第十八話 二度目の査定
月末の朝の三ノ三は、空気が硬い。査定の日である。
前の査定の朝、俺は見学だった。数字がどう数えられるのかも知らず、ただ立って見ていた。今日は違う。うちの帳面は、ゆうべのうちに締まっている。来た客の段も、また来た顔の段も、うたのある日の段も、ピンが数え直した。
「さてい、きょう、です」
言われなくても分かる。分かるが、係が言うと、締まる。
区画長のヴォルクは朝から、入口と奥を往復していた。前の査定の朝は三往復だった。今日は二往復で止まり、区画長の印を袖の中で握ったまま、入口に立っている。事なかれの上司なりの、店がまえである。
昼前に、石の翼が降りてきた。
ガーゴイルだ。灰色の翼をたたみ、片方の角の欠けた石の顔が、入口の明かりをふさぐ。首もとで、階層長のあかしの鎖が、にぶく光った。小脇に、分厚い査定簿。
「区画長。いつもの」
「はい。……はい」
階層長のフォスカは査定簿を開き、石の指で紙を繰った。繰りながら、もう読み上げている。いつもの、飽きた手つき——のはずだった。
「三ノ三。挑戦者の数、増。撃退の率、相変わらず。客足の続き具合、増——」
声が、止まった。
石の目が、査定簿の上をもう一度なぞる。数え直す者の目の動きだ。それくらいは、俺にも分かるようになった。
「……読まない項もな、大きく動いた月だけ、名を読み上げる決まりだ。先月までの動きは、読む幅ではなかった。今月のは——読む幅だ」
フォスカは一拍おいて、読んだ。
「第四項、『生還譚の流通』。——大きく、増」
岩陰で、ピンが帳面を胸に抱えて、こちらを見ていた。声を出さずに、口だけが動く。——あ、た、り。
生還譚の、流通。
四つ目の名前が、はじめて声になった。声になれば、数えられる。数えられたものは、消えない。
生きて帰った客の話が、どれだけよそで回ったか。俺たちの言葉で言えば——椀に換わった数だ。見送りの礼を、この月のうちに仕込んだ。語りたくなる幕切れを、こっちから品に組み込んだ。風向きじゃない。仕掛けた分が、帰ってきた。——どの仕掛けが、いくら効いたか。そこまでは、帳面はまだ言わない。言わせる方法は、そのうち考える。
「総合——」
また、止まった。今度の間は、長かった。
「六灯と、八分。来月からだ」
ヴォルクの袖の明かりが、ぐ、と強くなった。
俺は頭の中で、二度数えた。三灯四分の、倍。ちょうど、倍だ。数える者として言わせてもらうが、倍という数字は、うっかりでは出ない。
「言っておくが、ご——」
フォスカも、そこで止まった。石の顔が、言いかけた言葉を飲み込み、別の言葉を出す。
「……誤差とは、言わん。倍は、風向きでは起こらん」
それから、いつもの伝言の声で付け足した。
「浮かれるなよ、区画長。数字は数字だ。私は、読み上げただけだからな」
査定簿が閉じられる。灰色の翼が広がりかけて、止まった。
「——ああ、それと」
石の目が、初めて、洞窟の奥を見た。壁際の骨と、岩陰の帳面のほうを、だ。
「階層の並びで言えば、三ノ四と三ノ一を抜いた。おまえのところは、二位だ。……それから、隣の一位は毎月、査定の写しを取り寄せる。今月は——査定の日のうちに、この区画の分を先に寄越せと言ってきた。長く階層長をやっているが、急かされたのは初めてだな」
そう言い残して、翼はとなりの区画へ飛んでいった。
◇
昼の裏は、その話で持ちきりだった。
「ろくとうと、はちぶ、って、なんだ」
「灯がむっつと、はんぱが八つだよ」
ドロテアの説明は、今日もみじかい。骨たちは、こくこくとうなずいた。うなずいた数のぶんだけ、分かっていなかった。
「で、それは、どれくらいだ」
「先月のぜんぶに、先月のぜんぶを、もういっこ乗せた数だね」
