第十二話 また来た客
雨の日から、五日。三ノ三の洞窟は、今日もいつもの青白さである。
帳簿係のピンの帳面には、あの日の一行がまだ残っている。また来ると言った客、一。事実の欄はそれだけで、解釈の欄は空いたままだ。帳面は事実だけを書く。埋めるのは、客のほうの仕事である。
その欄が、今日、埋まった。
昼前、入口のたいまつが三つ。革鎧に長剣の女。白ひげの老ドワーフ。薬袋のエルフ。灰狼の隊が、また来た。
新人の付き添いは、いない。仕事の匂いも、ない。三人だけで、仕事道具を飾りにしたまま、いちばん弱い区画に立っている。
「……で、今日の名目はなんです」
薬師のエルフ——シルヴァが、手帳を開いたまま聞いた。
「足慣らしだ」
盾持ちの老ドワーフ——バルガスが、まっすぐ前を見て答えた。
「先日も、足慣らしと記録しましたが」
「足ってのはな、何度でも慣らすもんだ」
「そう書いておきます」
シルヴァの黒鉛筆が動いた。書かれた側のバルガスは、居心地悪そうに白ひげを一度なでた。先頭の——革鎧の女、アデルは、何も言わない。言い訳の相談に、最初から参加していない。
俺は岩陰で、骨の指を静かにたたんで、聞き耳を立てていた。
名目に困る客、というものを、俺は前の世界で知っている。用もないのに来てしまって、来た理由を自分に説明できない客。ああいう客のことを、店は常連と呼ぶ。
「持ち場ァ!」
誰かのあごが鳴って、骨たちが散った。言われる前に、いつもの逃げの陣形。転び担当は転びやすい床へ、縄の一体は縄——は外させたままなので、仕方なさそうに岩陰へ。ピンは観測点へ。全員、配置が早い。早すぎる。
……お前ら、待ってたな?
五日前に見送った客だ。骨たちも覚えていたらしい。覚えていて、待っていた。観客が増えると、背筋が伸びるらしい。背筋なんて、ない連中だが。
灰狼の隊は、剣を抜かなかった。ゆっくりと区画をひと回りして、骨たちの逃げ足を眺めていく。五日前と同じだ。ただ、今日は最初から「観る側」の歩き方だった。バルガスは最初の角までは盾のひもに指をかけていて、二つ目の角を曲がる頃には、忘れた。
途中、転び担当が持ち場で一度、誰にも追われていないのに転んだ。
……だからそれは、追われてから出すやつだと言っているのに。稽古したての芸というのは、どうしてこう、出したがるのか。バルガスの肩が、こらえきれずに揺れた。あの客は、うちの転びに甘い。
さて、困った。
観るだけの客に、何を出す?
先日の新人二人——ひよこの隊になら、追いかけっこがある。惜しいの連続、あれは追う側の演目だ。だが灰狼は追わない。バルガスは腕を組んで眺め、シルヴァは記録し、アデルは——俺を見ている。
逃げる演目は、追い手がいて初めて成立する。観るだけの客の前で、骨が一体で走り回っても、それはただの不審な骨である。
……いや。
一つだけ、あるか。
俺は岩陰から出て、通路の真ん中を、ゆっくり歩いた。逃げない。走らない。ただ、歩きながら、今日の分を数える。指を折って。昨日の客、六人。直した床、三枚。残りの床、四枚。
観客に出せる演目が他にないなら、いつもの仕事を、見えるところでやるだけだ。開店準備を眺めるのが好きな客というのも、世の中にはいる。
バルガスの眉が上がるのが、視界の端に見えた。
「……おい。数えてるぞ、あれ」
「記録します。骨、指折り。歩行しながら」
シルヴァのページがめくれる。アデルは、まだ何も言わない。
ただ、視線だけが、ずっとついてくる。
嫌な視線ではなかった。値踏みでもない。狩人の目でもない。何かと何かを、照らし合わせるような目——五日前と、同じ目だ。俺の指の折り方と、彼女の頭の中の何かを、突き合わせている。
何と、突き合わせている?
分からない。
俺は数え終えて、いつもの癖で、軽く頭を下げた。会議終わりの角度で。
バルガスが、ぶっと吹き出した。
「礼をしたぞ、おい」
「記録します。骨、礼。角度、深め」
「深めって何だ」
騒がしい観客である。だが悪くない。悪くないどころか——岩陰という岩陰から、うちの骨たちが身を乗り出して、この騒がしさを聞いている。客に呆れられるのも、笑われるのも、うちの連中には全部、初めての種類の音なのだ。
裏へ下りかけたドロテアが、途中で戻ってきて壁にもたれている。窪みのセンパイは、いつもどおり動かない。動かないまま、この音の中にいる。
ひと回りして、三人は入口へ戻った。
途中、アデルが一度だけ、ピンの観測点の前で足を止めた。五日前、猛烈な速さで何かを書き付けていた、あの岩陰だ。あの目が、見逃していたはずがない。
岩陰のピンが、帳面を胸に抱えて固まる。アデルは、しゃがまなかった。のぞき込みもしなかった。ただ通り過ぎざま、聞こえるか聞こえないかの声で言った。
「……数えとけよ。あたしの分も」
足音は、止まらなかった。
ピンの耳が、ぴんと立った。
それから、猛烈な速さで帳面が開かれた。ページを繰る音。数え棒が鳴る音。俺の位置からは見えないが、何をしているかは分かる。
似顔絵の行が、今日から正式な客の行になる。
一号、二号——ときて、三組目。眉に傷の、よく来る人。
出口で、バルガスが盾を担ぎ直し、シルヴァが手帳を閉じた。アデルは半歩だけ振り返って、区画の全体を——骨たちの並ぶ暗がりを、ひと呼吸ぶん、眺めた。
それから、誰に言うでもなく、短く言った。
「またな」
三つのたいまつが遠ざかって、洞窟が青白さに戻る。
骨たちが、ざわ、と鳴った。かた、かた、と、あちこちであごが鳴る。誰に言ったんだ、今の。いや——誰でも、いい。
俺は岩陰のピンのところへ行った。帳面は、もう三段目まで埋まっていた。新しい行の脇に、見覚えのある下手くそな似顔絵。短い黒髪、眉の傷。その横に、たどたどしい文字がひと言、増えていた。
「よんでみてくれ」
ピンは、こともなげに読んだ。
「また、な」
事実の欄に、書くことにしたらしい。解釈の欄は、もう要らなくなった。
その夜、観測点の岩机で、ピンが帳面を広げた。
「かたります。あめのひから、来た客、じゅうよにん。また来た顔、さんくみ。……あと」
数え棒が、来た客の段の下のほうを、順にたどった。見慣れない並びが、そこにあった。
「しらない顔、ふえてます」
新規が、増えている。ひよこでも、灰狼でもない、まっさらの客。数は、俺も数えていた。並べては、見ていなかった。並べたのは、係だ。
昨日、帰りぎわのテオの声が、耳の奥で鳴った。酒場で三ノ三の話をしたら、すっごいウケて——って。
噂が、山を下りて、客を連れて戻ってくる。店をやっていて、これほどいい知らせはない。
明日は、床の直しの続きと、ピンの紙の買い足しを数えよう。客が増えるなら、支度がいる。
知らない顔は、いい知らせだ。
……このときは、そう思っていた。




