第四篇 雨
「大丈夫、──が守ってあげる!」
白いワンピースを着た少女が、こちらに手を伸ばす。涙を堪える俺は、引き寄せられるようにしてその手を掴んだ。
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泡沫の人魚姫 第四篇 雨
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瞼が開き、いつもの天井の模様が目に入る。懐かしい夢を見たせいで、起き抜けの気分は最悪だった。昨日、学校から帰ってシャワーも浴びずにそのまま寝たのが原因か、体もどこか気持ち悪い。しまいに外の天気が悪いのか窓から差し込む光もなく、部屋は陰鬱とした空気のままだった。
海には、三日間行ってなかった。
行かなかったというより、行けなかったのだ。幽霊の話を真に受けたなんて理由じゃなく、単純に少女への気まずさからだった。
白い指先が腕に触れたとき、思わずその手を払いのけてしまった。表情は決して見えなかったが、声色だけで分かる。彼女は傷ついていた。
だからといって、俺がどうこうしてやる必要もないけれど。幽霊にも嘘つきにも思える相手に、関わって得することなどひとつもないのだから。
頭に浮かぶあの奇妙な挨拶を振り払い、ベッドから体を起こす。階段を下って行くと、一階のリビングスペースからトマトソースのいい匂いが漂ってきた。休日の朝のキッチンでは、山川さんがロールキャベツを煮込んでいた。
「おはようございます、凛久さん。ちょうどできるところなので、よそっておきますね」
「いや、後で食べるよ。水だけ飲んで勉強するから」
キッチン棚からグラスを取り出し、冷やしていた天然水のボトルを傾ける。山川さんは不服そうに目を細めていた。
「……なに?」
「最近、後回し癖がついてませんか? 勉強をするにもエネルギーは必要です。騙されたと思って食べてみてください」
こちらが再度拒否する間もなく、底の深い食器には並々とトマトソースが注がれた。しんなりとしたキャベツにも赤がしっかり染み込んでいる。
言い返すのも面倒になった俺は、山川さんの熱意に負けてダイニングチェアに腰を下ろした。すぐにテーブルにはパンとスープも並べられ、最後に俺が持っていくのを忘れた、水の入ったグラスが置かれる。諦めてフォークを口に運ぶ俺を、山川さんは穏やかに見つめていた。
「お口に合いますか?」
「うん、いつも通り美味しいよ」
「それはよかったです」
テンプレートみたいな会話をしながら、山川さんは穏やかに微笑んでいる。彼女の残りの仕事は五分に満たない皿洗いだけであった。それでも、俺が食事中に帰宅することはないのだろう。別に、帰ったところで食事をやめたりしないのに。
彼女とは五年の付き合いになる。こうして俺の食生活を気にする様子を見せるのは、幼い頃の俺を知るせいで親心でも湧いたから、とかだろう。俺は別に、彼女のその善意を嫌っているわけではなかった。俺の周りにいる数少ないまともな大人のひとりとして、好意的に思ってはいた。父の話をすること以外は。
「そういえば、今夜は台風が来るそうですね。天気予報でも、注意喚起が出てましたよ」
「……ああ、それで今日は早かったんだ」
「ええ、午後から夜中にかけてひどくなると聞いたので、今日は午前中に仕事を終わらせたんですよ」
洗い物を終えて、静かにエプロンを畳んでいた山川さんは、近くのカーテンを軽く開けた。ダイニングテーブルから見える窓の外は、辺り一面が厚い雲に覆われていた。もうすぐ、雨が降り出しそうな気配がある。
「今日は海も荒れるそうで、さすがにサーファーも逃げ出したのか、すっからかんの状態でしたね」
家に来る途中で海を見たと語る山川さんの言葉に、あの少女の姿が脳裏に浮かぶ。その映像を振り払うかのように、俺は黙々とロールキャベツを口に運んだ。
心配などしてやらない。さすがに周囲が呆れる馬鹿だって、自分の命くらい自分で守るものだ。彼女の記憶喪失が嘘であれば、台風の日くらいは家に籠るだろうし、本当に幽霊であるのなら、風邪や死の概念なんて存在しないだろう。とどのつまり、心配するだけ無駄なのだ。周囲に聞こえない程度の小さな舌打ちが、無意識のうちに鳴っていた。
♢
