。
受けの型の組が二体、通路の真ん中で構えを確かめている。壁際ではぱたりが、あごの角度で採点している。出口の壁ぎわでは、見送りの礼の列が並びの間合いを直している。いつもの昼だった。
次は、向こうから来る——査定の夜、俺はそう踏んでいた。
来た。思ったより、早く。
いつもでないものは、境の通路から歩いてきた。
音が、なかった。うちの連中は骨を鳴らして歩く。その姿は、鳴らさなかった。完璧な姿勢。目の穴の奥に、緑玉の光。
区画長オルバス。隣の、一位である。
「とまれ」を言う係は、うちにはいない。代わりに、稽古の音がひとつ、またひとつ、勝手に止まっていった。壁際の、採点のあごも止まった。うちでいちばん物おじしない審査員が、である。
ヴォルクが岩机から滑るように出て、二人の区画長が向き合った。
「ヴォルク」
「……オルバス殿」
それだけだった。それだけの間に、俺の知らない年月が、たぶん一往復した。
「見に来た」
用件も、名乗りも、なし。
それきり、オルバスは何も言わなかった。案内は、つけられなかった——つけられる係が、うちにはいない。オルバスは勝手に歩き出し、俺は勝手に、その隣を歩いた。
◇
通路の真ん中まで来て、オルバスは、まず稽古を見た。
受けの二体が、構え直す。正面から受け、正確に削り、すっと引く——引き際のところで、緑の光がわずかに揺れた。
「……あれは、うちの型だな」
「写しました」
隠す意味がない。嘘をつく意味は、もっとない。
「写して勝てるなら、とうに誰かが勝っている。そう言ったはずだが」
「勝つために写したんじゃありません。追いかけっこだけだと、強くなりに来た客に出す品がなかった。品ぞろえのために、借りました。……礼がまだでしたね。ありがとうございました」
緑の光が、こちらを向いた。
「品ぞろえ、か」
言葉の目方を量るような間だった。一位は、次へ歩いた。
転びの稽古も、やっていた。走って、転ぶ。起き上がって、列に戻って、また走って、転ぶ。受け身の骨がいい音で鳴り、砂がぱっと飛んで、飛んだ分だけ笑いの取り分が増える——そういう芸である。壁際で、ぱたりのあごが、ひとつぶん高く上がったまま、動かなくなっていた。採点の角度では、なかった。
緑の光は、長いことそれを見た。三百年、この手の芸を「媚び」と呼んできた人が、何も言わずに見ていた。
出口の壁ぎわでは、見送りの礼の列が、間合いの稽古をしていた。客の背中のない時間に、そろって頭を下げる稽古である。はたから見れば、かなり妙な絵だ。
「なんだ、あれは」
「見送りです。うちの声は客に届かないので、かたちで礼を言います」
「礼」
オルバスは、しばらく黙って列を見ていた。
「三百年、骨に礼をさせた区画長はいなかった」
「客が、増えます」
「……知っている。増えて、消えた区画も、知っている」
緑の光が、列から離れて、通路の幅を、入り口から出口まで、ゆっくりなぞった。
「狭いな」
それだけだった。妙に、耳に残る一言だった。
◇
観測点の岩陰で、ピンが帳面を抱えて固まっていた。
区画長オルバスはその前に立ち、骨の指を、すっと差し出した。
「見せろ」
ピンは、俺を見た。俺はうなずいた。帳簿は嘘をつかん——そう言った人だ。うちの帳面が嘘をついていないなら、見てもらうのが早い。
オルバスは、長いこと帳面を繰った。石板に数字を刻む指が、紙の上では、意外なほど丁寧だった。
来た客の段。行の頭の、口と目と剣の絵。また来た顔の段。うたのある日の段の、波の印。ぱたりの行と、かたりの行。
指が、一箇所で止まった。
かり、いちグリム。りし、なし。
「……給料を、貸しで受けたのか」
ピンが、帳面のはしを握ったまま、小さく言った。
「かえす、ので」
緑の光が、二拍、ピンの上で止まった。いつかの日と、同じ長さだった。
「……この段は、なんだ」
「うたの、ある日、です。おきゃくが、ながい日」
「歌」
「かぞえると、わかります」
緑の光が、ゆっくりとピンから離れ、俺に移った。
「数を数える小鬼は、いいものを拾ったな」
「拾われたのは、こっちですよ」
今度は、言えた。あのときは、言わずにおいた返事である。
緑の光が、わずかに細くなった。それだけだった。
◇
帰り際、境の通路の手前で、区画長オルバスは足を止めた。
「『三百年、誰もやり切らなかったなら、まだ誰も負けてない』」
俺の言葉だった。言った場所は、うちの帰り道の通路——聞き手は、ピンだけのはずだ。……いや。ピンから、うちの連中へ。連中から、裏回りの道で、よその骨へ、か。
「裏で、そういう売り文句が回っている。おまえの言葉だそうだな。……語られているぞ、数える骨。客の話だけじゃない。おまえも、だ」
背すじが、少し冷えた。帳面の外で、俺の言葉が、俺の知らない値段で流れている。
「三百年、似たことを言った骨なら、何体も見た」
緑の光が、わずかに逸れた。
「言い続けたまま残った骨は、まだ見ていない」
「六灯八分。倍。結構なことだ」
声は、乾いた書庫のままだった。
「差を、数えたか」
図星である。十二灯と、二分。
「言っておく。十九灯は、先月の数字だ。私の行も、止まってはいない」
腰の後ろで、指を折りかけて、やめた。折る数が、分からなくなった。
「だが、気をつけろ。数字が跳ねた区画は、上にも、横にも、見える。跳ねた数字は、ごちそうの匂いがする——腹を減らしたやつほど、遠くから嗅ぎつける」
——抜いたばかりの三ノ四の顔が、ちらりとよぎった。抜いた区画は、抜かれた区画でもある。うちの帳面は、そこまでは数えていなかった。
「……忠告ですか」
「観察だ。私は帳簿で階層を読む。読めるものが増えるのは、悪いことではない」
それから、オルバスは岩机のほうへ、一度だけ首を回した。
「ヴォルク。長生きは、するものだな」
袖の奥の淡い明かりが、揺れた。返事があったのかどうかは、俺には聞き取れなかった。
緑玉の光が、俺に戻ってきた。
「今までは、階層の帳簿を読むついでに、おまえの区画の行を読んでいた。次からは——おまえの行から、読む」
一拍、考えた。考えるまでもなかった。
「では、うちも。区画長に頼んで、そちらの写しを取り寄せます」
緑の光が、止まった。
「……取り寄せて、どうする」
「数えます。それしか、できないので」
緑玉の光が、一度、まばたきのようにゆっくりかげって、戻った。
「……品ぞろえ、か」
俺は、頭を下げた。うちの店の、見送りの礼である。
区画長オルバスは、来たときと同じ、音のない足取りで境の通路に消えた。緑の光が見えなくなるまで、洞窟の誰も、動かなかった。
稽古の音が、少しずつ戻ってくる。壁際で、ぱたりのあごが、かた、と鳴った。
いまのが誰の採点だったのかは、聞かないでおく。




