第十一話 雨の日の営業
朝から、洞窟の天井が泣いていた。
外は昨夜からの豪雨らしい。第三層は、山の外が近い。岩の継ぎ目から細いしずくが列を作って落ちてくる。こういう日に攻略者は来ない——濡れるのが嫌なのではなく、雨の山道は川になって、帰りの足元で人が死ぬからだ、とはドロテアの講義である。
つまり、本日、開店休業。
ピンが帳面を開いて、几帳面に書き付けた。挑戦者、ゼロ。雨、と横に添える。ゼロにも理由を書いておく。うちの帳簿係は、そういう主義である。
「じゃあ、今日は掛け替えだな」
先日の見学の持ち帰りを、早速使うことにした。たいまつの間隔。三ノ二では、歩きやすいところに明かりがあった。ピンの帳面には間隔の数字が写してある。暇な雨の日は、こういう仕込みのためにある。
——のだが。
たいまつ受けを三つ目まで動かしたところで、洞窟の奥から、妙な音が聞こえてきた。
ぱたり。ぱたり。かた。
争いの音ではない。争いなら、もっと切羽詰まって鳴る。これは、規則正しい。まるで何かを、繰り返し練習しているような——
そっとのぞいて、俺は固まった。
骨たちが、転んでいた。
三体が順番に、洞窟の中ほどを走っては、転ぶ。走っては、転ぶ。転んだ一体を、残りの二体がのぞき込んで、あごを鳴らして何か言い合っている。
「いまのは、いたそう」
「はやい。もっと、こう——ぱたり、と」
「ぱたり」
言われた一体が、また走って、今度は少し大げさに、両腕を振り上げてから転んだ。見ていた二体のあごが、かちかちと鳴った。どうやら、いまのは高得点らしい。
誰も、指示していない。
あれは、うちの演目の「転び」だ。俺が興行のたびにやってきた、追いかけっこの転び。それを、暇な雨の日に、稽古している。二体には見覚えがあった。会議で「よんぶ」を食い物だと思っていた連中である。……思えば、こいつらは毎日、いちばん近くで興行を見てきた観客でもあった。
奥では別の一体が、天井から下がった縄に、繰り返し自分から掛かっていた。罠倉の古縄を、勝手に梁へ渡したらしい。ミナの縄の新手に付き合うための、掛かられ方の練習だ。縄に掛かって、逆さに揺れて、両腕をばたばた振る。振り方を変えては、また掛かる。……あの縄は、あとで外させよう。営業中に客に見られたら、仕掛けと読まれる。
口を出しかけて、やめた。
教わっていない稽古は、教わった稽古より強い。前の世界で、俺はそれを知っている。言うべきことがあるとすれば、ひとつだけだ。
俺は物陰から出て、三体のほうへ歩いた。稽古がぴたりと止まって、三対の目の穴がこちらを向く。叱られると思ったのかもしれない。
「いまのは、高い」
「……たかい?」
「三本のうち、二本目。両腕を振り上げたやつ。あれがいちばん、痛そうで、痛くなさそうだった。明日から演目に入れる」
一拍おいて、三体のあごが、いっせいにかちかちと鳴った。奥の縄から、逆さのまま一体が腕を振った。じぶんのも見てくれ、という意味らしい。
壁際の定位置では、センパイが立っている。稽古の音のする方を、向いているような、いないような。その手前で、ドロテアが繕い物をしていた。雨の日は針仕事、と決めているらしい。針が進むうちに、小さな鼻歌になった。
初めて聞く歌だった。誰の歌かは、聞かなかった。
雨の音と、稽古の音と、鼻歌。
悪くない日だった。数字はゼロなのに、悪くない日というものが、あるらしい。
◇
夕方、雨が上がった。
上がったとたんに、客が来た。と言っても、ひよこではない。革鎧に長剣の女と、白ひげの老ドワーフと、薬袋のエルフ——灰狼の隊。うちの層では見慣れた、けれど新入りを連れてくるばかりで、自分たちが潜ることはめったにない、本職の中堅たちである。
まずい、と最初に思った。稽古したての動きは、目立つ。
思い当たる筋は、ひとつある。うちの常連の、保護者筋だ。雨で子供らが来られない日に、子供らの入り浸っている場所を、大人が一度あらために来た——そういう歩き方だった。
骨たちが、すっと配置についた。
誰も号令をかけていない。稽古をやめて、持ち場に散って、いつもの「逃げの陣形」になった。転び担当は転びやすい床へ。縄の一体は縄の下へ——外させる前に、客が来てしまった。ピンは岩陰の観測点へ。
俺は、外した松明受けを持ったまま、突っ立っていた。
……置いて、持ち場に入る。営業中である。
白ひげが一度だけ盾を持ち上げかけ、先頭の女が手で制した。三人は深追いをしなかった。ゆっくりと区画をひと回りして、骨たちの逃げ足を眺めていく。追われてもいないのに、転び担当が持ち場で一度、律儀に転んだ。稽古したてのやつを、誰かに見せたかったらしい。——おい、それは今出すな。白ひげの肩が、笑いをこらえる形に揺れた。
エルフは歩きながら、ずっと手帳に何かを書いていた。ページをめくる音が、二度した。
「……今日も、足りません」
と、小さく言うのが聞こえた。
見送りは、店主の仕事である。俺は転がったついでに、出口の見える岩陰まで移っていた。
先頭の女——アデルが、途中で一度だけ立ち止まった。
視線の先に、俺がいた。
逃げながら、指を折って、数えている俺が。
彼女は何も言わなかった。値踏みの目でもない。何かと何かを、照らし合わせるような目だった。それから隊に向き直り、引き上げていく。その背中が出口をくぐる間際、誰にともなく言うのが聞こえた。
「……なんだよ、あの区画。——また来るぞ」
また来るぞ、は、うちの帳面でいちばん重い言葉である。ピンが岩陰で、猛烈な速さで何かを書き付けているのが見えた。
もっとも、あれが客としての「また」なのかどうかは、分からない。帳面は事実だけを書く。解釈は、別の欄だ。
◇
夜になって、縄は外させた。稽古の連中も裏へ下りて、洞窟は静かになった。
俺は壁際の窪みの前に立って、今日の数字を報告した。
「見学、三。挑んだ客、ゼロ。討伐、ゼロ。撃退、ゼロ。……また来ると言った客、一。たいまつの掛け替え、三つ。残りは、明日」
それから、少し考えて、付け足した。
「転びの稽古、三体。縄の稽古、一体。誰も、指示してない。——いい一座に、なってきた」
一座。区画とか、持ち場とか、在庫とか、ずっとそういう言葉で数えてきた場所が、口に出したら、そう見えていた。
思えば、最初の夜は、数え直すところから始めたのだった。誰が何を持っていて、この区画に何が残っているのか。数えて、任せて、帳面ができて、客がついて——ひと月経ったら、雨の日に勝手に稽古をする連中になっていた。数えたものの中でいちばん増えたのは、灯でも、グリムでもない気がする。なんと呼ぶのかは、まだ知らない。帳面の項目にするには、もう少し観察がいる。
返事は、ない。いつものことだ。
報告を終えて、夜番を今夜の当番に引き継いで、裏へ下りようと、三歩ばかり歩いた。
そのときだった。
こつ、と一度。
いつもより、ずいぶん遅れて、鳴った。
俺は立ち止まった。振り返らなかった。振り返ったら、何か言ってしまいそうだった。今日の分は、もう全部、報告してある。
……明日の分を、また持ってくる。
それだけ思って、俺は裏への通路を下りた。天井のしずくはもう止んでいて、洞窟はただ、静かだった。