時刻は夜の十一時を過ぎた頃。自室の外からは、雨が打ちつける音が響き、雨戸はガタガタと暴れまわっていた。自室のテレビをつけてみると、ちょうど台風の中継映像に切り替わる。
「七月十四日、本日においても台風九号の勢いは依然として収まりません。日本の南海上を北上し、先ほど伊豆半島を通過しました。このあと深夜にかけて、関東地方でピークを迎え、明け方に勢いが止む予報です。私が今来ています神奈川県藤沢市においても雨の勢いが強く……うわっ、このように傘が飛ばされかけるほど、外は危険な状態です。住民の皆さんは、不要な外出を控え──」
注意喚起を続ける男性リポーターの顔には、容赦ない量の雨粒が吹きつけていた。斜め前に重心を固め、じっと堪えるようにして突風に耐えている。傘が吹き飛ばされそうな様子も、演出ではなく実際に起きたアクシデントだろう。
猛烈に勢いを増す台風の様子から、画面が海の中継に切り替わる。いつもの穏やかな海が嘘みたいに、波は荒れて牙を剥いていた。中継先の海も神奈川県のものだった。家から見えるあの海でも、同じ光景が広がっているのだろう。
頭の中に、再び少女の顔が浮かんだ。ひとつ大きなため息をつき、今度は大きく舌を打った。数秒の逡巡の末、俺はビニール袋にタオルを詰め込み、階段を駆け降りた。コンビニで買えるビニール傘を片手に、真夜中の玄関扉を開けていた。
外の有様は想像を超えていた。家の前に止めた自転車は、強風によって倒れている。傘を開くも、すぐに強風によって裏返りそうになる。吹きつける雨は鋭い角度を持っていて、そもそも傘が雨よけになっていない。足元どころか胸のあたりまでびちゃびちゃになる始末。自分の馬鹿さ加減に悪態をつきながら、俺は海への道を辿る。
雨が体を冷やす中、数分間歩き続けた。とうとう辿り着いてしまった海は、中継で見たよりもひどく荒れていた。階段の上から軽くあたりを見回すも、白いワンピースは見当たらない。なんだかほっとしたような、自分の行動に呆れたような。帰ろうと後ろを振り返ったそのとき、俺を呼び止める声がした。
「りく!」
雨音に紛れて響く、透き通った少女の声。雨が強いせいか、どこから呼んだのかは分からない。
「りく、こっちよ! 岩場の方!」
階段を下った先の左手に広がる岩場の隙間から、白いワンピースが顔を覗かせていた。少女はびしょ濡れなのもお構いなく、笑顔で手を振り続けている。
「おい、傘もささずに何やって!」
「大丈夫よ、ほら、こっち」
俺が岩場に駆け寄ると、少女はその奥へと姿を消した。不思議に思って岩の間を覗き込むと、そこには人ひとりが通れそうなスペースがあった。ごくりと喉を鳴らし、彼女を追って進む。体をくぐらせた先には、洞窟のような空洞が広がっていた。
「ここで、雨をしのいでたのよ」
得意げに笑う彼女の顔へ、ビニールに保護されていたタオルを投げつける。
「嘘つけ、びしょ濡れになってる」
「それは、あなたを迎えに行ったからよ」
少女は長い銀髪をタオルで拭きながら、何でもないように告げる。彼女は元から洞窟に避難していた。俺がわざわざ迎えに行ったせいで濡れたというのなら、本末転倒である。不甲斐なさにため息をつきたくもなる。
「……ごめんなさい、嘘をついたわ。目覚めたときにはもう、雨が降っていたの。だから、あなたのせいじゃない。びしょ濡れになって洞窟で乾かしてたところに、あなたを見かけただけよ」
タオルを顔に投げられたあてつけに、つい売り言葉に買い言葉が口を出てしまったらしいが、今はそんな些細なことは気にならなかった。もっと強く、違和感を感じる言葉があったのだ。
「目覚めたとき?」
「……ええ、目覚めたとき。さっき、確信を持ったのよ。私には記憶の境界があるって」
「どういう意味だ?」
「簡単なことよ。突然、景色がズレてしまったり、晴れていた景色が大雨の中に変わっていたり。ずっと長い夜に取り残されていると思ってたの。でも、りくがいうには私のいない朝は何度も来ているんでしょう?」
「ああ。通学前に海を見ても、あんたはどこにも居なかった」
「でしょう。だから、その切り替わりを目覚めたとき……その日のはじまりだって思うようにしたの。私は、一日中ここに居るわけではないと思う。さっき急に雨に切り替わったときも、何時間も雨に打たれていたほどの濡れ具合じゃなかったわ」