おお、と裏が鳴った。ぜんぶが、もういっこ。
「……びり、じゃ、ない?」
「びりじゃない。上から二番目だよ」
「にばん」
「にばん、だ」
おお、と裏がもう一度鳴った。倍と、にばん。祝いの言葉は、ふたつで足りる。
表では、午後のひよこの追いかけっこが、いつもどおり回っている。倍の日も、客にはいつもの洞窟だ。それでいい。種は、明かさない。
◇
夜の裏市場は、祝いがふたつ重なっていた。査定と、給料日である。
「給料日だよ! 並びな!」
ドロテアの声で、連中がぞろぞろと並ぶ。俺は四枚もらった。骨番一一四——いや、カタリの、ひと月の値段だ。値段のほうは、まだ倍にならない。なるとしても来月の、そのまた先だろう。それでいい。順番というものがある。
グレテの店は、いつもの倍にぎやかだった。椀が積み上がり、転びの話と、ろくとうはちぶのおさらいが、あちこちの卓でくり返されている。
すみの席で、俺は給料の一枚を、ピンの帳面の上に置いた。
「お前の給料だ」
ピンは、その一枚と俺を、かわるがわる見比べて、耳をぺたんと伏せた。
「……もらえません。かぞえるのは、すきで、やってるので」
「知ってる。好きでやってる奴にこそ払うんだ。好きは、ただ働きの理由にしていいものじゃない」
好きだろう、と言われて数字の外で働かされた顔を、前の世界でいやというほど見た。うちでは、やらない。
ピンは長いこと黙って、それから帳面を開き、新しい紙に、たどたどしく書いた。
かり、いちグリム。
「もらう、のは、ちがう気がします。……かえす、なら」
「分かった。貸しだ。利子はなしにしてやる」
「りし?」
「知らなくていい。ろくなもんじゃない」
ピンは真剣な顔でうなずいて、「りし、なし」と隣に書き足した。知らないまま書くな。
帳面の紙は切れかけていたはずだが、見れば、あたらしい端切れの束がある。グレテの包み紙——ドロテアが木札の付けで、頼む前に手配してあった。うちの家計番は、俺より仕事が早い。
残りは三枚。今夜は使わない。来月に持ち越す。
「……食べないのかい、今夜は」
「財布の練習だ」
「変な骨だね」
ドロテアはあきれて、それから、ふ、と息だけで笑った。祝いの夜に汁を飲まない骨と、給料を借りに書き換える小鬼。この店でも、うちの卓だけの眺めである。
◇
表に戻ると、区画長のヴォルクが岩机で、受領の書き付けを書いていた。
前の査定の夜、この人の署名の手は、ピンの数字の一枚を前に、長く止まった。
今夜は、止まらなかった。それどころか、署名の下に、頼まれてもいない数字を書き添えている。挑戦者の数。また来た顔の、くみの数。袖の明かりが、筆の先で、落ち着いて揺れている。
壁際の窪みの前で、今日の報告をした。査定、六灯と八分。先月の、倍。階層の並びで、二位。給料、四枚。貸しが一枚。持ち越しが三枚。それから、四つ目の名前——生還譚の、流通。
返事は、ない。今日は、鳴らないらしい。そういう日も、ある。
ひとつだけ、背すじの冷える勘定が残っている。うちにも見えない麓の椀の数が、上には見えている。誰が、どこで、数えている? それに——ちょうど倍という、切りの良すぎる数字。……祝いの夜に似合う問いではない。問いの行だけ、頭の帳面に作っておく。
岩陰では、ピンがまだ起きていた。帳面に、新しい行を作っている。
「つぎ、です」
一位は、十九灯——裏で知れた、先月までの数字だ。うちが、六灯と八分。
差は、十二灯と二分。遠い。遠いが、初めて、同じ帳面に載る数字になった。
それに——写しを急がせた一位が、紙を眺めるだけで済ませる性分でないことは、この目で見て知っている。緑の目に「数えていけ」と言われた日を、俺は覚えている。
次は、向こうから来る。




