第十三話 幕間・三本槍
灰嶺から山道を下って半刻、門前町ヴェルンの目抜き通りのはずれに、「三本槍」という酒場がある。
日が落ちると、迷宮帰りの攻略者で席が埋まる。汗と土と安い酒の匂い。今日の稼ぎを数える者、明日の潜りを算段する者。亭主は片腕に古い槍の傷のある無口な男で、注文のとき以外は口を開かず、手から拭き布が離れたところを見た者がいない。
店の名の由来を、亭主は語らない。聞き出せた者も、まだいない。壁には古い槍が三本、飾りとも売れ残りともつかない顔で掛けてあり、その下に黒板がひとつ。売り物と値段が、白い字で並んでいる。
灰狼の隊が二度目の足慣らしから下りた、その晩。店のいちばんにぎやかな席で、そばかすの少年が立ち上がった。
「で、こっちが骨! 僕が斬りかかるでしょ、そしたら——」
ひよこ隊のテオである。椅子を骨に見立てて、身振りが大きい。
「こう! 紙一重でかわして、それで、わざとつまずくんだ。派手に、ばたーん! って」
「またそれか」古株の斧使いが笑いながら手を挙げた。「何度聞いても、ありえねえんだよ。骨が、わざと転ぶ?」
「ほんとだって! 惜しいところで届かないんだよ、何回やっても! で、こっちがムキになったころに——」
「なったころに?」
「向こうが、転ぶんだ! こう、ばたーん!」
「追いかけてる側が転ぶならわかる。逃げてる側が転んでどうする」
「だから面白いんだって!」
テオの話は身振りが半分だが、店の連中はもう三杯目で、身振りの半分がちょうどいい。笑い声で卓が揺れる。誰かが「もういっぺん転ぶとこ」と注文を出し、テオは律儀に、もういっぺん転んでみせた。椅子が一脚、犠牲になった。
「あそこさ、なんていうか——楽しいんです。ダンジョンなのに。変ですか?」
変だ、と店の半分が言い、続きを、と店の残り半分が言った。
「盛ってる」と、隣で小人族の少女が芋をつつきながら言った。ミナである。「転んだの、二回。ばたーん、じゃなくて、ぱたん、くらい」
「盛ってないよ! ……ちょっとだけだよ」
息を切らして椅子に戻ったテオが、頭をかいた。
「あと、あそこ、数える係がいるんだよ」ミナは芋を飲み込んでから、少し声を落とした。「岩のかげに、ちっちゃいのが、数え棒持って。わたしたちが入るたび、かちって鳴るの」
「……数える? 何を」
「客。たぶん、わたしたちのこと」
古株が、笑いかけて、やめた。骨の洞窟が、客を数える。杯を置く音が、ひとつ。そういう間が一拍だけ卓に落ちて、テオの次の身振りがかき消した。
◇
「訂正します」
隣の卓から、静かな声がした。銀灰の髪のエルフが、手帳をめくっている。灰狼の隊の薬師、シルヴァである。
「先日、同行した日の記録では、骨は八体ではなく、六体。転びは、一回。礼の角度は、深め」
「シルヴァさん、そこ数えてたの!?」
「記録します、は口癖ですので。……あなたたちだけの日のぶんは、訂正できません。記録が、ないので」
少し、悔しそうだった。
エルフは手帳を一枚繰って、初めて少しだけ困った顔をした。
「この区画の記録だけ、ページが足りません。……三冊目です」
三冊目、と誰かが繰り返した。浅層の、いちばん奥の、何も出ない区画の話、である。手記の文字は細かく、几帳面で、ところどころに骨の絵が挟まっている。近くの卓の若いのが、のぞき込んで、声に出して読んだ。読み上げられた「骨、礼。角度、深め」に、また笑いが起きた。シルヴァが、手帳をすっと引き寄せた。少しばかり、遅かった。
「なあ、それ、写させてくれよ。田舎の弟が迷宮の話を欲しがっててな」
「お断りします。……写しは、綴じてからです」
綴じてから、ということは、綴じる気があるということだ。誰も突っ込まなかったが、手帳のエルフの耳の先は、少しだけ赤かった。
語られた話が、書き留められて、読み上げられて、また語られる。この店では毎晩あることだ。気に留める者は、いない。
◇
奥の卓では、白髭を三つ編みにした老ドワーフが、同年配の古株と飲んでいた。灰狼の盾役、バルガスである。
「知ってるか」古株が、声を潜めるふりだけして言った。潜めるふりの声は、たいてい隣の卓まで届く。「ダンジョンてのはな、客が生きて帰るほど、儲かるらしいぜ」
「……何の与太だ、そりゃ」
「保険よ。俺らが受付で払ってる、あの掛け金。あれの何割かが、山に——迷宮に入るんだとよ。つまりよ、俺らが生きて帰って、また潜って、また払う。それが迷宮の稼ぎになるって寸法だ」
「誰から聞いた」
「忘れた。酒場で聞いた話は、ぜんぶ酒場の声で喋るんだ」
バルガスは笑わず、髭を一度だけ撫でた。それから、腰の物入れ——掛け金を納めに行く日の、あの重たい金貨の袋を提げるあたりを、手のひらでひとつ押さえた。年寄りの掛け金は、高い。
「……あの区画の骨は、誰も殺さねえな。そういや」
「はは、まさかよ。骨にそんな算段ができるかい」
古株は笑って、それで与太話はしまいになった。酒場の話は、酒場の深さまでしか潜らない。
隣の卓で、芋を持ったままのミナが、一度だけ、奥の卓のほうへ首を伸ばした。
◇
その一部始終を、店の隅で聞いている女がいた。
束ねた髪に、私服の外套。制服も、記章もない。だが迷宮の受付に並んだことのある者なら、顔を見れば分かる——受付長のミレイユである。今夜の彼女は誰の書類も受け取らず、誰とも話さず、葡萄酒を一杯だけ、ゆっくり減らしていた。
テオの身振りが大きくなるたび、店が笑うたび、彼女の手元で、小さな手帳に何かが書き付けられていく。笑いがひとつ起きるたび、書き付けも、ひとつ増える——ように、見えた。数える者がいれば気づいただろうが、今夜のこの店で数えものをしているのは、彼女だけだった。
テオが椅子ごと転んだとき、彼女の杯が、口元で一度だけ止まった。笑ったのかどうかは、分からない。
何を書いているのかは、誰にも見えない。書き終えると手帳は外套の内へ消えて、卓には、飲みかけの一杯だけが残った。
彼女は勘定を置いて、静かに店を出た。気づいた者がいたとしても、声をかける者はいなかった。亭主だけが、拭き布の手を止めずに、一度だけ目で見送った。
◇
夜が更けて、テオの語りが三巡目に入ったころ。
亭主が、黒板の前に立った。
売り物の並びのいちばん下、空いていた場所に、白い字がひとつ、書き足される。無口な男の字は、値札と同じ、飾り気のない字だった。
——三ノ三の話 一杯につき一席。
「なにそれ!」と、最初に気づいたのはミナだった。「話が、売り物になったの?」
亭主は答えず、拭き布で手を拭いて、カウンターの内に戻った。
答えは、別の卓から来た。古株の斧使いが立ってきて、ひよこ隊の卓に、湯気の立つ椀をひとつ、とん、と置いたのだ。
「一杯だ。……続きをくれ」
テオが、ミナと顔を見合わせる。それから店中の視線が、ゆっくりと、ひよこ隊の卓に集まっていく。
浅層の隅の、何も出ない区画の話に、この夜、初めて値がついた。