「......」
「ねえ、りく。私は一体、何者なのかしら?」
あのときと一緒だった。初めて出会った日、俺の名前を祈るように尋ねたとき。普段の能天気な顔と違って、不安に押しつぶされそうな笑顔が張りついていた。それこそ、今にも消えてしまいそうな海に身を投げる前の人魚姫のようで。俺は、無意識のうちに彼女の腕を掴む。
雨に濡れた肌の体温は低い。この前触れた肌よりも、遥かに人肌から遠い冷たさだった。それでも震えそうになる指先が彼女を離すことはない。不安げに揺れる青い瞳に俺はまっすぐに目を凝らす。
岩壁を打ちつける雨音が響く中、徐々に肌が体温を帯びていった。指先の触れる場所には、もう冷たさなど感じられない。感じるのは、紛れもない人肌のぬくもりだ。
「……あんたは、ただの人間だと思うよ。少なくともこんなに温かい幽霊なんていない」
「……」
今度は少女が黙りこむ番だった。俯き、見えなくなった表情を伺うようにしゃがみこめば、銀糸のカーテンの向こうから、穏やかな微笑みが顔を出す。
「……ありがとう、りく」
ずっと、この少女は不安を抱えていたのかもしれない。彼女の言葉が事実であれば、いやもう事実なのだろう。嘘つきにこんな表情ができるなどと、信じたくはなかった。
自分が何者かも分からないまま、夜の海にひとり取り残された少女の気持ちを思うと、俺からは何も言い出せなかった。
薄暗い洞窟の中、濡れた髪から雫が滴り落ちていく。持ってきた二つのタオルは既に役目を果たし、服と同じくらいの水分を吸収していた。しばらく無言が続いたが、不思議と居心地の悪さは感じない。少女の横に座って、外の雨音を聞く。その静寂を破ったのは、少女の言葉だった。
「今日は、まだ居てくれるのね」
「ああ、雨足が弱まるまでは」
「そう……」
洞窟の外を覗き見ると、未だに横殴りの強い雨が続いていた。明け方には止むと聞いていたから、小雨になった頃に帰るつもりでいた。
「りくは、その、もう大丈夫?」
「何が?」
心配される心当たりもない俺は、質問を投げ返した。
「この前、私の手が触れたとき……あなたの顔色が酷かったし、悪いことしちゃったと思ってたの」
あの、母の病室を思い出したときのことだろう。冷たい人肌に触れると、どうしてもあの感触が頭をよぎってしまう。本音を言えば、大丈夫なはずがない。今でも指先は震えてしまうし、俺はいまだにあの情景を克服できてなかった。それでも大丈夫と、そう言い聞かせるしか道はなかった。
「……少し、嫌なことを思い出しただけだ。もう平気だって」
「本当の本当に?」
「しつこいな」
この少女も、興味本位で人の過去に踏み込もうとするのだろうか。俺の過去を暴くだけ暴いて、もう大丈夫だと正義気取りの笑顔を見せるのか。執拗に尋ねてくる少女に、思わず悪態をついてしまった。眉間に皺を寄せたまま、彼女の様子を伺う。しかし気にした様子のない少女は、嫌な笑みで何かを企んでいるように見えた。悪いことに、その予感は的中する。突然、俺の両頬は掴まれ、少女の顔が近づいてくる。拒否する間もなく近づく笑顔に、俺の思考は固まった。反射的に目を瞑ったとき、額に鈍い痛みが走る。
「いたた……勢いをつけすぎたわね」
「っ、何して」
目を開くと、まつ毛の先に触れそうな距離に深く青い海の色が広がっていた。その美しさに魅入られて、言葉を失ってしまう。
『「目を見て」』
『「深く息を吸って」』
『「そして吐き出して」』
少女の言葉にかぶさるように、幼い女の子の声が聞こえた。夢の中で、つい最近聞いたばかりの懐かしい声。俺は魔法にかけられたように、気づけば言葉の通りに動いていた。青い瞳に釘付けになりながら、肺いっぱいに息を吸い込み、ゆっくりと息を抜く。
「これで、嫌なこととはさよならできるはず。不安を失くすおまじない、なぜかこれも覚えていたの」
おまじない。その言葉で、既視感の正体を思い出す。
『りく!』
幼い俺に笑いかける、白いワンピースを着た少女。母を亡くした俺の頬を優しく掴み、おまじないをかけてくれた。少女の顔は未だに思い出せないけれど、ひとつだけ明確に分かることがある。
『大丈夫、シレーヌが守ってあげる!』
俺は、彼女の正体を知っているかもしれない。
今後は週一程度の更新となります。




